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NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

NOと言える三多摩~言泉「やまと」後悔日誌

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言泉「やまと」

言泉「やまと」

2007.11.02
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カテゴリ:読書
どんよりとした曇天の一日で、夕方には一時的に雨もぱらついた。三多摩の府中のアメダスによれば、今日の日最低気温は13.5℃(24:00)、日最高気温は18.0℃(11:30)であった。

さて、まずは余談から。
私は元来スピード狂の傾向がある上に、[VOYAGE-194]や[VOYAGE-226]などでも示唆したような健康上の理由もあって、早足で歩くのを好むらしい。まあ、その日の気分や体調や天候などにも左右されるとは言え、ほかの人が「量産型」の速度であるとすれば、私の歩き方は「シャア専用」といったところかもしれない。
ところが・・・今日は大学通りの歩道が非常に混雑していて、いつものようなスピードで歩くことができず、実にイライラさせられた。というのも、国立では今日から「天下市」なるイベントが開催されていて、数多くの出店が所狭しと軒を並べているからであった。
うーむ。楽市楽座って、通行の自由を保障するものではなかったか? などと皮肉なことを考えながら、いつもよりも狭くなっている歩道を通り抜けて、自宅から駅へと向かった次第である。

ちなみに、今日は、こんな光景が見える場所に出かけてきた。
パノラマの連続性を意識したレイアウトにより画像は縮小されているが、それぞれをクリックすると拡大して見ることができる。

文京シビックセンター展望ラウンジからの眺望1文京シビックセンター展望ラウンジからの眺望2文京シビックセンター展望ラウンジからの眺望3
文京シビックセンター展望ラウンジからの眺望4

これらは、文京シビックセンターの25階にある展望ラウンジから撮影したもので、東京ドーム(一部)や小石川後楽園、新宿の高層ビル群などが目に入るはずである。高い建物からの眺望としては、東京都心では[VOYAGE-255]以来、ほかの都市も含めると[VOYAGE-318]以来となろう。

なお、用向きとしては、先週と同様に、文京シビックホール26階スカイホールで開催された多文化協働実践研究のプレフォーラムに参加したのである。



では、今日の本題に移ろう。今日は読書ネタである。
5日ほど前になるが、大阪・京都・豊橋を経て浜松からの帰りに、藤田達生氏の『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)を読了したので、その感想などを述べてみたい。
序章 「秀吉神話」の系譜

