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カテゴリ:国内旅行
「積翠寺」を後にし、続日本百名城の「要害山城」のスタンプが甲府駅前の
「藤村(ふじむら)記念館」に置いてあるとのことで甲府駅まで下る。 駅前の30分間は無料の駐車場に車を駐め「藤村記念館」に向かう。 左側に「甲府駅」の駅ビルが見えた。 そして「藤村(ふじむら)記念館」が直ぐに目の前に。 「藤村(ふじむら)記念館」は明治8年に現在の甲斐市亀沢(旧睦沢村)に建てられた 睦沢学校校舎。 昭和41年、藤村式旧睦沢学校校舎保存委員会の手によって武田神社境内に移築復元され、 「藤村記念館」として甲府市に寄贈された。翌年には国の重要文化財に指定され、 長い間、郷土の民俗・歴史・教育・考古資料の展示館として市民・県民に親しまれてきた。 そして平成22年10月1日甲府駅北口に移転し、交流ガイダンス施設として新たに 開館したと。 この建築様式は、山梨県令藤村紫朗が奨励したとされる擬洋風建築で、県内では、 藤村式建築と呼ばれているのだと。 その隣りにあったのが「武田信虎公之像」 「武田信虎」は、もちろん「武田信玄」の父。 甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主。 「山梨県人が誇りとする甲府の街。その礎は武田信虎公という人によって築かれた。 甲斐武田氏の全盛を極めた嫡子、武田信玄公の事績も、信虎公の積み上げた地盤がなければ、 その隆盛は無かったかもしれない。 国を追われた武田信虎公が、駿河、京都、高野山などへ入りて後、信濃国高遠で没することに なったのも、自らが興した甲斐の府中、甲府へ戻りたいとの願い故であったたろう。 甲府商工会議所は、甲府開府五〇〇年を記念すると共に、武田信虎公の遺徳を偲び、甲府を開いた 公の像を建立し、甲府市に本像を寄贈する。 一.像 高さ 2m10cm 重量 400kg 材質 ブロンズ 一.台座 高さ 1m85cm 重量 7000kg 材質 御影石張、鉄筋コンクリート 「以下 略」。 「藤村(ふじむら)記念館 国重要文化財旧睦沢(むつざわ)学校校舎 指定年月日 昭和42年6月15日 移築の経緯 旧睦沢学校校舎は、明治8年( 1875 )巨摩郡睦沢村(現甲斐市)に建設された学校の校舎です。 昭和41年( 1966 )武田氏館跡西曲輸に移築し、県令藤村紫朗にちなんで藤村記念館と命名され、 歴史や民俗を含む教育資料館として一般公開してきました。 新都市拠点整備事業に伴って、失われた歴史景観の再生と市民や観光客の交流ガイダンス拠点と なることを目的に建物を移築復元しました。 建物の概要と特徴 この建物の様式は、当時の山梨県令藤村紫朗が積極的に奨励した擬洋風建築(西洋建築に似せて 建てられた建築物)で、明治前期には多くの官公舎、学校、商家がこのような様式で建てられ、 藤村紫朗にちなんで藤村式建築と呼ばれています。 正面中央の玄関車寄せ、2階のべランダ、正面の吹き放ちの円柱と礎盤、出人口や窓の 黒塗りアーチ形の枠、両開きのガラス戸と鎧戸の二重扉などに洋風の意匠を見ることができます。 べランダは独特の曲線を見せる幕板を飾り、軒天井は菱組の透かし打ち天井となっています。 外壁は漆喰塗りの日本壁で、隅は黒塗り擬石隅石形を示し、屋根は宝形造の桟瓦葺で、 中央に太鼓楼と呼ぶ塔屋をのせています。」 この時まで「藤村記念館」は「島崎藤村」の記念館であると思っていたのであった・・・。 しかし、甲府の街と「島崎藤村」はどの様な関係があるのかと思いながらも。 「藤村紫朗(ふじむらしろう) 弘化2年( 1845 ) ~明治41年( 1908 ) 肥後熊本藩士黒瀬家の二男で、同藩士萱野家の養子となる。尊皇攘夷運動に加わり勤皇志士と ともに国事に奔走、脱藩して長州に走り、王政復古の運動に参画した。 明治維新に際して藤村姓を称し、監察司知事、大阪府参事を経て、明治6年山梨県権令から 翌7年山梨県令となった。明治19年地方官制により山梨県知事、翌20年の愛媛県知事に転ずるまで 14年間の長期にわたり山梨県政を担当した。 藤村県令は、文明開化の諸施策に積極的に取り組み、殖産興業として養蚕技術の普及や県営勧業 製糸場建設、甲州街道や青梅街道など主要な幹線道路に車馬の通行可能な改修工事を実施した。 また、甲府市街の整備に着手し「藤村式建築」と呼ばれる擬洋風建築を特別に推奨した。 