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カテゴリ:読書日記
奈良に行くことが決まった。
今回は伊勢神宮、熊野はあきらめた。 まず、1日目、高野山にいって観光し、宿坊に泊まる。 よし、これで行こうと。 宿坊に電話したら思いの外、空いているとのこと。 宿がなんとかなったところで、勉強を開始する。 奈良の仏像に関する本。古寺巡りに関する本をいくつも買いこんで来ては、読み漁る。 旅行に行くときは決まってそうである。 これはひとえに私が貧乏性だからなのであって、行ったあとでおもしろい逸話とかを知ると、「勿体ない」と思ってしまうのである。 ところで奈良と云えば、やはりなんといってもまず『古寺巡礼』であろう。
哲学者、和辻哲郎が、大正7年の初夏に奈良に遊んだときの印象、批評などをまとめたものである。 和辻の本を片手に古寺を周るインテリ学生が後をたたず、一種の聖書と化したこの名著。 一方で、かつては小林秀雄とも並び称されたとされる批評家、亀井勝一郎。 以下は、てっとりばやく話を纏めると、両者を読んだ雑感である。 和辻の『古寺巡礼』はまさに名著といわれるだけあって、読んでいて非常に知的好奇心をくすぐられるし、 だが、「仏教美術」なる言葉が本当に可能なのか。 「われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。たといわれわれがある仏像の前で、心底から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり越えてはいない」
たとえば、斑鳩宮や法隆寺に関するくだりで、亀井は、聖徳太子(上宮太子)に対する尊敬の念を隠そうともしない。 戦時中、仏像を疎開させようとした意見があったことに対して、亀井はこういう。 「仏像を単なる美術品と思いこむから疎開などという世迷い言が出るのであろう」 亀井にとっては、仏像とは美術品では決してない。 博物館形式で仏像を保管する寺院を見て、亀井はいう。 「云わば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずのうちに堕ちていくのではなかろうか」 「唯一者への全き帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰という分別を超えた問題に面すると、僕の治世は猛烈な抵抗を開始するのだ。すべてを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界を心得ている筈だ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明しつくそうとするという欲求にかられるのである。現代人にとっては、こうした知的動きは賞賛さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ」 「東京ラブストーリー」「あすなろ白書」などのマンガで知られる、柴門ふみの『ぶつぞう入門』は非常にいい本だ。
柴門女史が、率直に直観的に仏像を語り、これを読むと自分も仏像に会いに行きたくなる。 ところで、柴門は、運慶快慶に代表される慶派の作品が好みのようだ。 しかし、亀井は問う。 「仏像における彫刻性あるいは写実性とは何か」 それは、結局人にとっての写実性に過ぎないではないかと。 「古人が「仏」の実として写したものを、人体にひきおろして鑑賞する態度は果たして正しいだろうか。「私」の美的恣意に基づく感傷によって仏像を解しうるだろうか。信仰の上から云って冒涜であるのみならず、あらゆる点から云ってそれは虚偽ではないだろうか」 いずれが正しく、またいずれが優っているというのではない。 ただ、私は亀井の言葉、亀井の問いに深く共鳴した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月24日 00時43分33秒
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