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カテゴリ:鎌倉市歴史散歩
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次に「泉の井」に向かったが右手にあったのが「松巌寺殿の石碑」。 ![]() 風化が激しく、文字の判読は出来なかったが。 ![]() 辛うじて「松巌寺殿」の文字が確認できたのであった。 この石碑はやぐら(墓所)にあったもので、 「松巌寺殿浄室心清尼大姉墓之銘・・・大姉諱久、江府人也、大樹源秀忠公之・・・也、 祖母雲光院初仕大相国源・・・」と書かれているとのことだ。 地元の調査では、昭和初期には既に読めなかったのだと。 ![]() 左奥には、平坦な土地と中央に百日紅の木が。 右手山裾に「やぐら」があるのであろうが、木々に遮られたりして確認できなかった。 ![]() 石造五重塔や置き石が。 ここが「松巌寺」跡なのであろう。 「普光山 松巌寺 (しょうがんじ)【廃寺】 宗派: 臨済宗 札所御本尊:聖観音菩薩立像 所在地: 扇ヶ谷村泉谷 (おおぎがやつむら いずみがやつ) (鎌倉市扇ガ谷2丁目19番) ![]() そしてその先直ぐ左にあったのが「泉の井」。 ![]() 新編鎌倉志に、「泉谷(いずみがやつ)は、英勝寺の東北の谷なり。 (吾妻鏡)の建長4年 (1252)5月26日、右兵衛督教定朝臣が泉谷の亭を壊して、御方達の本所とすとあり。 是宗尊将軍(むねたかしょうぐん)の時也。御亭の跡、今所不知。路端に井あり。泉井と云う。 清水涌出なり。 鎌倉十井の一なり。」と書かれていると。 ![]() 泉の井。水が溜まっていたが水の流れは確認できなかった。 ![]() 新・旧の「泉の井」碑。 ![]() 「泉の井(いづみのい) この井戸は、鎌倉十井の一つです。」 十井の中では、比較的原形が残されています。 こんこんと清水がわき出た往時の勢いこそありませんが、今でもきれいな水が出ています。」 なぜ「 いずみのい」ではなく「いづみのい」なのであろうか? ![]() そして「泉の井」を背にして次の目的地の「妙傅寺」に向かう。 「ノウゼンカズラ」であろうか。 ![]() 左手に折れて進むとカーブの場所に「妙傅寺」と書かれた木柱と境内への石段が見えて来た。 ![]() 「日蓮宗 正信山 妙傅寺」、「北辰妙見大菩薩 淨行菩薩」と書かれた木柱。 ![]() 石段を上って行った。 ![]() 「妙傅寺」の「本堂」。 「妙傅寺」(日蓮宗)は、東京都文京区白山にあった寺で、1652年(承応元年)、 紀州徳川頼房の祈願所として創建されたと伝えられている。 道路拡張工事の影響で、1974年(昭和49年)、この地へ移転してきた。 旧本尊は妙見北辰菩薩、現在は日蓮坐像。 妙見北辰菩薩は 1945年(昭和20年)の戦災で焼失してしまったとのことである。 妙見北辰菩薩は、源頼朝や日蓮が崇拝し、日蓮宗の寺院によくみられる。 平将門が信仰したが、新皇宣言によって嫌気がさし、将門を離れたので将門は滅んだと。 一方、平良文は、妙見菩薩の霊験により畠山・千葉・上総などの坂東八平氏を生んだと されている。特に千葉氏は妙見信仰で知られている。 ![]() 「本堂」の「唐破風屋根」。 妙伝寺が建てられている所は、忍性によって開かれた多宝寺という真言律宗の寺があった。 多宝寺の開基は北条業時(北条重時の子)と伝えられている。 妙伝寺の裏山には、多宝寺長老の覚賢五輪塔が建ち、その周辺には「多宝寺址やぐら群」がある。 ![]() 扁額「多宝谷山」。 ![]() 裏山の上にある「覚賢五輪塔(かくけんごりんとう)」への上り口を探したが見つからなかった。 ![]() 本堂右手のやぐら。前が道路になっている。入口は狭いが中は広いのであった。 ![]() 内部には石仏と多くの卒塔婆が奉納されていた。 ![]() そして、この日の散策の予定をすべて終え、鎌倉駅へと向かったのであった。 途中、道路の民家には、白いモヤモヤとした花の木があった。 「アオダモ」であろう。 ![]() そして鎌倉駅まで戻り、この日は江ノ電を利用して藤沢駅まで戻り、小田急線にて 帰宅したのであった。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2022.05.19 16:01:19
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