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JINさんの陽蜂農遠日記

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2022.07.24
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カテゴリ:寒川町歴史散歩
【寒川町の寺社旧蹟を巡る】 目次

高座郡寒川町一之宮4丁目の住宅街進むと右手にあったのが「一之宮公園」。

「一之宮公園」は「一之宮緑道」と一体となった公園。
「一之宮緑道」内には旧国鉄の相模支線の線路の一部が、現在も姿を残すめずらしい
公園であった。
日本国有鉄道(国鉄)相模線寒川支線用の車輪と踏切跡が遺っていたのであった。
神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目21−1。



列車の車輪を正面から。



ここが「西寒川駅」前の踏切跡のようであった。



神奈川県の「橋本~茅ヶ崎」間を走る相模線の「寒川駅」からかつて1本の支線が出ていて
「西寒川支線」と呼ばれていた。
この線路は全長1.9Kmの路線で非電化であった。西寒川という名前は昭和19年に改称された
名前で以前は「四之宮」と言う駅名であった。
開業は大正11年で当時は相模川の砂利を輸送するのが目的の貨物線であったが昭和19年に
旅客営業を開始しています(この時に西寒川駅に駅名変更)。
後に砂利採取が禁止され貨物営業を廃止し旅客路線となったが昭和59年3月一杯で廃止となって
しまった。
赤線---が​「西寒川支線」である。
​​



「一之宮公園」内の「一之宮緑道」を「西寒川駅跡」に向かって南西に進む。
右側には「西寒川支線」の当時の線路が100m程遺っていた。



駅名標を模した看板。
「はっかくひろば」に向かって進む。



地元の方々は、この公園・緑道を抜け道として、或いは散歩道として利用しているようであった。
近所の方が立ち話している様子も多く見られ、コミュニケーションの場としても有効活用されて
いるようであった。



線路跡には雑草が生い茂っている場所も。



「フゲンゾウ(普賢象)」。



「フゲンゾウ(普賢象)
室町時代から知られたサトザクラの最も古い園芸品種で、四月下旬。、30 ~ 35枚ものたくさんの
花弁をもつ大きな花をさかせます。(バラ科)」


「フゲンゾウ(普賢象)」をネットから。


  【https://item.rakuten.co.jp/hana-online/niwaki_sakura_fugenzou/】より

「一之宮公園」の遊具広場。



池には水は無く。



更に「一之宮緑道」を進む。



この踏切跡にも列車の車輪があった。



高座郡寒川町一之宮3丁目の住宅街を進む。



早朝散歩の人はこの辺は少なかった。



「八角広場」に向かって神奈川県道47号藤沢平塚線を横断し更に進む。
左に行くと「丸太の広場」と書かれていた。
支線が廃止された1984年の6月に一之宮公園の一部が開園した。当時、寒川青年会議所により
設置された「丸太広場」があったことから、一之宮公園は「丸太広場」とも呼ばれていた
とのこと。



そして「八角広場」が前方に現れた。



反対側から「八角広場」を見る。
平成元年(1989)3月、相模線寒川駅跡地を整備して閉園したもので、西寒川支線の線路跡を
利用した一之宮緑道の終点にあたる。その名の通り、八角形にタイルが敷き詰められた噴水広場。
八角広場として整備されたのは「寒川神社」の八方除信仰に由来するのだと。



