|
カテゴリ:読書
ありがたき幸せ。恐悦至極に存じ上げ奉る。
このブログへの書き込みを開始してから336日目の今日、どうにか20,000アクセスをカウントした。 20000 2007-10-23 12:10:50 *.ucom.ne.jp10,000アクセスを記録したのが184日目の2007年5月24日(木)であったことから、後半の10,000アクセスは152日で達成したことになる。「当社比1.21倍」のスピードアップといった感じであろうか。 いずれにせよ、リピーターの読者諸氏には、厚くお礼を申し上げたい。 ただ・・・修士論文作成の佳境を迎えつつあるため、このブログをいつまで続けられるかは、正直なところ自信がない。当面の目標としては、当ブログの元ネタである『沈黙の艦隊』が[VOYAGE-354](「60億の出撃」)で完了していることを踏まえ、少なくとも11月10日(土)まではこのまま1日1件のペースを保ちたいと思っている。365日目の11月21日(水)まで維持できるかどうか・・・は、微妙なラインかもしれない。 まあ、仮に続けることができるとしても、質・量の低下は避けがたいものと思われる。そのような場合には、ご寛恕を請う次第である。 今日は晴れ時々曇り。三多摩の府中のアメダスによれば、今日の日最低気温は12.4℃(02:30)、日最高気温は23.1℃(12:50)であった。 まずは横道で、私の目を引いたニュースから。 「東京を目の敵は、日本沈没に」 自民の議員同士が火花自民党に新設された地域活性化特命委員会が党本部で開かれ、地域間の財政力格差の解消をめぐって、東京と地方の党所属国会議員の間で激しい議論が繰り広げられたとのことである。 独立国「やまと」を称しているように(?)、私自身は長い物に巻かれるのが嫌いで、したがって明治以来の東京一極集中には異議を申し立てる立場である。が、もはや既得権益と化している東京の利権を、自分から手放そうとするような奇特な人間は、そう多くはあるまい。「泣く子と地頭」が実質的な権力を有してきたこの国では、最高権力者といえども、こうした既得権益をめぐる対立の構図は解消できないのではなかろうか。海外から水軍が襲来した後で革命が起きるとか、戦争に負けるとか、そういう切羽詰まった状況でもない限り、ドラスティックな自己変革は難しいらしい。 なお、この記事では、都政を牛耳るザビ家一門(?)が相変わらずの美しい親子愛を示している様子も読み取れる。「さすが」と言うほかはない。 さて、それでは、ようやく今日の本題に移る。 数日前に読了した書物があるため、今日の記事ではその本を紹介したい。 それは、浅井建爾氏の『知らなかった!驚いた!日本全国「県境」の謎』(実業之日本社)である。 I 「廃藩置県」から「四十七都道府県」の成立へ興味深い内容がいろいろと書かれているけれども、ここでは紙幅の都合から一つだけ取り上げよう。 このブログにも深くかかわる、三多摩移管の問題である。 東京府民の飲料水になっている玉川上水の衛生管理と水源確保を図るため、当時の東京府知事が玉川上水流域を神奈川県から東京府に編入するよう大蔵省に申請したのは、1873(明治6)年のことであった。しかし、それは受理されず、1886(明治19)年にも内務大臣に申請したが、それも認められなかった。 ところが、三多摩は政府と敵対する自由党の勢力が最も強い地域で、神奈川県議会も自由党に牛耳られていた。こうして、政府の警視総監と神奈川県知事と東京府知事との利害が一致し、自由党勢力の分断を図るために、三多摩を東京府に移管することが決まった。1892(明治25)年に東京府知事が内務省に上申し、その翌年に移管が実現したのである。 このとき、三多摩の住民は「移管反対派」が圧倒的多数を占めていたらしい。とは言え、大正以後、東京市と東京府を統合して東京都に移行する案が出るようになると、三多摩の住民の多くは「東京都への編入に賛成」したようである。まさに既得権益化してしまった、とも言えるが、1943(昭和18)年に東京都制が施行された際には、三多摩もしっかりと加わっている。 NOと言えなかった三多摩、である・・・。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.11.21 21:27:39
[読書] カテゴリの最新記事
|