カテゴリ:絶対存在論
神の存否-393
第四部定理七 感情はそれと反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。 証明:前半部 感情とは、精神に関する限り、ある観念、精神がそれによって自己の身体につき以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するある観念である(第三部の終りにある感情の総括的定義 精神の受動状態(アニミ・パテマ)と言われる感情は、ある混乱した観念、精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定するような、また精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定されるような、ある混乱した観念である。説明 私はまず感情あるいは精神の受動は「ある混乱した観念」であると言う。なぜなら、すでに我々の示したように、精神は非妥当な観念あるいは混乱した観念を有する限りにおいてのみ働きを受けるからである。次に私は「精神がそれによって自己の身体あるいはその一部分について以前より大なるあるいは以前より小なる存在力を肯定する」という。なぜなら諸物体について我々の有するすべての観念は外部の物体の本性よりも我々の身体の現実的状態をより多く表示するものであるが、特に感情の形相を構成する観念は、身体あるいはその一部分の活動能力あるいは存在力が増大しあるいは減少し、促進されあるいは阻害されるにつれて、身体あるいはその一部分が呈する状態を表示ないし表現しなければならぬからである。しかし注意すべきことは、私が「以前より大なるあるいは以前より小なる存在力」と言っているのは、精神が身体の現在の状態を過去の状態と比較するという意味ではなく、むしろ感情の形相を構成する観念が身体について以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を実際に含むようなあるものを肯定するという意味だということである。そして精神の本質は精神が自己の身体の現実的存在を肯定する点に存するし、また我々は完全性ということを物の本質そのものと解するから、したがって精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前より大なるあるいは以前より小なる実在性を含むようなあるものを肯定するごとに、精神はより大なるあるいはより小なる完全性に移行することになる。だから私がさきに、精神の思惟能力が増大しあるいは減少するとよく言ったのも、精神が自己の身体あるいはその一部分について、以前に肯定したよりもより大なるあるいはより小なる実在性を表現するような観念を形成する、という意味にほかならなかったのである。なぜなら、観念の価値とその現実的な思惟能力は、対象の価値によって評価されるからである。 最後に私が「精神自身がそれの現在によってあるものを他のものよりいっそう多く思惟するように決定される」と付加したのは、定義の始めの部分に説明されている喜びおよび悲しみの本性のほかに、欲望の本性も表現しようとしたためであった。)により。 哲学・思想ランキング お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年04月28日 06時10分04秒
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