さて、興福寺の本体の方である。
国宝館を出るとそこはもう境内の入口だ。
先にも記したとおり、興福寺は法相宗の総本山である。
一千年にわたって君臨した貴族である藤原家の氏寺であって、開基は藤原不比等である。
南都北嶺というように、興福寺と延暦寺はやはり別格なのである。
奈良・平安の時代において法師どもは、権力の頂点にあり、
自分たちの意思を通すために春日大社の神輿を担いで回る「強訴(ごうそ)」をいうものを繰り返した。
ところで、『隠された十字架』によれば、本来四大寺とは、官寺である大官大寺(大安寺)・川原寺(弘福寺)、蘇我氏の氏寺である元興寺(法興寺)、そして薬師寺であったという。
そのなかで、奈良に遷都するにあたり、蘇我氏の氏寺である法興持は飛鳥の地に残され、残る3つは移転した。
そして、弘福寺は、いつのまにか興福寺に入れ替わられてしまったのである。
弘福寺は「ぐふくじ」と普通読むが、「こうふくじ」とも読める。
官寺であった弘福寺が、いつの間にか藤原氏の氏寺と入れ替わってしまっている。
しかも興福寺は、その中の筆頭的な地位を占めるにいたるのである。
もともと、藤原氏は中臣氏であったが、鎌足のときに藤原の姓を賜っている。
中臣は、もともと廃仏派であったにも関わらず、奈良遷都したことを機に一挙に仏教の保護者に変わってしまうのである。
世俗的権利の確立とともに、宗教的支配をも確立させるのである。
むろん、このころは、その2つは峻別されていなかったことだろう。
だからこそ、宗教的権威・権力を有することは、藤原氏の隆盛にとって欠くべからざるものであった。
興福寺の東金堂に入る。
東金堂(国宝)は神亀3年(762年)、聖武天皇が伯母にあたる元正太上天皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊を安置する堂として創建したとされる。
中には、定慶がわずか53日間で作成したとされる木造維摩居士(ゆいまこじ)坐像(国宝)がある。
上宮太子があこがれた、あの維摩である。
また、木造の四天王像がある。
平安初期の作とされるが、鎌倉風と同じように写実的である。
木造十二神将立像(国宝)があるが、こちらは鎌倉期のものらしく、非常に動きにダイナミズムがあり、写実的である。
室町期の作とされる銅造薬師三尊像(重文)があり、
その脇侍仏として、日光・月光菩薩があるが、通常のものより大きい気がする。
東金堂を出て、さすがに疲れた。
夕陽が傾き始めている。
時間は5時。
今晩は弟の家に泊めてもらうため、弟に電話してみる。
すると、京都に今来ている、もう少し遅く来てほしい、などという。
境内をぶらぶらして五重塔を眺めて居た。
法隆寺のものよりもずっと大きな塔だ。
少し疲れたので興福寺の境内に座り込んでいた。
夕陽に照らされた五重塔が美しかった。
やることもないので、文庫本を取り出して読んでいたのだが、何時の間にか眠ってしまったようだ。
19時近くになったので、帰ることにする。
一言観音堂と南円堂を参拝して、興福寺を後にした。