第一章 戦国時代の「悪党」

 1 出自の謎に迫る
 2 織田信長の台頭
 3 異例な早さの出世

第二章 本能寺の変
 1 西国支配をめぐる派閥抗争
 2 筆頭重臣への画策
 3 将軍推任・安土行幸
 4 「中国大返し」の真実

第三章 関白の「平和」
 1 織田体制の破壊
 2 ヒエラルヒーの確立
 3 「天下静謐」の論理
 4 「平和」のための侵略

終章 軍国神話の現在
本書のおおよその内容は、上記の目次からでも推察できると思われるが、以下に「はじめに」の文章を一部引用して補足しておく。
 「秀吉神話」は、いまも歴史小説や時代劇などを通じて繰り返し再生産されている。「墨俣一夜城」をはじめ、そのほとんどが史実としては否定されているにもかかわらず、NHK大河ドラマでさえ採用しているのである。さらには、戦後の研究のなかから誕生した新たな「神話」が、秀吉像をさらに肥大化させている。
 本書は、最新の資・史料を駆使して、秀吉の誕生した天文六年(一五三七)から、天下統一を果たす天正十八年(一五九〇)までの五十三年間を中心に、こうした「秀吉神話」の背後に潜む彼の実像に迫ろうとする試みである。
 具体的には、まず序章で「秀吉神話」の成立と変遷の過程をくわしくみていったあと、次の三つの課題からアプローチしていきたいと考えている。
 第一は、秀吉の出自にまつわる神話である(第一章)。たしかに秀吉が貧しく低い身分の出身であったことは間違いないし、彼がその大きなハンデを克服したことは評価されるべきであろう。しかし、本書では、それは必ずしもハンデであっただけではなく、その出自ゆえの有利さがあったのではないかという点を検討してみたい。具体的には、彼が百姓ではなく、差別を受け遍歴を繰り返す商人的な非農業民に出自をもつ可能性が高いこと、それゆえに伝統的な武士道徳からは自由であったことが、異常なスピードで織田家の重臣にのし上がった要因となったことを解き明かしたい。
 第二は、本能寺の変にまつわる神話である(第二章)。秀吉が天下人となるうえでの決定的なターニングポイントは、本能寺の変の直後、ただちに兵を京都に返して明智光秀を破ったことにあった。この「中国大返し」は、数ある「秀吉神話」のなかでも、まさにハイライトといえる。だが、裏を返せば「神話」に覆われたこの間の経緯にこそ、秀吉の実像を知る多くの手がかりが隠されているのである。本書では、織田政権が天下統一に向けて次第に変質するなかで光秀が立場を失っていき、必然的に本能寺の変を起こし、秀吉に敗退するまでの過程を、そこに秀吉がどのように関与したかに注目しながらみていきたい。
 第三は、「豊臣平和令」が紡ぎだす天下統一像にまつわる神話である(第三章)。秀吉の天下統一事業とは、現在は通説化されているように真実、「平和」を希求してのものだったのかを検証してみたい。「平和」という観念は、その語義の反面、戦争を正当化する場合もあることは現代の国際情勢を見ても知られるところである。いま、日本が将来に向けての平和国家像を本格的に議論すべきときだからこそ、秀吉以来の指導者が主張してきた「平和」の本質を追究することの意義は大きいと考える。
<pp.6-8>
細かい部分ではあるが、私が気になったところはフォントの色を変えて記載した。
まず、上の文章では「百姓=農民」という図式で語られているように見えるが、網野善彦氏らの中世社会史の研究を踏まえれば、そうではあるまい。
また、「伝統的な武士道徳」とは、一体いつの時代のものを指しているのか不明である。江戸時代のそれを戦国時代に当てはめている印象も残ってしまう。
そのあたりの定義が今ひとつ厳密ではないような気がした。

と、重箱の隅をつつくようなコメントはさておき、織田政権ナンバー2の地位をめぐって、最大のライバルである光秀を失脚させるような政策を推進してきた秀吉は、その必然的な結果として本能寺の変が起きることを予想し、事前に「中国大返し」の準備をしていたらしい。光秀が毛利氏に派遣した使者が誤って秀吉方の陣所に入ったなどということはありえず、クーデターを事前に予想していた秀吉が独自のルートで誰よりも早く情報を入手したと考えるのが自然である・・・という推論には、目から鱗が落ちた。
 極端にいえば秀吉は、可能なかぎり速く軍隊を上方に到着させること、それさえ実行できればよいと考えていた。自分がもっとも速く、主君の弔い合戦に駆けつけたこと、それを天下に誇示することを、何にも優先させたのである。
 光秀との戦いは、すでに十分な勝算がある。彼がみていたのは、その先であった。この「中国大返し」を成功させ、宣伝によってこれを「神業」として広めさえすれば、きたるべき信長の後継者争いにおいて決定的に有利になる。数々の疑惑の行動も、「神話」さえ確立されればすべて帳消しになる。情報と宣伝が、政治や戦争に決定的な影響力をもつことを、秀吉は熟知していた。この時代の武将で、ほとんど彼だけがそれを知りえたのは、いったいなぜなのであろうか。
<p.161>
秀吉の出自のプラスの側面にしても、本能寺の変へと至る政治過程にしても、実に興味深い指摘と言えよう。

ともあれ、秀吉の時代に秀吉自身が創作した「神話」もあれば、後世(現代を含む)に諸般の事情で生み出された「神話」もある。そうした虚像を見破り、いかにして実像を取り出すか、が問われているのである。学界では本書に対する批判もあるらしいが、歴史学の研究成果に期待したい。





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Last updated  2007.11.21 21:40:28



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