カテゴリ:絶対存在論
神の存否-154
スピノザは定理三二において、当時の西洋の思想・宗教にあって主流を占めていた人間の「意志の自由原因」説に果敢に挑みます。我々人類の思考とは神の内にあり、其の「意思」というもの、其れを実体化若しくは認識化する「意志」たるものが自由だとするのは人類の思い込みだとするのがスピノザの論理的判断です。 定理三二 意志は自由なる原因とは呼ばれ得ずして、ただ必然的な原因とのみ呼ばれうる。 証明 意志は知性と同様に思惟のある様態にすぎない。したがって(定理二八により)個々の意志作用は他の原因から決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因もまた他の原因から決定され、このようにして無限に進む。もし意志を無限であると仮定しても、それはやはり神から存在および作用に決定されなくてはならぬ。そしてこれは神が絶対に無限な実体である限りにおいてではなくて、神が思惟の無限・永遠なる本質を表現する一属性を有する限りにおいてである(定理二三により)。ゆえに意志はどのように考えられても、つまり有限であると考えられても無限であると考えられても、それを存在および作用に決定する原因を要する。したがってそれは(定義七により)自由なる原因とは呼ばれえずして、ただ必然的なあるいは強制された原因とのみ呼ばれうる。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 此の定理三二の意志は自由なる原因とは呼ばれ得ずして、ただ必然的な原因とのみとする論は、スピノザの「倫理」思想の根本であり、他の哲学や諸々の思考分野、特に唯一神教からは攻撃の矢面にされることは承知していた筈です。此れを紐解けば、神存在其のものも其の遺志のあり方は完璧故に変更の要素はなく、知性と同様に思惟のある様態にすぎない人間の意志たるや、自由原因でないのは理の当然でしょう。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年08月30日 06時10分04秒
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