八角形の八方には十二支の文字が。
真北の方角を示す「子」の文字。



南を示す「午」。



広場には、旧大山街道の「田村の渡し」の様子(江戸時代)をあらわした双六の碑が建っていた。
台座には「鎌倉江ノ嶋大山 新板往来雙(双)六」と。


北斎唯一の双六絵。柳亭種彦の撰に従い、北斎が描いた52駒の名所絵。
武蔵・相模両国の名所旧跡をめぐる双六絵である。
江戸から東海道六郷の渡し~川崎~神奈川と来て保土ヶ谷で一泊。
戸塚から大道~円覚寺~建長寺、鶴岡八幡に詣で、雪の下で一泊。
露座の大仏、長谷観音、極楽寺から七里ヶ浜へ出て、弁財天の江ノ島に宿泊。
片瀬~藤沢~四ツ谷から大山道に出て、相模川を田村の渡しで越え伊勢原へ。
良弁の滝で身を清めて、大山に詣でて坊に一泊。
愛甲~厚木で相模川を越え、河原口~鵜の森~鶴間宿泊まり、大山街道の長津田~
谷本~荏田、国道246号を馬絹~溝の口と来て二子宿泊まり、多摩川を二子の渡し
で越え、三軒茶屋~渋谷~赤坂見付けを通り、歩いて6泊7日の大旅行の上がりになっていると。



「一の宮 田村へ十八丁 三十五」
「村の◯人ぜにをもらふ」と。



「西寒川駅」跡にも線路が遺されていた。
錆びて見えにくいが、「1909」の記号が残されているとのこと。これは、開業間もない
八幡製鉄所(創業1901年)で1909(明治42)年に作られたレールであることを示すもの。
このほかに、「2605」「2606」など当時使われていた「皇紀」で記された珍しいレールも
残されていると。



「一之宮緑道」案内板。



「ー之宮緑道は、緑のネットワークの一環として旧国鉄相模支線跡地を利用して、
昭和60年度より整備を行ったものです。延長は約900mあり、広場及び3つのタイプの園路から
構成されています。
みなさんでご利用ください。」



「神奈中バス停 八角広場前」もあった。



「旧国鉄西寒川駅
相模海軍工廠跡」碑が西側にあった。
かつてはこの先にも線路が続いていたのだと。これは国有化される前の「相模鉄道」時代の話で
この西寒川駅の次に「四之宮駅」という駅があった。国有化と同時に廃止されたのは
1944(昭和19)年の事と。



裏面を見る。



「ここ旧国鉄西寒川駅跡に佇んで東を望み、更に南に目を転ずるとその視界に工場群が迫る。
そこは、かつて多くの仲間が営々と働いた相模海軍工廠(昭和20年 敷地704,000m2)の
跡地である。往時を偲べば、先人や友の姿が彷彿と甦り、懐旧の想いひとしおである。
第二次大戦後、工業立地に恵まれた跡地は町発展の礎となり、今日の繁栄をもたらした。
いま、大地に深く根差した縁に世界の平和を願い、国土の安穏を祈る。」



碑文から戦時中は西寒川駅が海軍工廠で働く人たちの足として、また寒川町HPによると戦後は
跡地が工業団地となり昭和35年工業団地で働く人たちのため旅客輸送を再開し(一日4往復)、
昭和59年3月 西寒川支線廃止まで通勤客を運んでいたことが分かるのだと。



そして次に訪ねたのは「西寒川駅跡」から北に200mほどの場所にあった「一之宮不動堂」。
神奈川県道47号・藤沢平塚線が「目久尻川」に突き当たり、右に大きくカーブする場所にあった。
神奈川県高座郡寒川町一之宮26。



「不動堂」を正面から。
堂の扉の横には「一之宮河原集会所」の木札があった。



扁額「一之宮不動堂」。



「大山街道と一之宮不動堂
江戸時代、大山講と称する講が関東一円にひろがり、大山阿夫利神社へ幾本かの大山街道が
発達しましたが、最も隆盛を極めたものが東海道という一番安全な道を利用し、昔語りの名勝地と
なった鎌倉や行楽地の江の島を訪れてのコース 〜 東海道藤沢の西、四つ谷から西方に進み、大曲、
中瀬、一之宮から田村の渡しを経て大山に通じる 〜 この道でした。
この不動堂の、堂内には不動明王が安置されています。堂の外には、江戸の人が奉納した力石や
不動をかたどった道標があり、当時の街道の隆盛を今日に伝えています。」
不動堂からほど近い相模川の岸辺は、有名な「田村の渡し」のあった場所。



