カテゴリ:シリーズ京歩き
数ある京都の神社の中でも、最も人気が高く、その代表ともいえる神社が平安神宮でしょう。 今や多くの観光客が訪れる、京都観光の中心地となっていて、 また、平安神宮のある岡崎公園周辺は、美術館や文化会館などが立ち並ぶ、 京都における、文化施設の中心地ともなっています。 平安神宮とは、平安京の創設者である桓武天皇と京都最後の天皇となった孝明天皇を祭神として祀っている神社。 しかし、その歴史はというと、 明治28年(1895年)の創建ということで、京都の中でも、かなり歴史の浅い神社なのであります。 でも、この平安神宮とは、いったい、どういう経緯により創建された神社なのでしょう。 実は、この平安神宮の社殿というのは、明治期に行われた「内国勧業博覧会」という催しのメインパビリオンとして造られた建物がその前身であり、 この博覧会を京都に招致するに至った「平安遷都1100年祭」というイベントを通して、 京都の復興を目指す京都市民の熱い思いが、この平安神宮の創建へとつながっていったものなのでありました。 そこで、今回のお話は、平安神宮について。 その創建と密接に関連した博覧会のお話と、平安神宮に残る文化遺産についてまとめてみたいと思います。 *** 明治時代の京都・・・。 これについては、これまでにも書いたことがありますが、 東京遷都によって打撃を受け、京都の町は急速に衰退を見せていました。 そうした中、京都は、やっきになって近代化などの復興策を打ち出していきます。 その代表的なものが、琵琶湖疏水の開削事業であり、それに伴う発電所の建設であったのですが、 こうした政策により、徐々に京都は、復興への足がかりをつかんでいきます。 そして、そうした中で、次なる復興策として、企画されたのが「平安遷都1100年祭」という、 記念イベントなのでありました。 この「平安遷都1100年祭」を実施するという建議がなされたのは、明治25年のこと。 ・桓武天皇が平安京で初めて朝賀の儀を行った延暦14年(794年)を記念日とし、 明治28年(1895年)に記念祭を行うこと。 ・その記念行事として「内国勧業博覧会」を京都に招致し、この年に合わせて行うこと。 ここで、このような記念祭実施に向けての基本方針が決められていきます。 ちなみに、この「内国勧業博覧会」というのは、開催されるのが、これが4回目。 元々、これは、当時、積極的に殖産興業を推進していた明治政府が、 産業の奨励と国民への啓蒙を進めるために、力を注いでいたもので、 5~8年おきくらいの間隔で、定期的に実施されていたものでありました。 しかし、これまでの勧業博覧会の会場は、いずれも東京の上野。 これを何とか京都で実施し、京都活性化の起爆剤にしていきたいと、 強力に招致活動を続けたのでありました。 その結果、4回目の「内国勧業博覧会」は、京都で開催するということが決定され、 その会場として、洛東・岡崎の地が選ばれることになります。 そして、この時に企画されたのが、 平安京の頃の大内裏(朝堂院)を復元して、 それをこの博覧会のメインパビリオンとしようとするものなのでありました。 残されていた資料を基にして、大極殿・応天門・青龍楼・白虎楼などの建物が、 次々と建てられていきます。 そして、さらには、このパビリオンの建設と並行して、 博覧会の終了後には、この建物を神社として残し、 雅やかな京都を後世まで伝えていこう、という意見が 市民の間から盛り上がってくることになります。 一方で、そうした神社発足のための準備も進められていき、 そうした経緯の中から、今に残る平安神宮が生まれてくるわけです。 また、博覧会を開催するにあたっては、会場への交通の整備ということも重要でした。 これには、市街電車を開業させることとして、そのための工事も急ピッチで進められていきます。 開会の2カ月前に、まず、一部の区間が開業。 開会日の当日には、博覧会場までの路線が完成しました。 これが、日本で初めての電力を動源とした”電車”の走行ということになり、 この博覧会においても、これが大きな注目を集めることになります。 さらに、もう一つ、この博覧会で注目を集めたイベントがありました。 それが、平安時代から明治維新までの歴史・風俗を、 時代を下りながら行列を行うというもの。 この時代行列が、第一回目の「時代祭」であり、 これが、今日まで毎年続けられていく京都の祭典へと発展していくこととなります。 明治28年(1895年)4月1日。 いよいよ、第4回の「内国勧業博覧会」が開幕しました。 この時、会場には、工業館、農林館、器械館、水産館、美術館、動物館などが軒を連ね、 連日、多くの来場者が訪れて大変な賑わいをみせたのだそうです。 出品された総点数は16万3000点。 来場者は、結局、4か月間の会期終了時点で113万人をこえるという大成功となりました。 そして、これを契機にして京都の町は、 より一層の活況を取り戻していくことになったのでした。 さて、それでは、現在の平安神宮について、少し見ていきましょう。 朱塗りの大鳥居をくぐって、まっすぐ歩いていくと、そこが平安神宮の正面になります。 この門が、博覧会の時に建てられた「応天門」。 この門をくぐると、そこに、平安神宮の社殿が広がっています。 正面に「大極殿」があり、その左右には「青龍楼」「白虎楼」が建ちます。 これらは、博覧会の時、かつての宮殿を5/8の大きさに縮小して作られたものだといい、 往時の平安京のたたずまいを再現しようと、建築されたものなのでありました。 これが「大極殿」。 今は、平安神宮の拝殿となっています。 これは「青龍楼」。 これも、元の平安京の頃にあった建物を再現したということで、 これと同形の建物「白虎楼」と左右対称にして建てられています。 平安神宮の周囲には「神苑」と呼ばれる庭園もあります。 西庭・中庭・東庭・南庭と、4つの区域に分かれた広大な庭園で、 そのうち、西庭と中庭は、博覧会の時、すでに造られていたものなのでありました。 この庭を築いたのが、明治を代表する名造園家といわれている七代目・小川治兵衛という人。 彼は、博覧会終了後においても、この「神苑」の改良・拡張を 20年の歳月をかけて行ったといわれていて、 それだけに、とても素晴らしい見事な庭園になっていると思います。 この「神苑」は、 植物園のような楽しみ方も出来、深山を歩いているかのような部分もあり、 東山の借景が美しい回遊式庭園でもあり、と、いくつもの変化に富んでいて、 とても楽しめる庭であります。 この「神苑」もそうなのですが、 平安神宮を訪ねた時には、どこか、明治の頃の京都人の心意気のようなものが、 伝わってくるように感じられます。 「平安遷都1100年祭」というイベントは、 遷都後、衰退していた京都を復興させるために行われた様々な施策の 集大成のようなものでありました。 その記念行事の一つであった「時代祭」は、その後、平安神宮の祭礼となり、 それが、今でも市民が総出で奉仕する、京都市民が主体のイベントとして、 現代にまで続けられています。 京都を何とか復興したいという、明治の頃の熱い思いと、 長い年月、日本の都であったという、京都人の持つプライドのようなものも。 平安神宮というのは、まさに、そうした明治の頃の京都の熱気が、 綿々と受け継がれてきている神社なのだと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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