主題に入る前に副題ではなく、脇道である。昨日、中華航空が那覇で爆発したが、そのビデオを見ていると、音声が入っており、若者が「ヤバイ、ヤバイよ、超ヤバイよ」と聞こえてきた。オマエがやばくない?と一瞬思った。先日の飛行機の中で、末広涼子がバブル時代1990年にタイムマシンで戻る映画を観た。過去に戻った末広は「それやばいよ」といって、感心するのだが、「君、やばいとは、あぶないときに、使うのだよ」と直されてて、吹き出した。「君、シャツが短いよ、おへそがでてるよ」と何人もの人に注意もされていた。末広は、ボディコンの人見て「眉毛濃ゆ!」といっていたが、何か、ボディコンの人が、東南アジア人に見えた。
カオサンはタイの主に西洋人の集まる安宿街である。
何を隠そう、カオサンには十数年ぶりにやってきたのであった。それはそれは、すごい変わりようで、パンパンに膨れ上がっていた。私が、批評をすることは何もないが、バンコクというより、旅行者の大型溜まり場であり、現地タイ人の外人ビンボウ人覗き通りという感じであった。
当時、何十泊もしたVSクリニックを探すのにも、一苦労するぐらいであった。脇道に入る通りが分からなかったぐらいである。しかし、徐々に、この路地の椅子でスイカシェイクを飲んだとか、NATゲストハウスでビデオ見たとか、思い出しつつあった。
私がカオサンに西洋人が集まっているということを知ったのは、チェンマイで知り合った西洋人と話をしていて、バンコクの宿について、この通りに安宿がいっぱいあるんだよ、ということを教えてもらったのであった。当時、私は、カメラを壊したことを彼に話し、一眼レフを彼が売ってくれるというので購入しようと腹巻に巻いた財布を見ると、見事に、ほとんどのお金を抜き取られていることに気がついたのであった。多分、チャンマイに来る寝台車でやられたのであろうか。怪しいのは同じ旅行者だ。それにすぐに気がつかないように、9割ぐらいを抜き取っているのだ。チラッと見るだけでは、あると、勘違いするぐらいであった。そんな訳で、彼からカメラを買うことはできなくなった。彼は、「あ、そう」といって終わったのであった。
すると、偶然、
楽天日記の竹亭さんの店を偶然発見してしまう。しかし、午後4時前だったのだが、順調にずっと店は開いていたので、緊張しながら店に入った。思わず、40歳前後、日本人が一人だけ、飯を食っていたので、夜に備える竹亭さん本人と勘違いし、声をかけそうになったが、どうやら店にオーダーしている姿を見て、挙げた手を、ふにゃふにゃと、下ろしたのであった。着物を着たタイ女の子の従業員がニコニコ注文を採りにきたのだが、まだ、夕食でもないので、大便でなく大瓶のビールを注文、あとは、お腹を押さえて、お腹いっぱいポーズをとった。ビールまで注いでくれたありがとうと思ったら、2杯目まで注いでくれた。
昔、タイを自転車で縦断している頃、ある町で、昼間から贅沢にビール飲もうと思って注文したら、誰も他に客はいなくて、ウエイトレスの女性が、私の後ろに待機して、私が飲み干すのをじっと持っていたことを思い出した。2杯目を注いでくれるためだけに、背後に立っていてくれたのだが、それは緊張したなあ、というあっさりしたことを思い出した。
竹亭さんに、メッセージを書く。一人だけ、背広を着た男性がいたので、もしかして、あのタイ人化した人が、本人さんかと思い、思わず、声をかけてみたが、従業員の方であった。
昼間からちょといい気分になって外に出る。カオサンの左も右も突き抜けられるようになっており、木造のゲストハウスは軒並み、鉄筋に変更されておる。
民主記念塔を見ると、これまた懐かしい気分になるのである。こんなに綺麗だったヵな。
なんだか、またもやなつかししリーズだったわ。
まとめ、解説
調べによると、カオサンのゲスト第一号は1978年、ボニーゲストハウスであった。
また今度、昔のガイドブックを調べなおしてみる気分に今なったのであるが、たしか、地球の歩き方第一号にしてもカオサンの宿紹介は、1ページの半分もなかったよな気がする。初めて行ったときは、地球の歩き方がなかったので、私のガイドブックは、ロンリープラネットであった。そこにも、そんなに詳しくは載っていなかったような気がする。
90年代に入り、私もカオサン中心に泊まるようになっていったのだが、このあたりから、タイも急速に発展しだしたのである。それと同時に、チャイナタウン周辺の宿が急速に衰えだしたのであった。それについては、私の体験の中にはないのだが、どんどんつぶれていったということはそういうことなのだろう。チャイナタウンでは、安チケットが買えなかったのであることもあろうが、日本人も普通の旅行者も来る(普通ってナンだ?)ようになって、より安全性を求めるようになったのであろうか。確かにチャイナタウンは治安がよろしいとはいえない。80年代ぐらいまでは、周りにアジアに行く人もそう多くなく(私の周りは別だけど)、根性や覚悟のようなものが必要だったのかもしれないが、その分、多少治安が悪くても、面白い方を選んだのかもしれないが、90年代以降、そうではなくなったのであろう。チャイナタウンの分、皆、カオサンに向かったのであろう。そして、今では、サイアムスクエア近く、国立競技場前のソイカセムンソンあたりもよろしいらしい。国立競技場・・・私が初めて泊まったタイの宿である。1泊150円であった。
ともかく、確実にいえることは、当時の私は、20年もたてば、私も、まともな大人になるものだと思っていたことぐらいである。
二〇〇七年夏
メキシコ行き失敗
メキシコ行き失2敗
サンフランシス1コ
サンフランシスコ2
サンフランシスコ3
サンフランシスコ4
サンフランシスコ→成田→バンコク
矯正博物館
バンコク原点序章1
バンコク原点序章2
歓楽街にて コンドムレストラン
クルンテープにて
1985年のロンリープラネット
1987年バンコクから南下