カテゴリ:幕末維新
明治維新から、平安京の創設期へ・・・。 時代をさかのぼって行列が繰り広げられていく、京都の時代祭。 当時の風俗が忠実に再現された、その壮麗な時代行列は、 見るものを、往時の歴史時代へと誘ってくれる、華麗な歴史絵巻でもあります。 ![]() この時代行列の先頭を進んでいくのが、 錦の御旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する、維新勤王隊列。 毎年、時代祭のオープニングを飾るのが、 この勇ましい鼓笛隊の進軍なのですが、 もともと、これは、維新期に活躍した「山国隊」と呼ばれる一隊が、 行進を行っていたものでありました。 ![]() 一方、時代行列の最後尾を務めるのは「弓箭組」と呼ばれる一団。 こちらも「山国隊」と同様、維新期、戊辰戦争に参陣し、 そこで活躍していた人たちが、行進を行っていました。 ![]() 「山国隊」と「弓箭組」 どちらも、京都北方の山村にあって、古くから皇室との関係が深く、 また、維新の折には、自発的に兵を組織し、 費用も自己負担してまで、戦線に参加したという、 同じような経緯を持った農民義勇兵団であります。 彼らが、それぞれに、時代祭に参加した、その思いとはどのようなものだったのか。 今回は、この2隊のうち「山国隊」についての話を まとめてみたいと思います。 (山国村について) 山国隊のふるさとは、丹波国桑田郡山国郷という、 林業を中心として生計を立ててきた山村。 現在は京都市に編入され、右京区京北町となっています。 平安京造営の際には、御所に用材を献上したといい、 その後も、多種の献上品を届けるなど、 皇室の御用達係のような役割を果たしてきました。 当時から、皇室の信頼も相当に厚く、 物資の調達ばかりでなく、御所の警備まで任されていたのだといいます。 南北朝争乱の折には、北朝の光厳天皇が、この地に隠棲していたという歴史もあり、 現在も、山国の地には、3天皇の陵墓が残されています。 室町期まで、皇室の直轄領。 この村の名主たちは、朝廷から官位までもらっていました。 ところが、江戸時代になると、 村は皇室領・幕府領・門跡寺院領の3つに分割されます。 このことは、山国村に多くの問題や不便さを生み出すことになり、 皇室領として再び統一したいということが、村の念願となっていました。 そうした中、山国村は幕末期を迎えていくことになります。 (山国隊について) 慶応4年(1869年)1月、鳥羽伏見の戦いが勃発。 新政府は、これに勝利するや、すぐに各方面に兵を繰り出して、 旧幕勢力を鎮圧しようとしました。 丹波~山陰方面を担当することになったのが、 山陰道鎮撫総督に任命された西園寺公望。 「今回の挙兵は王政復古の戦であり、志ある者は馳せ参ずべし。」 公望は、そうした檄文を各地に配ります。 そして、この檄文に応じたのが、山国村。 山国村では、村内から有志を募り、義勇隊を結成するということが決定されます。 古来から続いてきた朝廷への親近感と、 村を皇室領として統一するためにも・・・。 当初、約90名の隊士が、集められたのだといいます。 そして、この軍勢は、 西園寺軍に合流する西軍と、御所の警備につく東軍の2軍に分けられます。 東軍は、仁和寺宮軍のもとへ加わろうということで大坂へ向かい、 西軍は、西園寺軍の後を追って、丹波をさまよいますが、 結局、官軍に参加することが出来ませんでした。 西園寺軍の鎮圧戦は、どうやら終わっているようだ・・・。 そうした状況がわかってくる中、 しかし、以前から懇意にしていた因幡藩から、 新政府の上層部に働きかけてもらえることになりました。 この山国村の義勇兵の話を聞ききつけたのが、岩倉具視。 岩倉具視は、この隊を「山国隊」と命名し、 因幡藩に付属して、東征軍に加わるようにという、指示を出しました。 このようにして、山国隊は、晴れて官軍の一員となることになりました。 慶応4年、2月。 山国隊は、東山道軍として、因幡藩とともに京都を出発します。 大垣から甲州勝沼を経て、江戸に出て、宇都宮の戦闘に参加。 江戸に戻ってからは彰義隊と戦い、その後、常陸~相馬~仙台へ、 山国隊は、約8か月にわたって各地を転戦しました。 その間、特に、宇都宮・安塚の戦いと、上野・彰義隊の戦いは壮絶な激戦となり、 戦死者4名、病死3名という大きな犠牲を出しました。 「魁」と書かれた陣笠をつけ、 また、その名の通り、戦いの各所では、そのさきがけとして、常にその先頭に立ち、 山国隊の戦いぶりというのは、諸藩の兵よりも勇敢だったといいます。 そうした山国隊の活躍は、大いに評価されることになり、 その故もあって、途中からは錦旗を守護する役割まで任されるようになりました。 明治元年、11月。 山国隊が任務を終え、京都に凱旋してきます。 錦旗を掲げ、勤王マーチを奏でて行進する山国隊。 そうした農民志願兵たちの雄姿は、人々から喝采をもって迎えられることになりました。 こうして華々しく凱旋を果たした山国隊。 しかし、その栄光の陰で、そのために払った代償というのは、 あまりにも大きなものでありました。 村を皇室領として統一したいという当初の願いは、 維新により、皇室領であるということの意義自体が変わってしまうことになり、 また、その自己負担となった戦費は、莫大な借財として村にのしかかってきました。 義勇兵の出征により、残されたものは借金のみ・・・。 借財返済のため、村は多くの山林を売却することとなり、 その後、山国村は、急速に疲弊していくことになります。 (時代祭と山国隊) 明治28年(1895年)。 京都では、「平安遷都1100年祭」のイベントが行われ、 華々しく内国勧業博覧会が開催されるとともに、 そのパビリオン跡を活用して、平安神宮が創建されました。 そして、この記念事業の一つとして行われたのが第一回目の「時代祭」。 「時代祭」というのは、 平安講社と呼ばれる京都市民の氏子が主体となり、行われるものなのでありますが、 この第一回目の実施にあたっては、広く京都府内からの番外参加を呼びかけました。 そして、これに応じ、参加を申し込んだのが、旧山国隊と旧弓箭組なのでありました。 以来、山国隊は、時代祭の行列の先頭を務めるようになり、 それが今も、維新勤王隊列として受け継がれています。 自らの損得を省みることなく勇敢に戦いに挑んでいった、この山国隊を顕彰したい。 時代祭の維新勤王隊列には、そうした京都市民の思いが込められているようにも思えます。 そして、この山国隊の存在というのは、山国の人々にとって、 今なお、誇りある歴史の1ページとして語り継がれているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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