431759 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

偉大な牛

偉大な牛

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

ラタナコーシン

ラタナコーシン

カレンダー

カテゴリ

バックナンバー

2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月
2023年11月
2023年10月
2023年09月
2023年08月
2023年07月

コメント新着

松永弟@ Re[2]:立ち茗荷(10/10) 松永弟さん メッセージ書かないうちに送…
松永弟@ Re[1]:立ち茗荷(10/10) ルミコさん >つい最近、我が家も&quo…
ルミコ@ Re:立ち茗荷(10/10) つい最近、我が家も"立ち茗荷"…
松永@ Re:立ち茗荷(10/10) 我が家も立ち茗荷です 珍しいですよね…
無料@ アクセス記録ソフト 無料 楽天 アクセス記録ソフト! http:/…

お気に入りブログ

能登半島・野崎に到… convientoさん

ある国語教師の夜の風 1973のピンボールさん
ナンカ・足リナイ ゆるゆる*プリンさん
Novlog NOVICさん
あやしいふるほんや… はるる!さん

ニューストピックス

2008年07月17日
XML
カテゴリ:読書日記
奈良に行くことが決まった。

今回は伊勢神宮、熊野はあきらめた。

まず、1日目、高野山にいって観光し、宿坊に泊まる。
翌日山を降りて、奈良に行き、奈良の寺々を観て周る。
そのまま大阪に行って弟の家に泊まる。
そして翌日帰京。

よし、これで行こうと。

宿坊に電話したら思いの外、空いているとのこと。
1泊1万円もするのだが、これもいい経験だ。

宿がなんとかなったところで、勉強を開始する。

奈良の仏像に関する本。古寺巡りに関する本をいくつも買いこんで来ては、読み漁る。

旅行に行くときは決まってそうである。
行くところの故事来歴、さまざまな宗教、歴史、文化、風俗などを多少なりとも予習せずにはいけないのである。

これはひとえに私が貧乏性だからなのであって、行ったあとでおもしろい逸話とかを知ると、「勿体ない」と思ってしまうのである。
なので、なるべく予習してから旅に出かけるようにしている。
その方が自分の楽しみが増えるというわけだ。

ところで奈良と云えば、やはりなんといってもまず『古寺巡礼』であろう。

こじじゅんれい.jpg 

哲学者、和辻哲郎が、大正7年の初夏に奈良に遊んだときの印象、批評などをまとめたものである。
その確かな、かつ東西両文化の広範囲にわたる該博な知識と優れた直観力でもって、古寺や仏像にまつわる美というものを見事にとらえた名著で、当時和辻が29歳であったことを考えると、いくら称賛してもしたりない、間違う方なき名著中の名著である。
 

和辻の本を片手に古寺を周るインテリ学生が後をたたず、一種の聖書と化したこの名著。
これまで持っていただけで読んだことはなかったが、これを機に読んでみた。
 

一方で、かつては小林秀雄とも並び称されたとされる批評家、亀井勝一郎。
彼の奈良の旅行記が、『大和古寺風物誌』である。

大和古寺風物誌.jpg

以下は、てっとりばやく話を纏めると、両者を読んだ雑感である。
別に理論だってもいないし、そのような気がしたという程度のものである。

和辻の『古寺巡礼』はまさに名著といわれるだけあって、読んでいて非常に知的好奇心をくすぐられるし、
大正時におけるスノビッシュな若者の感性と野心が手に取るように見えて心地よい。
いまだ身をたてきらない和辻が、それでも自らの才と感覚とを信じて毅然としているのを見ると、非常に羨んだ気持ちになる。

だが、「仏教美術」なる言葉が本当に可能なのか。
宗教と美とを分析して取り出すことが可能なのだろうか。
和辻のそうした明晰な視線、たとえば次の文章に明らかである。

「われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり越えてはいない」


一方で、亀井ももちろん確かな知識に裏打ちされてはいるが、個人的には和辻と比べるとやや分が悪い気もする。
実際の知識量云々よりも、亀井の方がより煽情的であって、和辻の明徹で冷めやかな視線とは、一線を画するのである。

たとえば、斑鳩宮や法隆寺に関するくだりで、亀井は、聖徳太子(上宮太子)に対する尊敬の念を隠そうともしない。
そこにあるのは、幼子のそれにも似た、まっすぐな尊崇のまなざしである。

戦時中、仏像を疎開させようとした意見があったことに対して、亀井はこういう。

「仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという世迷い言が出るのであろう」

亀井にとっては、仏像とは美術品では決してない。
仏教美術、宗教美術などというものは存在しないのだ。

博物館形式で仏像を保管する寺院を見て、亀井はいう。

「云わば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずのうちに堕ちていくのではなかろうか」

「唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の治世は猛烈な抵抗を開始するのだ。すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうとするという欲求にかられるのである。現代人にとっては、こうした知的動きは賞賛さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ」

「東京ラブストーリー」「あすなろ白書」などのマンガで知られる、柴門ふみの『ぶつぞう入門』は非常にいい本だ。

ぶつぞう入門.jpg

柴門女史が、率直に直観的に仏像を語り、これを読むと自分も仏像に会いに行きたくなる。

ところで、柴門は、運慶快慶に代表される慶派の作品が好みのようだ。
動き出さんばかりのリアリズム、写実主義は、確かにそれ以前の仏像とは明らかに違う。
武士の時代の息吹が感じられる、そうした仏像が多い。

しかし、亀井は問う。

「仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か」

結局、写実性をほめそやすのは、彫刻美術としての技量の進歩を評価するに過ぎない。
それは、結局人にとっての写実性に過ぎないではないかと。

「古人が「仏」の実として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果たして正しいだろうか。「私」の美的恣意に基づく感傷によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って冒涜であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではないだろうか」

いずれが正しく、またいずれが優っているというのではない。

ただ、私は亀井の言葉、亀井の問いに深く共鳴した。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2008年07月24日 00時43分33秒
コメント(0) | コメントを書く
[読書日記] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.