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アテネを夕方に出発した。その日、シエスタと称して存分に昼寝をしてしまっていた。飛行機内では、一睡もすることなく、パキスタンのカラチに到着。
十二時間の待ち時間があったため、空港で一緒になった日本人八人を誘い、一日一人一ドルでタクシーを借切り、一台のタクシーに九人が乗り込み、「どこへでも行ってくれ」といい、存分に回る。前は運転手と女の子三人。後ろは野郎六人。建国者のモスクを経てアラビア海のほとりに。左前方に難破船。荒い波に観光用ラクダ。右前方に小さな島が点在。運転手がさりげなくチャイをご馳走してくれた。支払おうとするが、「ここは俺の庭だ。気にするな」といった。そして空港に戻ると、皆はパキスタンで余ったお金を彼に渡す。彼はなかなか商売がいまいぞ。我々がそんまま去ることを察知していたので九ドルで請け負ったのだな。そしてプラスαを充分に見込んでいた。 空港の滑走路から太陽を見上げ、渋く「さらば」といってみるが、その光景を微粒だに動かぬ兵士が何の感慨もなく見られた。 夕方、飛行機は出発、お喋りのうちに、夜中、バンコクに。 正直、私は、久しぶりの日本語に飢えていたのかも知れない。 正直、八人のいち私だけが、アジア体験者で、勝手に隊長に任命されたことが、快感だったのかも知れない。 正直、ヨーロッパを巡ってきた彼ら彼女らに、たった十二時間のパキスタンが一番面白かった、それも私がいたからといわれて、少し、勘違い的自負心が芽生えたのかも知れない。 空港で夜を明かすが、スリっぽい男がうろうろしているので、目をパチリと開け続ける。駆け引きは朝まで続く。そんなに鋭い物色するような目をしていると、スリ丸出しなのだ。 朝、交通機関が動き出し、バスで、街に向かい、ホテル楽宮にチェックインするやいなや、次のチケットの予約に、ビザを取るための、フィリピン大使館と、パスポート増刷のための日本大使館と目まぐるしく回る。道に迷う。トゥクトゥクの兄ちゃんにパキスタンのK2という渋いパッケージの煙草を勧め、「急いでくれ」という。 「行くぞ。こうなったら今からビーチに行くぞ」排気ガスを吸いながらヤケクソ気味に意味なく思った。最後に、「駅に直行してくれ」といった。そこで、四十分後の列車の切符を買い、歩いてホテルに戻って、荷物をまとめる。その瞬間、五十七時間不眠の私は気を失った。 十五分後、奇跡的に目が覚める。もしかして、扉を開けっ放しにしていて、ホテルの廊下をうろつく娼婦や他の宿泊客の足音に目が覚めたのかも知れない。「危ないところだった」といい、駅に向かう。駅で荷物を半分忘れたことに気がつき、駅員を無条件に信じ、「ちょっと五分だけ」といって、荷物を持ってもらい、走る。そのとき発車十分前。宿で残りの荷物を取り、走る。そのとき発車五分前。汗が吹き出て、列車が既に、ゆっくり動きだしていた。私は顔面蒼白だった駅員から荷物を受け取り、走る。走って、最後尾に飛び乗る。汗をボトボト落としながら、混雑した車内を先頭まで歩いていく外人である私を、皆は不思議そうに見ていた。あってないような指定席に座り、風で汗を蒸発させ、焼き飯を食べる。そうそう、いつも、車内で販売している、ワゴンもお盆もなしに直接皿を持って歩き回る売り子からいつも買うのだった。スプーンは胸ポケットに差している。 タイにいて、タイを思い出す。 タイの列車について。 一、 二等列車は三等の倍の値段だが、不快さは半分以下ということは、いつも三等に乗っていれば分かる。 二、 車掌が銃を持っている。もしかして車掌ではないのかも知れない。鉄道公安官を兼ねているのかも知れない。 三、 風に一晩中吹かれると、流石に冷える。 四、 バスと違って歩けるので、尻の皮の薄い私のような奴にはピッタリだ。 五、 車内は人口密度が高い。一人が忙しくすると、連鎖反応か共振か分からないが、結構近くの人も忙しくする。ウォークマンの最大音でさえ、列車のきしむ音には勝てない。そのため、夜中というのに、人々は大声で話をしているのが笑える。しかし、列車が止まったときには、不必要に静寂となり、ビニール袋をクシャクシャ丸める音や本のページをめくる音さえ聞こえてくる。人々は機敏に声の音量を調節し、コソコソ喋っているのが、笑える。が、ときどき、環境調節の鈍い人が、走っているときと同じ大声で喋っているのが、更に笑える。それにしても、その音の差を調節し、使い分ける鼓膜は、自己防衛とはいえ、偉い。 六、 列車の揺れは人間のバイオリズムを研究して作られておるのか。波長が合えば、心地よさのため、眠ってしまう。あの排他的爆音と、エアコンデショナーカーのモーター音さえなければ。 七、 走行中も昇降口が開きっぱなしというのは、画期的に良い。自分の責任は自分でとるという明確な意思の現れであるし、早く降りたい人や飛び乗る人の危険度を省みない自由がある。第一、安全に閉じ込められるのが、基本的につまらない。責任擦り付け合いの保護第一主義ではひ弱になる一方である。車内放送など、ない。降りる奴は降りるのだ。白線などない。自分がどれほど危ないか分かっているのだ。 八、 列車の揺れや音や風にも負けず、或いはボロ負けしてか、座ったまま不快そうにも 寝てしまう人間とは、素晴らしき生理的欲求だる。その環境への順応さは、悲しい かな、爆音の時に不快そうに眠りながらも、列車が急停車して静寂が訪れると、変 化に対応しきれず、起きてしまう。そして、また列車が動き出し、不快度が増すに つれて、安堵も増し、眉間に皺を寄せて眠っていくのである。 そんな訳で、六十時間中十五分睡眠を除く不眠状態は、焼き飯を食べ終えた瞬間に途切れる。初めて題目のついた夢をみる。「流星になったポケット」 それは地域には、その地域のやり方と伝統があるという国籍不明の長老のつぶやきと、太古からの宇宙的渦巻きの中心に収束されて、天文学的時間をかけ長老の談話と共にポケットに吸い込まれ、それが流星になっていくというメタファーを含んだ夢であった。 汗をかきながら、列車の硬い席にうなだれる私を、第三者の私が、近くから見ている感覚になる。列車が走り、止まり、そのたびに、その変化に気がつき、目を覚まし、スラタニー駅はまだだと、思い、眠る。1秒で起きることができるほどの浅い眠りだが、簡単には起きることができないぐらいに眠いのだ。砂風に当たる不快と、戦いながらも起きることができないのだ。 朝、列車を下り、バスに乗り換え、船に乗り換え、ジープに乗り換え、正月のビジネス街より十分静かなビーチに到着した。波は薄かった。海から一番近い一番安い一番狭い朝日を拝めるバンガローを与えてもらう。海水に濡れるまで十六歩。 草履を投げ出し、衣服を全部洗濯し、着る服がなくなってしまった。 1週間、もう誰も、何も、関係ない。もう生まれたままの姿で気を失った。 二〇〇七年夏 メキシコ行き失敗 メキシコ行き失2敗 サンフランシス1コ サンフランシスコ2 サンフランシスコ3 サンフランシスコ4 サンフランシスコ→成田→バンコク 矯正博物館 バンコク原点序章1 バンコク原点序章2 歓楽街にて コンドムレストラン クルンテープにて 1985年のロンリープラネット 1987年バンコクから南下 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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