「十五代目 片岡仁左衛門」写真集
十五代目片岡仁左衛門ほだされるように買い物をしてしまうことがある。よく「目が合ってしまった」などと言い訳をする。ペットの場合など「あの子が私のほうを見て、連れて帰ってって頼んでいた」とか。買い物も恋も、同じく一期一会。つかまってしまったら、もうどうしようもない。あの「目」に魂をぶちぬかれてしまったのだから……。1冊の本を買うといっても税抜きの定価25000円という、私にとってとてつもない買い物なのだが、これほど満足のいく買い物も、今まで経験したことがない。これがあれば、歌舞伎座が改築のために閉まっても、自分の脳内でいくらでも歌舞伎とあそべるような気がするほどである。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・この仁左衛門の写真集の特徴は、ほとんどすべてが舞台写真のみ、という点。中村勘三郎の50歳の誕生日会の席で、「ぼくの写真も撮ってぇな」と仁左衛門が篠山紀信に言ったその一言から始まった撮影だった、と紀信のあとがきにある。仁左衛門の所望は、「仁左衛門という役者ではなく、個々のその人物を撮ってくれ」そのときから4年間、紀信は東京、大阪、京都、そして比叡山で行われた公演とほぼすべての舞台を撮りまくる。仁左衛門によると、紀信はそのほとんどを、ただ1日の公演で撮りきったそうだ。ひと月の興行のあの日のあの場面、この日のこの場面の切り貼りではない。「今日しか来れないお客さんのために、毎日全力で勝負する」長嶋茂雄の言葉である。役者もまた、連日演じても舞台の呼吸は一期一会。「その物語」の「その人物」の「その日の生きざま」を彼はスポーツ選手のオリンピックでの決勝のひと試合を記録するごとくファインダーにおさめたことになる。「一瞬たりともカメラから目がは離せない。 劇場の最後部から顔のアップまで撮れる超望遠レンズで見る氏は、 驚くほど繊細な演技をしている。 それほどまでに全神経が行きわたり、 見るものを虜にする魅力にあふれていた」多くの才能をファインダー越しにとらえてきた紀信をして、そう言わしめた舞台上の仁左衛門。紀信は、その感動を、虜にされた魂の高ぶりを、本当に見事に「写真」に切りとっている。いわゆる「歌舞伎舞台の写真」とはまったく異なる次元と言ってよい。役柄の喜怒哀楽が、これでもかというほどに爆発している。一枚の写真から透けて見える、ドラマ性。「仮名手本忠臣蔵」大星由良之助の無念が、覚悟が、「碇知盛」の平知盛の断末魔が、「油地獄」の与兵衛の豹変が、「お軽・勘平」では追い詰められた勘平のやるせなさが……。写真の中の彼らの声が聞こえる。今にも、動き出しそうな勢いだ。どの写真にも、「時間」が流れている。紀信の目によって写真に封じ込められた時間が、見るものの瞳を通して堰を切ってあふれ出すのである。最初の写真は「道明寺」から伏し目がちな菅原道真。二枚目も、同じく道真。同じ角度の同じような写真だが、よりアップになっている。二枚目の頬には、涙の伝った跡がはっきりと見える。「碇知盛」の場面では、狂気の形相で血をなめる場面には、思わず背筋を寒くする。碇を持ち上げ仁王立ちするまでが、連続写真のように4枚のアップで描写。「綺麗なだけでは駄目だ。役の性根が写っていなくては…」と仁左衛門に言われたというが、まさに私たちが歌舞伎で観たいと感じるカタルシスのすべてがこの写真集にはつまっている、といえよう。一方で、「吉田屋廓文章」の伊佐衛門をはじめ、シフォンのように優しく柔らかい微笑みもまた、私たちをとろけさせる。「盟三五大切」で、の首を抱える源五衛門の横顔写真2枚。ほとんど同じカットながら、一枚は遠い目をしている。女の不実が許せずに、復讐を遂げた直後の放心と虚脱。そしてもう一枚は…。伏し目がちに懐の首を、いとおしくそっと抱きしめるのである。首を切り落とすという行為は、復讐であると同時に究極の「所有」でもある。 この女が好きだった。好きだった。 好きだったのに……。彼の気持ちが伝わって、ただの写真に涙がこぼれる。私が仁左衛門を愛する由縁は、こうした細部の演技にも愛情がこもっているところだと思う。そこを見逃さない篠山紀信という天才に、心から感謝したい。同包の「十五代目 片岡仁左衛門 芸談」は、これも仁左衛門自身が関容子氏に聞き書きを依頼してしたもの。写真に写る演目、そこで演じた登場人物について、仁左衛門がどんな役作りをしているかが非常にわかりやすく、そして大変詳しく、書かれている。「父を始め、先輩方から教えを頂いたもの、また それに私なりの解釈を加えたものを含め、 あくまで私の私感、感性で、 それをお話しした時点での考え方、演じ方」を語った、とある。仁左衛門の「芝居作り、役創り。毎日の舞台に臨む心構え」先代から引き継いだ「宝」によって結実した「今」を残しておきたい、次の世代に伝えなければ、という気持ちになった。役者として、それだけ充実した舞台を踏めている証拠である。十年先に、また芸談を出したい、ともある。「生」の芝居に中で変化する仁左衛門をこれからも楽しみに見ていきたい。誰にでも薦められる値段ではないけれど、一回の舞台を見る以上の感動がある。今在架があるかどうかは確認してはいないけれど、国立劇場の図書館には配されるはずなので、買えないけれど絶対見たい、という方は、国立劇場図書館へ。