明治23年貴族院議員に任ぜられ、同29年男爵、晩年郷里で熊本農工銀行頭取に就任している。」 「藤村紫朗(ふじむらしろう)の遺品が展示されていた。 「江戸~昭和時代の教科書」。 ここ「藤村記念館」で「128 要害山城」のスタンプを頂きました。 続日本百名城はこの「要害山城」の如く、山城が多く、別の場所にスタンプがおいてあるので ともすれば、スタンプだけ集めて廻る所謂「スタンプ集め」になりがちなのではと。 しかし「スタンプ集め」で続日本百名城を制覇しても・・・・・???? そして駐車場に戻る。 左手には「甲府市歴史公園 」の「甲府城山手御門」が。 「甲府城の出入り口は、南側の追手(大手)御門、北側の山手御門、西側の柳御門の三ヵ所が ありました。城外から木橋と土橋で堀を渡り、その先に山手門があり、虎口空間を直角に折れて 二階建ての山手渡櫓門があります。 出入り口の防御を固めるため、非常に厳重なつくりとなっています。枡形門虎口型式の両者を 総称して山手御門と呼んでいます。 山手門は城門として、山手渡櫓門は武器の倉庫としての役割も果たしていたと言われています。 明治時代になると、市街地化が進み、山手御門周辺の石垣も崩され、堀は埋め立てられました。 発掘調査で、石垣の一部が発見され、山手御門の復元を中心とした公園の整備が始まりました。 門は発見された石垣を土台にし、当時の工法を用いて復元しています。 山手門 :高さ5.866m/横幅4.969m 山手渡櫓門:高さ11.350m/横幅13.790m」 そして前方右手に見えたのが「甲府 時の鐘」。 甲府駅東側の甲州夢小路内にあった。 「江戸時代、甲府城下の横近習町や愛宕町に時刻を知らせる鐘楼があり明治5年まで使われていた。 平成25年甲州夢小路内にこの時の鐘が新造された。この鐘はかつて愛宕町の鐘楼を模造したと 伝わる法性山玄法院の鐘楼を模して再現されたものであるとのこと。」 県道7号線から県道6号線へ向かう。 「荒川」に架かる「千松橋」の銅像・「希望」。 そして次の訪問地は「信玄堤」として、「赤坂台総合公園 (ドラゴンパーク)」横を通過。 高さ33mの展望塔(展望フロアは22m)からは、甲府盆地の景色が一望できると。 そして国道20号線に合流しここを左折。 国道20号線を進み、右に入ると「信玄堤公園」に到着。 「信玄堤」案内地図。 「公園の概要 甲斐市は、甲府盆地のほほ中央に位置し、南に霊峰富士、西に南アルプスの山々、北に八ヶ岳を 眺められる風光明媚な自然環境にあります。 また、武田信玄公が1 7年の歳月と計り知れない人力、新しい治水工法で永禄2年に完成させた 「信玄堤」をはしめ、竜王水などの伝説や多くの文化財で有名な「慈照寺」、郷土の大学者・ 山県大弐をまつった「山県神社」、おみゆきさん(御幸祭)の行われる「三社神社」など 有形無形の歴史文化的資産が数多くあります。 水と緑の豊かな自然環境のなかで先人たちがはぐくみ、築きあげてきた文化に親しみ、 誇りのもてる郷土を守り、育て、末永く後世に伝えていくため、 この地域を歴史文化公園「信玄堤」として指定しました。」 「釜無川ゾーン 信玄堤エリア 竜王用水 「信玄堤」のあるこの付近は甲府盆地を洪水から守る重要な地点ですが、竜王地区の田畑への 用水を取るためにも重要な地点でした。 昔の人は、いろいろ苦心をして御勅使川と釜無川の洪水の流れを高岩にあてて洪水の勢いを 弱めていました。また、高岩に川の流れを集めることは、普通の時に高岩地点で川の水を取り やすくなります。江戸時代の絵図では高岩の前に集まった釜無川の水をトンネルを開けて 取り入れていることがわかります。 このように昔の人々は、洪水を防ぐことも、そして川から水を取ることもうまくエ夫していた ことがわかります。 ここから取った川の水は竜王用水と呼はれます。この竜王用水を守るためには地域の人々の 大変な努力があり、信玄堤が築かれて以来、甲府盆地の竜王地区を潤す用水として、現在も 大切な役割を果たしています。」 「潤澤興郷之碑」。 「潤澤興郷之碑」は信玄堤が甲府盆地の治水地点だけでなく、竜王地区の用水地点としての 役割もあったため、竜王地区を潤したことを示す碑である。 「竜王用水施設整備記念之碑」。 「水神」碑が中央に。 「用水隧道開削碑 用水隧道開削碑は、釜無川からの取水のため寛永十三年(一六三六)に高岩に隧道を開し、 翌寛永十四年に富竹新田に至る用水路(堰)を完成させた甲州代官触頭平岡次郎右衛門和由の 徳をしたって、富竹新田村(甲斐市富竹新田)の村民が建立した報恩碑と推測されます。 