|
カテゴリ:旧東海道53次を歩く
「御上洛東海道」の展示の途中にあったのが藤沢宿コーナー「藤沢宿と江の島の美人画」。
![]() 「藤沢宿」 「藤沢宿は東海道の日本橋から数えて六番目の宿場です。 江戸幕府の道中奉行所の記録では藤沢宿の名物を「大山詣で、江の島弁財天詣で」と 記しています。」 ![]() 「江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。 メインの東海道を西へ、四ッ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、 南へ下る江の島道(江島神社・江の島弁財天へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、 北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあリ、観光、流通の中心地と なリました。 主な名所に、時宗総本山清浄光寺(通称は遊行寺)、江の島(江島神社)一ノ鳥居 (江の島は、宿場から一里ほど南)、四ッ谷の立場(宿と宿の間の休憩地)、 南湖(茅ヶ崎市)の左富士などがあリました。」 ![]() 「江の島詣や大山詣りの追分として栄えた藤沢宿や、風光明媚と讃えられた江の島の風景は、 浮世絵の格好の画題として採用され、それら人気の風景を背景にした美人画は、江戸の人々に 好まれました。 本コーナーでは、藤沢宿・江の島の風景を背景にした艷やかな美人画の数々を紹介いたします。 絵師たちによる表現の違いもお楽しみください。」 ![]() 展示コーナー。 ![]() 20.ニ代目歌川豊国 和国名所江ノ島 全勢揃 鶴屋内かくし 文政11年(1828) 「本作は画面上部に青の濃淡で絵柄を表現する「藍摺」で江の島と富士の風景が配されており、 下部には当時評判の遊女が手紙を書く様子が描かれています。 鶴屋というのは吉原にあった遊女屋の名前で、「かしく」が遊女の源氏名です。」 ![]() 21.歌川芳晴 藤沢 天保14年~弘化4年(1843~47) 「旅支度をする女性が描かれ、こま絵には遊行寺と大鋸橋(現・遊行寺橋)が見られます。 女性の腰ひもを結ぶ仕草や風景の絵から、国貞の描いた「美人東海道」の藤沢の図を 元にした作品であることがわかります。 落款に見られる「芳晴」は歌川芳春の早い時期の表記です。 芳春は歌川国芳の弟子として、幕末から明治にかけて活動しました。」 ![]() 22.歌川国貞(三代豊国) 二代歌川広重 諸国名所七里ヶ浜 文久2年(1862) 「手前の女性は国貞(三代豊国)、背景はニ代広重によって描かれた双筆の作品です。 江の島への道中、七里ガ浜から海を眺めながら、煙草を一服する女性が描かれています。 女性の装いをみると、手ぬぐいを陂り、大きめの浴衣を羽織っています。 こちらは浜辺での砂や埃をよけるためのもので、江の島へ向かう女性の江戸時代における 定畚ファッションでした。 本作は「団扇絵」と呼ばれるもので、江戸時代の人々はこのような団扇絵を買い、 その年に流行に合わせて団扇の紙を張り替えて使用していました。団扇絵は実用品で あるため、現存の少ない希少な作品とされています。」 ![]() 23.歌川広重 東海道五十三図会 七 藤沢(美人東海道) 弘化4年~嘉永5年(1847~52) 「広重の美人東海道と呼ばれるシリーズの内、藤沢宿を描いた作品です。 画面上部の枠には、大山の眺めと藤沢の宿場風景が一つの画面に描きこまれています。 女性は手に江の島名物である貝柄杓(貝殻の器のっいた杓)と干し雲丹を持ち、駕籠の上に 乗っている品物は、鮑の漬けと貝屏風です。おみやげをたくさん買って、江の島から帰る 様子とみられます。」 ![]() 24.歌川芳虎 書画五拾三駅 相模藤沢 山帰定憩 明治5年(1872) 「この作品は、画面上部に文人墨客の文章と絵、下部には各宿駅ゆかりの故事や伝承、 風景が描かれているシリーズ作品です。藤沢の図には、上部に其角堂 (俳人・穂積永機[1823 ~ 1904] )の俳句、下部には茶屋でお茶を差し出す女性の姿が 描かれています。 表題の「山帰」の山とは大山(雨降山)のことで、女性のうしろにある縁台には、 大山詣をあらわす御神酒枠(大山から水や酒を持ち帰る容器)が置かれています。 また、右端に描かれている柱は当時設置されたばかりの電信柱で、明治の街道を 象徴しています。」 ![]() 25.豊川国周 善悪三拾六美人 照姫 明治9年(1876) 「照姫 相州金沢瀬戸浦なる照姫松の由来を聴に小栗孫五郎満重は持氏公の怒に触れ 主従わづか十一人流浪なして藤沢在の横山先生安春の邸に一服なす折から 主人安春毒酒を以て小栗主従を害せんとす照姫察し満重に告其身も逃れ 野島が崎に隠れ居しが宿の老女の嫉妬のために松葉に熏され危難に逢しが六消 千光寺観せ音の利益によって、助りしとぞ。 