いったん家に戻って少しだけ休む。
そうしてから、今度は、四天王寺へ。
四天王寺へ向かう道は、小さな商店街が続いており、非常に活気がある。
大阪のこういうところは観ていて、それとなく嬉しい。
四天王寺の起源は、上宮太子が、物部氏との戦の折に戦勝を四天王に祈願したところ、おかげで勝ったので建立したものだといわれる。
wikiにはこうある。
敵の物部守屋は稲城(いなき、稲を積んだとりで)を築き、自らは朴(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した。聖徳太子こと厩戸皇子(うまやとのみこ、当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況を見て、白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王形を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王を安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって、味方の矢が敵の物部守屋に命中し、彼は「えのき」の木から落ち、戦いは崇仏派の蘇我氏の勝利に終わった。その6年後、推古天皇元年(593年)、聖徳太子は摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺の建立に取りかかった。寺の基盤を支えるためには、物部氏から没収した奴婢と土地が用いられたという。(なお、蘇我馬子の法興寺は上記の戦いの翌年から造営が始まっており、四天王寺の造営開始はそれから数年後であった。)
日本で最初の仏教の寺なのである。
いたるところに「日本最初」とあるが、「日本最古」でいいのではないかと思う。
同じようなことを柴門ふみも飛鳥寺を訪れたときに云っていた。
今日は月の市がたっているらしく、多くの人で境内があふれかえっている。
四天王寺の境内では、空海の像があって、四国八十八か所の碑がある。
ここですべての碑に触れながら願いを込めて周ると、八十八か所巡りに替えることができるらしい。
弟と観ていると、なんかヘンなおばさんがやおら近づいてきて、やたらとお遍路めぐりを勧めてきた。
よくわからないが、そのうち行くよ、と云っておいた。
中心伽藍を見に行く。
仁王門、五重塔、金堂、講堂とならぶ、いわゆる四天王寺様式は、もっとも古い伽藍配置ではあるが、
そのすべては火災に遭っており、現在のものは二次大戦後に鉄筋コンクリートで作られたものである。
弟と2人で、五重の塔に登りそこからの眺めはよかったが、やはり中は鉄筋で、風情という意味では若干物足りない。
金堂では、上宮太子の本地仏とされる救世観音。
講堂では、阿弥陀如来と十一面観音が安置されている。
そして、日本仏教の祖として上宮太子が讃えられており、
最澄の天台宗、空海の真言宗、法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の法華宗、一遍の時宗
のそれぞれの八祖がすべて上宮太子を尊崇していたとしている。
そういう意味で、四天王寺こそが仏教の基点であるとうたっているのである。
他にも、経堂、五智光院、本坊庭園などもあるが、あまりに暑いのでちょっと厳しい。
上宮太子が祭られている石灯籠をみて帰った。
帰り道では、仏教関係を多く取り扱っている書店があったので、ここでしばらく散策する。
数冊の本を買って、再び弟の家にたどり着いた。