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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.07.25
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カテゴリ:寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次

そして次に訪ねたのが「梶原景時館跡(一之宮天満宮)」。
一宮という地名は、相模国一之宮寒川神社が鎮座していることによる。
神奈川県道44号線線(伊勢原藤沢線)沿いの南側にあった。
神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6−6。



この碑には「従是一之宮明神道」と。
ここが寒川神社表参道の起点?かと思ったが、文政9年(1826)に土地改良で現在地に
移されたものだと。



「​梶原景時館跡 👈リンク
梶原景時は治承四年(1180)八月、源頼朝挙兵の時、石橋山の合戦で洞窟に逃れた頼朝の一命を
救いました。翌年正月、頼朝の信任厚い家臣となり、鎌倉幕府の土台を築くのに貢献しました。
一宮を所領としており、この地に館を構えたとされています。図に示すとおり館の規模は広大
だったとの説もあり、現在も当時の堀のなごりを留めていると伝えられています。天満宮の位
置はその一角で、当時は物見の場所として一段と高く構築したとも伝えられています。
景時は和歌もたしなみ文武両道で秀でた武将でした。
頼朝の死後、多くの家臣からそねまれ、ついに正治元年(1199)十一月、鎌倉を追放され、一族
郎党を率いて一宮館に引き揚げました。その後、景時は再起を期し、上洛するため、翌正治二年
正月二十日午前二時頃ひそかに館を出発しました。一行は清見関(静岡市清水区)で北条方の軍の
攻撃を受け、景時以下討死という悲劇的な最期を遂げました。
館の留守居役の家臣も翌年尾張(愛知県)に移ったと伝えられ、また物見のあとの高地には里人が
梶原氏の風雅をたたえ、天満宮を創設したともいわれています。」



「一宮館跡案内図」。



「浩宮徳仁親王殿下 御成記念 昭和五十四年九月二十一日」碑。
学習院大学在学中の1979(昭和54)年9月11日、当時の「浩宮さま」はご学友40人らと
ともに寒川神社と梶原景時館跡(一之宮)を訪れた。この研修旅行では、中世の文献「吾妻鏡」の
ゼミをお受けになられた宮様とご学友が4泊5日の日程で史跡を見学され、その最初の見学地が
寒川町だったと。



「梶原景時館跡」碑。



「梶原景時」と書かれた幟が横に。
「梶原景時」は、1180年(治承4年)の石橋山の戦いで平家方でありながら源頼朝の命を
救ったと伝えられ、頼朝の鎌倉体制を固めるための中心人物として活躍した。
ここ相模国一宮(現在の寒川町)を所領とし、「梶原景時館址」の石碑が建てられている場所は、
物見のあった所といわれている。
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも、頼朝を支えた「13人」の御家人のひとりとして
登場中なのである。



小さな太皷橋を渡る。



参道の石灯籠。



「記念樹 梶の木
梶原公顕彰会 建立」。



右手にあったのが「角落とし」。



角落し石板が並んでいた。



「角落とし
両側の堰柱(せきばしら)の溝に、角材や板を落と入れ、水流の調整をしたり、堰き止め
などする装置。
西側の産業道路沿いにあった相模川防水堤に設けられ増水時には板を落とし、土嚢(どのう)などで
補強して洪水から西町を守った。」



左手に手水舎。



この四角い場所は?祭事を行う場所か?
正月のお焚き上げ、どんど焼き等の場なのであろうか?

後日、下記の如き書き込みを頂きました。
子供のための砂場です
ペットの糞尿防止のために囲いがしてあります
野良猫には効果はほとんどないかと



「天満宮遺蹟碑」。
この石碑には
「海軍中将正四位勲二等男爵肝付兼行篆額
偉哉菅神文勲赫照萬代矣此地當在聖祠創建由緒共未詳也傅曰梶原景時之勤請焉続稱西之
天満宮祠宇朽廢明治四十二年合祠子一之宮八幡宮也因爲存此舊蹟有志相議而營梅林記念
之以大正四年一月二十五日建碑傅後見昆云爾
國幤中社寒川神社禰宜提箸亀男撰
尋常一之宮小学校校長中島忠蔵書」
と刻まれていた。



「天満宮」の祠は、和歌をたしなむなど教養のあった景時の風雅を称え、里人が当時の館の
物見台跡に創建したものといわれる。
「天満宮」の祠の隣は小さな公園になっていて、ブランコと滑り台が。



「天満宮」を正面から。



木名「ヒトツバタゴ」と。
別名は「ナンジャモンジャノキ」。
「ヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子)」とはモクセイ科ヒトツバタゴ属の一種。
同じモクセイ科のトネリコ(別名「タゴ」)に似ており、トネリコが複葉であるのに対し、
本種は小葉を持たない単葉であることから「一つ葉タゴ」の和名がある。