碑は高さ一・五メートル、幅〇・四七メートルの自然石を平坦にした表面に 「平岡次郎右衛門和由大翁玄広居上、穿開此水道立富竹新田、寛永十四年丁丑七月日」と 刻銘があります。文化十一年(一八一四)に完成した「甲斐国志』に「渠口ニ石碑ヲ建ツ」と 書かれていますが、碑が建立された時期は明確にしていません。 この富竹新田へ導く延長三キロメートルの用水路の建設は新田開発と並行して進められて竣工し、 新田開発工事は和由の子勘三郎良辰に引継がれて慶安五年(一六五二)に完成しました。 この事業の成果によって富竹新田村が生まれました。」 「甲斐市観光案内図」。 「釜無川」上流を見る。 山梨県西部の川。長さ68km。赤石山脈北端に発し山脈断層崖沿いに南流,甲府盆地で 御勅使(みだい)川と塩川を合わせ,笛吹川と合して富士川となる。 小淵沢〜韮崎(にらさき)の左岸には八ヶ岳泥流の台地が七里ヶ岩と呼ぶ数十mの絶壁をなす。 荒れ川でしばしば氾濫(はんらん)。御勅使川合流点付近に武田信玄築造と伝える信玄堤が残る。 谷沿いの信州往還は信濃・甲斐・駿河(するが)3国を結ぶ要路で,現在は国道20号,52号線。 川の流れの端に三角の形のものが並んでいた。 ズームで見る。 同じものが堤防上に展示されていた。 手前が上流側に向ける面か? 竹籠の中に、丸石を詰めて。 この石で流れを弱めるのであろう。 「釜無川 ソーン 信玄堤 工リア 聖牛 富士川は日本ても有名な急な流れの川てす。このため大雨のときには、たびたび荒れ狂います。 現在のようにコンクリートも機械も無い大昔に荒れ狂った川の洪水を防ぐ事は大変なことてした。 この「聖牛」は、洪水の流れを弱めるために考えられた日本て有名な古い河川工法のひとっで、 戦国時代のこの甲州か発祥の地といわれています。見てのとおり三角の形をしているので、 上の部分が牛の角のように見えるためこのような名前かついたといわれます。 「聖」の意味ははっきりしませんか、現代風にいえはスーバーとかウルトラという意味たろうとも いわれています。 聖牛は、大きさて「大聖牛」、「中聖牛」、「聖牛」の3つに分類され、ここに設置されて いるものは「中聖牛」の大きさのものです。」 「聖牛」姿図。 基本的構造は以下のとおり。
聖牛の種類は以下の通り。 「釜無川を見守る「龍」 ここは豊かな水とみどりに接することが出来る釜無川のほとりです。 甲斐市では環境整備の一環として国土交通省甲府河川国道事務所の協力を得て、 ここ信玄堤を訪れる皆さまの患いの場として、また治水祈願として「龍」を護岸の階段部分に 描きました。 「龍」は想像上の動物ですが、水の神様として「龍神」「龍王」とも呼ばれ、崇められていました。 特に釜無川と御勅使川が合流するこの地域は、古来より洪水が多く、水を治める、洪水からの 守り神「龍神」への信仰も厚かったと思われます。また、「龍」はこの地域の地名である 「竜王(龍王)」の由来でもあります。 いつまでも水害の無い釜無川であって欲しいと願っています。」 「信玄堤と御勅使川(みだいがわ)・高岩」案内板。 「信玄堤と御勅使川・高岩 ・甲府盆地を洪水から守る信玄堤 甲府盆地には東から笛吹川、西から釜無川・御勅使川が流れています。 どちらの川も暴れ川です。東の暴れ川、笛吹川を押さえるのが「万カ林」。 そし西の暴れ川 釜無川・御勅使川を押さえるのがこの「信玄堤」です。 ・信玄堤のはたらき 「信玄堤」は戦国時代に武田信玄の命によりつくられたといわれています。 信玄堤は、この付近の堤防の名前ですが、この堤防だけでは釜無川や御勅使川の洪水を 防ぐことはできません。右の図のようにいろいろな施設によって洪水の流れを調整しています。 特に御勅使川の洪水の流れをたくみにコントロールしていることか大きな特徴です。 ・御勅使川の流れを上流の「石積出し」で北側へはねます。 ・このはねた流れを2つの「将棋頭」で受け止めます。 ・次に河岸段丘を切り開いた「堀切」で御勅使川の洪水の流れを「高岩」へ導き、そ の勢いを弱めています。 ・弱まった流れをこの「信玄堤」がしつかり受け止めているのです。 「信玄堤と御勅使川・高岩の全体説明 戦国時代に武田信玄がつくらせたといわれる「信玄堤」は、日本の土木技術史でも一級の価値が あります。是非一度、ご自分の目で「信玄堤」を構成する一連の治水施設をお確かめください。」 