藤沢山の縁起を略して 深川山人誌」 ![]() 26.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黃 嘉永4年(1851) 「五行説において重要な色とされていた「青」「赤」「黄」「白」「黒」の5色に それぞれ美人が当てはめて描かれています。 また、この美人たちは、歌舞伎の登場人物に擬えて描かれており、各色は、その役が決まって 着る衣装の色と対応しています。 黄:お駒(『恋娘昔八丈』より) 黄色地に縞模様の、"黄八丈"の着物を着た、材木問屋の娘である「お駒」が描かれています。 お家騒動に巻き込まれるお駒と髪結いの才三郎の情話『恋娘昔八丈』は、安永4年に浄瑠璃、 翌年には歌舞伎の世話物狂言として上演され、人気を博しました。 黄八丈は、歌舞伎の初演で三代目瀬川菊之丞がお熊役として着ていたことをきかけに、 江戸で大流行しまた。八丈島の特産品てもあり、将軍家の御用品としても献上されています。」 ![]() 27.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 黒 嘉永4年(1851) 「黒:小梅(『隅田春妓女容性』より)か 本作に描かれた美人は、侠客「梅の由兵衛」の妻「小梅」とされています。 歯には既婚女性の証である”お歯黒”が見られ、褄の部分には梅の紋様が配されています。 また着物は鳥の柄となており、黒の色と対応しています。褄を取りながら船の乗り場に 立っていることから、降りた船を見送っているところでしようか。」 ![]() 28.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 青 嘉永4年(1851) 「青:照手姫(小栗判官ものの物語より) 小栗判官は藤沢の遊行寺とゆかりのある人物で、照手姫は小栗判官の恋人です。」 ![]() 29.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 赤 嘉永4年(1851) 「赤:八重垣姫(『本朝廿四孝』より 華やかな赤い振袖を着た「八重垣姫」が描かれています。八重垣姫は上杉謙信のひとり娘、 また武田信玄の息子「勝頼」の許婚でもある設定です。 なお『本朝廿四孝』などの時代物の歌舞伎に登場するお姫様を”赤姫”と呼び、赤い着物が 定番となっています。手に持つのは武田家の宝の一つ「諏訪法性の御兜」です。 兜の白い毛部分や着物の裾には空摺りが施されています。空摺りとは版木に絵の具をつけず、 刷り圧だけで紙面に模様をつける技法のことです。」 ![]() 30.歌川国貞(三代豊国) 五衣色染分 白 嘉永4年(1851) 「白:役名未詳 白地に絣の着物を着た美人が描かれています。役名は未詳ですが、髮型から芸者であると 考えられ、屋根舟の後方に立ち、扇子を口にくわえながら帯を直すという仕草で描かれています。 空には満月がさえざえと輝き、その下に見える橋は、竹材問屋が見えることから江戸の京橋と 思われます。」 ![]() 「藤沢ー江ノ島」 ![]() 歌川広重「江の嶋弁才天開帳詣」 ![]() 「藤沢ー江の島」 歌川広重『六十余州名所図会』「相模 江之嶋 岩屋ノ口」 ![]() そして次の江の島コーナー「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画」へ。 「江の島 富土山を別格とすれば、浮世絵に描かれた風景の中でその数では江の島は、かなりの上位に 入ると言えましよう それほどに、江戸時代の江の島詣では一大ブームでした。」 江の島は湘南海岸と砂州でつながった島です。波の浸食でできた「岩屋」の存在は、 古くは宗教的な修業の場として多くの修行者の来訪を伝えていますが、鎌倉時代に源頼朝の 祈願により文覚が弁財天を勧請したという由来から、弁財天の島として信仰を集め、また 風光明媚な行楽の地としても人気を得るようになリました。 浮世絵では、初期には富士山や朝日などとセットで中国の神仙思想にある蓬莱山に擬し て描かれたものが多く、江の島詣でが盛んになるにつれ、参集する人々を描いたものが 多くなっています。」 ![]() 「明治の江の島を描いた浮世絵と石版画 本コーナーでは、浮世絵(木版多色摺り)と石版画で描かれた近代の江の島の風景を 紹介いたします。江戸時代から人気の名所でもあった江の島の描かれ方の変化を、 技法の違いだけでなく、風景や風俗のとらえ方の違いもご覧ください。」 ![]() 歌川広重初代 相州江乃嶋辨才天開帳詣本宮岩屋の図 弘化4年~嘉永5年(1847~52) ![]() 31.楊州周延 波枕江の島新語 明治13年(1880) ![]() ![]() 「自序 仲街を籠で通るや汐干貝とは。