奥にも小さな社が鎮座していた。



「天満宮」を横から。



再び「鎌倉本体の武士 梶原景時 ゆかりの地」と書かれた幟。



青地に白抜きの幟も。



「梶原景時館跡」から県道44号線(旧大山街道:伊勢原藤沢線)を東へ進むと直ぐ右側に
あったのが「西町集會所(薬師堂)」
神奈川県高座郡寒川町一之宮8丁目6-31。
広場(駐車場?)の横には大きなパネルが。



正面から。



「梶原景時と一宮館址」案内板。



「梶原平三景時(生年不明~1200)は「鎌倉本體の武士」といわれ、源頼朝を補佐し鎌倉幕府の
基礎を築いた文武ともに優れた武士です。梶原氏は、桓武平氏の流れをくむ鎌倉党の一族と
され、同族には大庭氏、俣野氏、長尾氏らがいました。
治承四年(1180)伊豆に流されていた源頼朝が挙兵しましたが、八月二十四日、石橋山(小田原
市)の合戦で大敗して椙山に逃れ、「鵐(しとど)の岩屋」(湯河原町・真鶴町の両説あり)に潜ん
でいました。大庭景親率いる平家方の一員として参陣していた梶原景時は、頼朝を発見したも
のの討たずに救いました。これが景時と頼朝の出会いでした。
翌年一月景時は、関東を平定し鎌倉に入った頼朝に土肥実平の仲介により面謁し、「言語を巧
みにする」と高く評価され、家臣として認知されました。以来、源平合戦で多くの功績をあげ
たほか、頼朝の片腕として侍所所司をはじめさまざまな重職に携わりました。
頼朝の死後、正治元年(1199)十月、結城朝光謀反の疑いを将軍頼家に讒言したとの理由で御
家人六六名の連署をもって弾劾され、弁明の機も得られぬまま一宮に下向。再度鎌倉に戻るも
のの、十二月鎌倉追放が正式に決まり、鎌倉の館は取り壊されました。
正治二年一月二十日、景時とその一族は、朝廷や西国武士団の支援を軸に再起を図ろうと、一
宮館をあとに京都へ向け出立します。その途中、駿河国狐ケ崎(静岡市清水区)で在地の武士吉
川小次郎らに迎え討たれ、交戦の末、梶原山にて最期を遂げました。
幕府内の主導権を手中にしたい北条氏と、頼朝の側近として職務に忠実すぎた景時を快く思わ
なかった御家人たちとの思惑が一致したことが背景にあったと言われています。」



「梶原景時公像」。



2022年放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に、源頼朝を支えた「13人」の御家人の
ひとりとして登場する「梶原景時」。
「梶原景時」を演じているのは「中村獅童」さん。



「梶原氏の足跡
治承四年(一一八〇) 石橋山の合戦で敗退した頼朝を助ける。
治承五年(一一八一) 上肥実平の仲介により頼朝に面謁。家臣として認知される。
          小御所御厩の地の奉行
寿永一年(一一八二)  政子安産祈願奉幣使として二男景高が相模国一宮(寒川神社)に遣わされる
寿永三年(一一八四)  宇治川の合戦。長男景季「名馬麿墨」にて佐々木高綱と先人を争う
           一ノ谷の合戦。平重衡を生け捕りにする
          播磨国大山寺に大般若経典読料として田一町二段を寄進
元暦一年(一一八四) 播磨国の守護に任ぜられる
元暦一年(一一八五) 屋島の合戦。義経の奇襲により景時、合戦に遅参
          壇ノ浦の合戦。義経と先を争う
文治五年(一一八九) 衣川で討たれた義経の首実検を腰越で行う
          奥州制圧軍勢着至奉行。一族あげて従軍、途中和歌を多く残す
          新造の御厩別当
建久一年(一一九〇) 頼朝上洛の奉行。景時、景季、景高供奉して入京
建久三年(一一九二) 頼朝征夷大将軍に就任。鎌倉幕府開府
建久四年(一一九三) 富士の巻狩。一族あげて頼朝に供奉する
建久六年(一一九五) 頼朝上洛の随兵奉行
建久十年(一一九五) 頼朝死す。 
            将軍頼家「吉書始」に十三宿老の一員として列席、侍所別当と傍注あり。
正治一年(一一九九)   景時公弾劾の署名を六六人の御家人が提出、一宮館に下向。
正治二年(一二〇〇)   一宮館を後に京を目指す。途中、駿河国狐ヶ崎(静岡市清水区)にて合戦、
          一族滅亡」。



