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カテゴリ:国内旅行
「丸墓山古墳」を下り、古墳の周囲を時計回りに進む。
古墳脇にある石仏群。元々は墳頂に建てられていたとのこと。 全部で7基あり、手前は延宝元年(1673年)建立、岸海上人とある。 隣は寛文七年(1667)の庚申塔(三猿の像:見ざる、聞かざる、云わざる、二鶏)。 庚申塔としては古い部類だ。 この周辺地域には、寛文年間建立の古い庚申塔が数多く分布しているのだ と。 ![]() 引き返して反時計回りに進み、下から「丸墓山古墳」を見上げる。 ![]() 発掘調査により、埼玉古墳群で唯一、葺石(古墳の外表面に貼られた石)をもつ可能性がある ことがわかりました。埋葬施設については未発掘のためわかっていません。 ![]() 前方に「稲荷山古墳」の全貌が現れた。 ![]() 前方後円墳の前方墳を見る。 ![]() 「稲荷山古墳 全長120mの前方後円墳です。周囲には長方形の堀が中堤をはさんてニ重に巡り、 墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる張出しがあります。古墳が造られた時期は、 5世紀後半ころと考えられ、埼玉古墳群の中で最初に造られた古墳です。 前方部は、1937年に土取りエ事て失われましたが、2004年に復原されました。 1968年の発掘調査ては、後円部からニつの埋葬施設か発見されました。そのうち 平成19年(2007年) 埼玉県教育委員会」礫槨(れきかく)はよく残っており、多くの副葬品が出土しました。その一つてある鉄剣からは、 1978年に115文字の銘文が見出され、他の副葬品とともに1981年に国宝に指定されています。 ![]() 「稲荷山古墳」。 ![]() Googleマップから。 ![]() 前方墳の階段を上って行った。 規模・形状
![]() 墳丘は二段に築成されており、葺石が使用された形跡はない。 方形をした二重の周濠を持ち、濠の深さは築造当時の地表面から約1.8メートルと 推定されている。周濠は通常は空で、水位が上がったときに水が溜まったものと考えられている。 「前方墳」から「後円墳」に向かって進む。 ![]() この稲荷山古墳の円墳部頂上に立ち前方部を見ると、中心線の先に富士山が見えることは 研究者の間では有名な話であるとのこと。 同じ埼玉古墳群にある二子山古墳と、鉄砲山古墳も、規模こそ違うが大仙陵古墳と全くの 同形である。また二子山古墳は、武蔵国最大の前方後円墳である。埼玉古墳群の中で、 稲荷山古墳と二子山古墳、鉄砲山古墳は、同じ形をして、斜め並列に並び、前方部を三基ともが 富士に向けている。三つの古墳とも、後円部から西に突出部があることが特徴的である。 稲荷山古墳は5世紀後半に築造され、二子山古墳は6世紀前半、鉄砲山古墳は6世紀後半築造である。 稲荷山古墳が指す富士山への直線を、富士からさらに延長すると、前回も採り上げた 富士山南山麓にある山宮浅間神社に繋がるようである。横にある二子山古墳の直線は、 静岡市の静岡浅間神社の山宮である麓山(ふもと)神社に到達する。 そして、鉄砲山古墳のものは、富士宮市の富士山本宮浅間大社を指している。 さらに、稲荷山古墳の真北を見てみると、日光に栃木を代表する山である男体山が鎮座している。 男体山は、およそ7000年前に噴火を起こし、その時の姿を円錐形のまま残す名山である。 また北アルプスにそびえる乗鞍岳は稲荷山古墳の真西に位置しているのだと。 ![]() 後円墳の円頂に到着。 後円部の円頂には埋葬施設の復元模型があった。 ちなみに、埼玉古墳群内の大型古墳で登ることができるのは、丸墓山古墳とこの稲荷山古墳である。 ![]() 墳頂部の礫槨。 ![]() 「国宝 武蔵埼玉稲荷山古墳出土品 115文字が刻まれた金錯銘鉄剣には、剣を作らせたヲワケという人物の8代にわたる系譜と、 ヤマト王権に代々仕えていたことなどが記されています。 多彩な副葬品とともに、古代国家の成立を読み解く第一級資料として、1983年に国宝に指定 されました。これらの資料は詳しい解説とともに博物館に展示しています。」 ![]() 「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」。 ![]() 「埼玉県立さきたま史跡の博物館」の「金錯銘鉄剣」の展示品(レプリカ)。 「剣は両刃」、「刀は片刃」を表します。この時代はまだ剣が主流であった。 ![]() 鉄剣に刻まれていた文字。 表面 「辛亥の年七月中記す。乎獲居臣、上祖の名は意富比垝…。」 「辛亥の年」とは西暦471年のこと。 裏面 世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。獲加多支鹵大王の寺、斯鬼宮に在る時、 吾、天下を佐治し、此の百錬の利刀を作らしめ、吾が奉事の根源を記す也り。 現代語訳 代々大王の親衛隊長として朝廷に仕えてきた。ワカタケル大王の寺が斯鬼宮にあったとき、 私は大王を補佐したので、この立派な刀にその由来を書き残すことにした。 ![]() 表(おもて)面の拡大。 ![]() 裏面の拡大。 史料の本文中に出てくる「獲加多支鹵大王」とは雄略天皇のこと。 ![]() 「稲荷山古墳 礫槨 1968年の発掘調査で、後円部の頂上から発見された埋葬施設です。舟の形に掘った竪穴に 河原石を貼り付けて並べ、その上に棺を置きました。棺や衣服などの有機物は残っていません でしたが、副葬品の出土位置などから被葬者と木棺の位置が推定できます。 実物の礫槨は、地下1mに保存されています。」 ![]() 1968(昭和43)年の発掘調査で、後円部の頂上(地下)に埋葬施設が発見された。 舟形に掘った竪穴に河原石を貼り付けて並べ、そこに棺を置いたもので 「礫槨(れきかく)」という。 こちらからは金錯銘鉄剣や勾玉など多数の副葬品が出土したのだと。 ![]() 廻り込んで。 ![]() 「稲荷山古墳 粘土槨」。 ![]() 「稲荷山古墳 粘土槨 この埋葬施設は素掘りの竪穴に粘土を敷き、その上に棺を置いたと推定されます。 盗掘の被害を受けたため、出土した副葬品は少量の武器や馬具などの破片でしたが、 礫槨出土品とともに国宝に指定されています。」 ![]() 後円墳の円頂から前方墳を見る。 天気次第では、この先に富士山の勇姿が見られるのであったが。 ![]() 後円墳頂から、この日は時間の関係で訪ねなかった「将軍山古墳」👈リンク を見る。 ![]() 「稲荷山古墳」を後にして、「二子山古墳」方向に進む。 ![]() 「二子山古墳」を見る。 ![]() 「将軍山古墳」をズームして。 ![]() 「二子山古墳」。 ![]() 「二子山古墳」脇を南に進む。 ![]() 「鉄砲山古墳」案内板。 ![]() 「二子山古墳」を振り返る。 ![]() 「二子山古墳 全長132mの前方後円墳です。かっての「武蔵国」(埼玉県、東京都、神奈川県の一部にあたる)で 最大の古墳です。 周囲には、長方形の堀が中堤をはさんでニ重に巡り、墳丘くびれ部と中堤には造出しと呼ばれる 張出しがあります。現在遊歩道になっている高まりが中堤にあたります。内堀は、今は水堀に なっていますが、古墳が築造された当時は水はなかったと考えられています。 本格的な発掘調査はされていないため、埋葬施設の形や大きさ、副葬品の内容など、詳しいことは まだわかっていません。 出土した埴輪の形から、古墳の造られた時期は、6世紀初め頃と推定されています。 平成20年(2008年) 3月埼玉県教育委員会」 ![]() 「二子山古墳」平面図。 ![]() 「前方墳」をみる ![]() 埼玉古墳群の古墳の大きさ ![]() 「古墳通り」を右折して駐車場に向かって進む。 左手にあったのが「行田はにわの館」。 ![]() ここが「さきたま史跡の博物館」👈リンク 入口。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ ![]() 行田天然温泉 ハナホテル行田 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.02 07:48:16
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