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カテゴリ:国内旅行
次に訪ねたのが「不動院」。
![]() 山門から本堂を見る。 「石動山 不動院」、「厄除不動尊」と刻まれた石柱。 新潟県柏崎市東港町3番17号。 ![]() 左側に寺号標石「石動山 不動院」。 ![]() 「厄除不動尊」 ![]() 左側に「庚申塔」が2基、右に「金毘羅大權現」碑。 ![]() その奥にも石碑群が。 ![]() 石仏、石祠が。 その奥で石蕗(つわぶき)の黄色い花が開花中。 ![]() 「祈願・供養の不動院 厄除け開運祈願 交通安全車祓い 家内安全 商売繁盛 身体健勝 病気平癒 六三除け 金神除け(住宅の安全と家内安全を祈る) 家屋祓い 地鎮祭 諸願ご祈祷・ご供養いたします 電話二二-六〇〇五 大永六年(一五二六年)教雲法印の開基にして大聖不動明王を御本尊とする」 ![]() そしてネットによると 「六三除け(ろくさんよけ)」は、身体の悪いところを毎日撫でて祈願するお札です。 昔から薬効の甲斐もなく、病気の原因が不明なときには六三に当たっている可能性があると 言われます。 六三とは人の頭から足までの身体9ヶ所を指し、年齢や性別によって、その場所は異なります、。 つまり、自分の数え年を「9」で割り、その余りの数字が六三にあたっている場所となります。 割り切れた場合「9」とし、9歳以下は数え年がその数となります。 ※数え年とは生まれた年を1歳とし、今年迎える満年齢に1歳を加えた昔ながらの数え方です。 ※頭(9)は総身六三といい、身体のあちこちに不調が出る年回りと言われます。 ![]() 「本堂」に近づいて。 ![]() 「本堂」の彫刻。 ![]() 寺務所入口。玄関は積雪対策であろうか? ![]() 次に訪ねたのが「日蓮宗 海岸山 妙行寺」。 新潟県柏崎市西本町1丁目13−1。 門には日蓮宗の宗紋「井桁に橘紋」が両側に。 ![]() 山門に近づいて。 ![]() 「柏崎の恩人 星野藤兵衛 豪商であり、勤皇の士といわれた星野藤兵衛は、北陸戊辰戦争の際、新政府軍と旧政府軍に 働きかけ、柏崎を戦火から救うために奔走しました。1868年の鯨波戦争で鯨波村は全焼 しましたが、柏崎町は兵火から逃れ、山形有朋、黒田清隆に率いられた新政府軍は妙行寺に入り、 本陣としました。 この間、藤兵衛は兵糧92万食をはじめとする軍資を提供し、有名な長岡、会津の戦闘もここを 本陣として行われました。妙行寺には、藤兵衛をはじめ加賀藩士の墓や、駐屯兵の落書きが 本堂に残されています。」 ![]() この建物は? ![]() 「新潟県柏崎市常盤高等学校 開校の地」碑。 明治三十三年(1900年)四月二十一日、旧制新潟縣立高田中學校柏崎分校として開校。 柏崎町田町福厳院本堂を仮校舎に授業開始。 ![]() 「本堂 文永11年(1374)の創立で、慶長2年(1597)地震のため翌年「法修山妙行寺」と 「海岸山大乗寺」を合併して「海岸山妙行寺」となり番神から現在の西本町へ移転しました。 創立となった文永11年、佐渡への流罪を許された日蓮上人は寺泊へ向かう途中、暴風にあい 番神の地へ着岸しました。 ここで一夜を過ごした日蓮上人の教えにより、真言宗大乗寺の 住職慈福法師は、日蓮宗に改宗し、日心の法号を与えられました。 慶応4年(1868)の 戊辰戦争では、本堂が官軍の本陣となり、本堂内には現在でも官軍兵士の「らく書き」が 残っています。」 ![]() 日蓮聖人のご尊像。 佐渡から海を渡っていらして、なおかつこれから鎌倉まで歩いてゆかなければならない お祖師様。この時52才 と。 ![]() 「鐘楼」。 ![]() 「本堂」前の見事な松の老木。 ![]() 既に雪吊りが。 ![]() 右に「高祖の日蓮大菩薩七百遠忌報恩塔」 左に「題目塔・南無妙法蓮華経」。 ![]() 石蕗の花に囲まれた「妙経千二百五十部讀誦」碑。 ![]() 左「歩兵上等兵淵岡學次郎墓」碑 右「日清法◯讀法華経三千部碑」碑。 ![]() 「番神堂」はここ「妙行寺」から車で10分ほど東に走った、潮の香りがする町なかに あるとのこと。 日蓮聖人が佐渡から海を渡って着岸された地に建つ「番神堂」。 