「一宮館址案内図」。



梶原景時館址[ー之宮天満宮] (昭和3年.寒川名所絵はがき)。



「(伝)七士の墓(昭和30年頃.臼井彦太郎氏撮影)」。



「集会所となっている薬師堂」。



扁額「西町集會所 薬師堂」。



集会所の入り口横に地蔵尊。



「水無月大祓式 並 茅の輪神事」ポスター。



「濱降祭駐輿記」碑。
「相模國一宮國幣中社寒川神社濱降祭有​​​古例​七月十五日​神輿茅ヶ崎南湖濱​​​渡御在良世良留
日近郷近在十数社乃​​神輿供奉縣下唯一乃​​盛儀奈里​還幸​​​途次一​當​爾​御休憩御發輿​​
清淨乃​地​​​​​​​​​​​爾​​栽培世志​麥莖​點​​神輿久留​故事有​當地乃​舊​家川崎家氏​代々奉仕​世里
​所以​​​永久後世傳​閉牟登須留爾​當​里​​需​須​​事斯久乃如​志​」と。



1933年に建立された石碑。石碑がある場所は、寒川神社の神輿(みこし)が浜から戻る際に
小休止する御旅所。御旅所を出発する際、地域の人々が麦の茎を燃やして神輿に投げ掛ける
習わしがあったと、石碑には刻まれていた。この習わしには、海の塩で清めた神輿をさらに
火で清める意味があったとされると。
裏面は逆光で・・・。



「濱降祭駐輿記」碑の近くにあった「梶原伝七士の墓」案内板。



奥に入っていくと「梶原伝七士の墓」が姿を現した。



「梶原伝七士の墓」。



「梶原源太景季公」。



「箙(えびら)の梅」で知られる景時の長男・景季(かげすえ)が描かれている。
一の谷(生田の森)の戦いで、勢いあまって敵陣深く入り込み、矢が尽きてしまった景季は、
箙(えびら)(矢をいれる籠)に梅の枝を挿して奮戦した。
その姿に、「吹く風を何いとひけむ梅の花 散りくるときそ香はまさりける」という和歌
(凡河内躬恒『古今和歌集』)を重ね合わせた平家の公達は、雅を解する坂東武者を称賛したと。



「梶原源太景季(かげすえ)は景時の長男で、勇猛果敢歌道にも秀でた弓取である。
寿永三年(1184)正月、宇治川の合戦で佐々木高綱との先陣争いで愛馬「麿墨」共に武名をあげ
る。同年2月、生田の森・一ノ谷の合戦では、折しも咲き誇る梅が枝を箙に挿し
かかれば花は散りけれど匂いは袖にぞ残るらん
と戦陣を馳せる景季公の風雅を平家物語など諸本が伝え、今日でも能や歌舞伎で「箙の梅」が
演じられている。
八月、一之宮八幡大神例祭の宵宮の屋台巡行に加わる「西町」の屋台は館址にふさわしく、
梶原氏に因む彫刻で飾られ、碑の景季公は一部を模写したものである。」



「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓」



中央の墓をズームして。



「伝 梶原氏一族郎党(七士)の墓
この石造物群には次のような言い伝えがあります。正治二年(1200)正月、梶原景時一族郎党が
一宮館を出発、上洛の途中清見関(静岡市清水区)で討死してしまったので、一宮館の留守居役
であった家族、家臣らが弔ったといいます。
また、景時親子が討死してから、しばらく景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣七人が、
世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵を願い出たが許されず、七士はその場
で自害し、それを祀ったものという説もあります。
なお、後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれています。」
すなわち、2つの説とは
1.他の御家人から追放された景時は、一族とともに一之宮の館を出発し、上洛の途中に討死して
 しまいます。そこで一之宮館の留守番を務めていた家族、家臣がこの地に弔ったものという説。

2.景時父子が討死してからしばらく後のこと。景時の奥方を守って信州に隠れていた家臣7人が、
 世情が変わったのを見て鎌倉に梶原氏の復権、所領安堵(領有権を認めること)を願い出た。
 しかし許されず、七士はその場で自害しこの地に弔ったという説。



後ろの水路は当時の内堀の名残ともいわれている。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2024.01.06 18:24:03
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Re:寒川町の寺社旧蹟を巡る(その22) ・                              梶原景時館跡(一之宮天満宮)~西町集會所(薬師堂)~濱降祭駐輿記碑~梶原伝七士の墓(07/25)   ななし さん
この四角い場所は?祭事を行う場所か?
正月のお焚き上げ、どんど焼き等の場なのであろうか?

子供のための砂場です
ペットの糞尿防止のために囲いがしてあります
野良猫には効果はほとんどないかと (2024.01.05 23:10:34)

Re[1]:寒川町の寺社旧蹟を巡る(その22) ・                              梶原景時館跡(一之宮天満宮)~西町集會所(薬師堂)~濱降祭駐輿記碑~梶原伝七士の墓(07/25)   jinsan0716 さん
ななしさんへ

書き込み、ありがというございました。
追記させて頂きました。 (2024.01.06 18:25:03)


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