七世三升が吟にして能く深川の 情を穿ち。八幡鐘のきぬぎぬに櫓下の迎ひ舟。なみの随意現なく、 ゆふべの夢を波枕。その江の島に思ひ寄たる。歌舞伎の種を抄録もの。 鳥居が画風の絵島。その顛末を七里が浜の。いとながながと記載せしを。 丸鉄が梓にちりばめて発兌さんと乞ふに任せ。 近頃流行三編読切。海鬼灯を鳴したまふ婦幼衆のお伽草。あたる 満汐打かへす。浜の真砂の汐干貝。 必らず拾ひ給はれと願ふものは 竹芝の漁夫 久保田彦作記」 ![]() ![]() 歌舞伎の作者であった久保田彦作( 1846 ~ 1898 )が著した明治の絵草紙。 ![]() ![]() 画の周延は幕末から明治初期にかけて役者絵の第一人者で、さながら歌舞伎を見ているような 作品です。 こうした絵草紙類にも、名所江の島はたびたび取り上げられました。 ![]() 「「つづき」へも是 より厳しき法 令いでいよいよ世の 中静謐に及び男 女が風俗 ▲ ▲善かたに 改まりし と言つたふ めでたし めでたし めでたし」 ![]() ![]() 32.三代歌川広重 立斎漫画 明治12年(1879) 「画面左上から、水鳥、歌舞伎の登場人物(『積恋雪関扉」の関兵衛)、翁面、江の島、 ガス灯の点灯が張交絵で描かれています。 画面右はガス灯の点灯の様子です。点灯方という専門の職業の人が、夕方になるとガス灯に 火を灯し、朝になると消すために街中を走り回っていました。」 ![]() 33.楊斎延一 江の島美人の賑ひ 明治28年(1895) ![]() 「江の島へ続く砂洲の道である洲鼻の入り口にて、貝拾いなどをして遊ぶ女性達が描かれています。 ![]() 楊斎延ー( 1872ー1944 )は楊洲周延の弟子で、美人画を得意としました。 他にも役者絵や、文明開化頃の東京名所などを描きました。」 ![]() 34.小林清親 日本名所図会 江の島 明治29年(1896) ![]() 35.楊州周延 名勝美人会相州七里ヶ浜 明治27年(1894) 「明治期を代表する美人画絵師である楊洲周廷による本作には、三人の女性と、七里ガ浜から 見た江の島の風景が描かれています。手前の姉さん被りをした女性は、一見すると若い娘の ようですが、ニ人の少女を手招きしている様子から母親を若い女性の風俗で描いたものと 考えられます。青色を基調にした背景や着物の淡い色により、近代の新しい美人画を象徴する 柔らかな色彩の作品となっています。」 ![]() ニ人の少女を手招きしている母親。 ![]() ニ人の少女が母の下へ。 ![]() 36.鈴木年基 相州江之嶋 明治期 「西洋絵画や写真の流入と共に写実的な風景が描かれるようになった一方て、浮世絵の画風を 引き継いた絵師もいました。本作では高さは強調されていないものの、島の形などは写実とは 言い難く、手前に見切れた樹木を配し遠近感を出すことも、浮世絵に見られる手法です。 作者の鈴木年基(生没年不詳)は、幕末から明治にかけて活した浮世絵師である芳年の門弟で、 大阪で活躍した絵師です。」 ![]() 37.尾形月耕 月耕随筆 江の嶌参り 明治29年(1896) 「江の島への道中において、七里ヴ浜の浜辺で一休みする女性たちが描かれており、 右奥には小動岬も見られます。 本作を描いた尾形月耕( 1859-1920 )は浮世絵作品も手掛けましたが、特定の浮世絵の一門に 属していたわけではなく独学で浮せ絵や菊池容斎の画風を学びました。 画業の早い時期においては蒔絵や輸出用の七宝の下絵を描くほか、新聞・雑誌の挿絵に腕を ふるい、後年には日本画家として万国博覧会等に作品を出品するなどして情力的に 活動しました。」 ![]() 38.矢島知三郎 辨天娘 明治25年(1892) ![]() 39.太田節次 江の島真景 明治26年。 「デッサンスケールの上に江の島景が描かれています。 明治になり西洋文化を取り入れる中、奥行きを正確に遠近法や一点透視図法、更には黄金分割 などの絵画技法を日本でも取り入れるようになったことを物語っています。 また明治22年( 1889)には東京美術学校(現・東京藝術大学)が開校し、西洋絵画の研究が急速に 進められました。」 ![]() 40.美術着色会社 相州江之嶋真景 明治22年 「明治になると、江の島は実景に則して描かれるようになり、富士山よりも高さを誇張して 描かれる傾向が弱まったことが感じられます。手前の女性は着物姿ですが洋傘を持っており、 また奥の男性は洋服を着ていることから、風俗の推移も感じさせる作品となっています。」 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.07.25 09:59:04
コメント(0) | コメントを書く
[旧東海道53次を歩く] カテゴリの最新記事
|