ズームして。 「信玄堤整備前の模式図」。 「石積出し:御勅使川を北側に押し出す」 「将棋頭:御勅使川の流れを集める」。 「堀切:御勅使川の流れを高岩に導く」 「十六石:釜無川の流れを高岩へ導流」。 「高岩:御勅使川の流れの勢いを弱める」。 「一番、二番出し:合流後の流れを対岸へ向ける」。 「信玄堤:洪水をすみやかに導流する」。 「釜無川 ゾーン 信玄堤 工リア おみゆきさん 「おみゆきさん」は、毎年4月1 5日に行われる一宮町浅間神社のお祭りです。 その由来は、平安時代に甲府盆地西側の水害を治めるために朝廷から命じられたことから始まり、 戦国時代には信玄が祭主となり甲州治水を祈らせたといわれています。 ーノ宮の祭神「木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)」は女性であるため、御輿の担き手は、 紅おしろいに赤い長じゅばん、たすきがけに白い足袋という女性の格好をします。そして、御輿の 掛け声は「ソコダイ、ソコダイ」で、浅間神社から三社神社まの長い道のり( 7里、約28km )のため、 終点がすぐ「ソコダ」と威勢をつけたことによると言われています。 御輿か浅間神社から三社神社に着くと川除けの儀式(水防祈願)が行われます。川に向かって投げる 繭に似せた白い石を拾うと厄除けや無病急災にこ利益があると伝えられています。 昔は一ノ宮(浅間神社)ニノ宮(美和神社)三ノ宮(玉諸神社)から御輿が出る三社合同の共祭でしたが、 明治3年( 1 87 0年)からは、一ノ宮のみのお祭りになりました。 浅間神社に伝わる江戸時代の絵巻物によるとその行列は当時の十万石の大名行列と同じぐらいの 規模であったといわれています。」 「おみゆきさんの様子」。 「釜無川」下流を見る。 釜無川の名前の由来 ・「釜のような深い淵がない川だから」、「釜のふちのような堤防ないから」という説 ・「川の水が温かいので釜が必要ないから」という説 ・言い伝えからの説 釜無川の水害を心配した女が、暴風雨の夜に釜のふたを川に投げ入れ、 その上に飛び乗ったところ、女は蛇に化けてふたと一緒に消えてしまったそうです。 その後、水害は起こらなくなりましたが、村人はその話を怖がって釜を使わなく なったという。 御勅使川の名前の由来 ・「大水が出る意味の水出川(みだしがわ)から」という説 ・「古代に水害が発生した際に甲斐国司の奏上で“朝廷から勅使が下向したことに由来」する説 「霞堤の図 A-通常時,B-洪水時,C-洪水後」 通常の河川の堤防はずっと連続して続いている。切れているところがあれば、そこから水が 流れ出してしまう恐れがあるから、切れ目なく堤防を作るのが現在のやり方。 ところが「信玄堤」は、「霞堤」と呼ばれる不連続な構造を持つ堤防になっていたのだ。 霞堤は、イラストが示すように、間が開いている、変わった堤防。完全な遮断を敢えて しないのだ。大雨で川が氾濫すると、増量した水をわざと越流させ、霞堤間に導いて、 滞留させる。そうすることで、洪水のエネルギーをパワーダウンさせるのだ。 霞堤はエネルギーを喪失した洪水流を速やかに本流に戻すという機能を担っている。 平地部には霞堤を2重3重に築き、氾濫したとしても、その水を釜無川に戻しやすくしたのだ。 がっちりと切れ目なく築くほうが強固な対策に見えるかも知れないが、この場合 (東日本大震災でもそうだったように)、いったん決壊してしまうと、あっという間に すさまじい氾濫と洪水が起きてしまう。一見、脆そうに見える霞堤のほうが、いざというときの 被害が少なくてすむのだ。洪水を完ぺきに封じ込めることを目指すのではなく、洪水が起こる ことを前提に、流域全体の力を使って、水の流れを制御しているこのしくみは、 「しなやかに強い」レジリエンスの好例ではないか。」 釜無川の対岸に「霞堤」があったのだ。 約3kmの信玄堤は改修され森林公園、スポーツ公園が整備されていた。 丸い石碑には「遊水巴流上○」??と。 「信玄堤から見た山々」案内図。 山の端は雲に隠れて。 「手ずくり郷土大賞」碑。 そして国道20号線・竜王バイパスを釜無川に沿って進んで行ったのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020.09.16 00:00:16
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