日蓮宗妙行寺の境外仏堂で、文永11(1274)年に佐渡から赦免の折、日蓮上人が三十番神の 霊を請じ迎えて祀ったものと伝えられています。 明治4(1871)年の大火で類焼、同10(1877)年に再建され、本殿と拝殿の間に石の間を 設けた権現造りで、本殿の壁面には、彫刻が施されています。 棟梁は、四代目・篠田宗吉、石工・小林群鳳(ぐんぽう)、彫刻は出雲崎の原篤三郎・脇野町の 池山甚太郎・直江津の彫富(ちょうとみ)、飾り金具は大久保の歌代佐次兵衛が鋳造したものです。 写真をネットから。 ![]() そして、ここにも「日蓮宗海岸山妙行寺」。 横には「令法久住廣宣流布」と。 「令法久住・法をして久しく住せしめん」と読み下す。 未来永遠にわたって妙法が伝えられて いくようにすること。 廣宣流布(こうせんるふ)は、法華経の教えを廣く宣(の)べて流布すること。 ![]() そして次に訪ねたのが「真宗 大谷派 無量山 聞光寺(もんこうじ)」。 新潟県柏崎市西本町1丁目10−41。 ![]() 「真宗 大谷派」。 ![]() 「無量山 聞光寺」。 ![]() 正面に「本堂」。 ![]() 「寺名無量山清和院聞光寺 これは、清和源氏の流を汲むという名乗りを現しているものです。 (井上氏の系図より、第24世 井上宗華記 参照)開基信濃国 井上九郎光盛の末子 井上四郎高義が出家して、聞光寺の開基(宗観)となる。 光盛は、有名な武将でした。貞応元年(1222年)信濃国井上九郎光盛の末子 井上四郎高義 39才の時、関東磯部の勝願寺に於いて出家得度し、聖人より法名「釈宗観」を賜わり開基と なりました。応長元年(1311年)本願寺三世覚如上人より、三世宗賢(宗堅)が 寺号「聞光寺」を賜わりました。(寺号の基は 覚如上人関東下向の折り、和讃より賜る) 井上宗華記参照正和元年(1312年)聞光寺を井上氏同族の地、信濃国、高井群小柳郷島村に 移しました。 (当寺縁記)天正12年(1584年)八世永順が、聞光寺を越後国頚城郡米山寺に移しました。 文禄2年(1593年)九世永尊が、聞光寺を柏崎に移しました。 十七世宗登(兄)十八世宗存(弟)の代に二度も火災で焼けたそうです。明治30年 (1901年)4月3日本堂・庫裡が新町日野屋火事により類焼しました。明治41年 (1908年)拾年計画をもって本堂、庫裡が再建されました。明治44年(1911年) 再び類焼に帰しました。二十二世宗雄。昭和6年(1931年)二十三世宗尊が災害に強い本堂を 再建しました。平成5年(1993年)4月25日庫裡落成式 二十四世宗華。 平成19年(2007年)7月16日「中越沖地震」により、本堂・鐘楼が倒壊しました。 平成21年(2009年)5月24日「臨時世話方総会」で聞光寺本堂再建事業予算が 原案どおり承認されました。平成25年(2013年)3月23日・24日2日間再建落慶法要を 開催しました。2日間の延参加者数三百数十名 その他見学者が多数おられました。 (二十五世井上温成)」と。 ![]() 寺務所・客殿であろうか? ![]() 「鐘楼」。 ![]() 「梵鐘」。 ![]() 「市指定文化財 工芸品 聞光寺梵鐘 (昭和56年10月15日指定) 聞光寺の梵鐘は、天保九年(1838) 9月25日に鋳造されたもので、「楽翁公(松平定信)」の 直筆からとりいれた、「無量寿経」の一節か鋳込まれている。製作は柏崎市大久保の鋳物師 歌代佐兵衛、小熊武左衛門、歌代喜右衛門、原孫左衛門の四人によるものである。」 ![]() 「有縁廟」。 納骨堂であろう。 ![]() 「本堂」を墓地側の横から。 ![]() 「割烹 大橋屋」。 新潟県柏崎市西本町1丁目11−7。 ![]() 国道352号から「法禅寺」を見る。 ![]() ズームして。 ![]() 扁額「求㳒山」か。 ![]() 「日蓮宗 常在山 福泉寺」。 ![]() 参道入口には「題目碑・南無妙法蓮華経」。 ![]() ここを左に進む。 ![]() 「柏崎駅」方面に」向かって進む。 ![]() そして7:30過ぎにホテルに戻り朝食を。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.02.06 16:11:08
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