江戸から西への街道は、東海道、中原街道、矢倉沢往還の三つがあり、大山街道はこれらの
街道を横切っている。
黒の実線が「大山街道(田村通り大山道)」。
「「大山街道(田村通り大山道)」は現在の神奈川県藤沢市から大山へ向かうものである。
大山道の中で最も主要とされ、起点の藤沢四ツ谷に置かれた石造の「一の鳥居」は、万治4年に
木造で設置された後、昭和35年に大改修され、鳥居の正面に天狗の面がかけられた。
「御花講大山道」や「御花講道」とも呼ばれ、東海道と藤沢宿で接続し、藤沢宿を挟み対面の
江の島道にも通じるため、最もにぎわいをみせた経路である。
神奈川県道44号伊勢原藤沢線や神奈川県道611号大山板戸線が近似したルートを辿っている。
経路:東海道藤沢宿四ツ谷(神奈川県藤沢市) - 一ノ宮(高座郡寒川町) - 田村の渡し(相模川)
- 横内(平塚市) - 下谷(以降、伊勢原市) - 伊勢原 - 〆引 - 石倉 - 子易 - 大山」
と ウィキペディアより。



「内陣」。



「河原不動尊
本尊は、不動明王坐像と二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる不動三尊像です。
不動明王坐像は江戸時代初期の作とみられ、宝暦3年(1753)に江戸芝口(東京港区)の初音屋平吉が
修理した、との「胎内納入名札」に記されています。この坐像と眷属一体の制咜迦(せいたか)
童子像は、共に寄木作りの非常に上手な技巧による佳作と評されています。
お堂の前にある力石や道標も江戸の人達が、二百三十年頃前に奉納したものです。このように
この不動尊は、江戸とのつながりが深く、江戸時代には観光ルートとしても著名であった。
目の前の大山道を、多くの道者達が往来し、大山参詣が栄えた様子を物語る史跡といえましょう。
「新編相模国風土記稿」にこの不動尊について、「村民持ち大山道にあり」と記され、村人達が
安寧を願い、寄り合い所として長い年月にわたり大事に守り続けて来たことがうかがえます。
また同稿には「田村(相模川対岸の現平塚市田村)にあり(旧一之宮村の)現在地に移された」と
も記されていますが、詳細は定かではありません。」



本尊は、中央の不動明王坐像、そして二体の眷属(けんぞく)(お供の仏像)からなる
不動三尊像。



「右大山道」と刻まれた石碑。
側面には「江戸淺草黒船町 大黒屋傳四郎 同久右エ門」と刻まれていた。
帰って調べたら、昭和初期まで浅草に黒船町という地名があったそうである。
江戸時代、そこの大黒屋さんが寄贈した石標なのであろう。
右横には「力石(六十貫)」もあったが。



裏面には
「天明六丙午歳(1786)九月吉日」と。



この石碑は解読不能。



県道44号線を戻り東に進むと右手にあったのが「ニコン 相模原製作所 湘南分室」。



そして左手にあったのが「浄土真宗 浄徳寺 湘南分院」。
神奈川県高座郡寒川町一之宮3丁目28−13。



下の看板がなければ普通の民家の如くであったが。
詳細は不明である。



右には「SOPHIA CHIGASAKI」E棟。
神奈川県高座郡寒川町一之宮7丁目4。ここは茅ヶ崎市ではないが・・・?。



右手にあったのが「天神下第2公園」。
神奈川県高座郡寒川町一之宮7丁目4。



色鮮やかなアジサイの姿。





「寒川町立一之宮小学校」の花壇にはグラジオラスの花が。



その先に「居酒屋 つるっぱげ」の看板。
明日は我が身!!なのであるが・・・。



ウチワサボテンの黄色い花。



近づいて。



そして「一之宮小入口」交差点を通過する。



道路脇右手にあった「地蔵尊」。




                              ・・・​もどる​・・・


                  ・・・​つづく​・・・





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Last updated  2023.03.30 06:10:36
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