|
カテゴリ:国内旅行
「忍城復元模型」。
忍城は、室町時代中期に成田氏によって築城されたと伝えられている。 城は南北を荒川と利根川とに挟まれ、周囲には広大な湿地帯が広がっていた。 成田氏はこの湿地帯を、あえて埋め立てようとはしなかった。 陸地同士に橋を渡し、沼を堀のように生かしたのだ。いわば自然堤防に守られた要害であり、 まさに「攻めるに難く、守るに易い」堅城で、関東七名城のひとつに数えられた。
松平忠吉は徳川家康の4男として、浜松城に生まれた。母は西郷氏で2代将軍徳川秀忠の同母弟に あたる。(東条)松平氏の養子となり松平姓を称し、天正20年(1592)に忍城主となり10万石を 領した。 関ヶ原の合戦の後、尾張国清洲に転封となり62万石を領したが28歳で病死し、嫡子が なく(東条)松平氏は断絶となった。 市内持田の正覚寺には、子供の梅貞童子の墓が残されている。」
![]() 「梅貞童子御守筒(複製) 松平忠吉が長男の無事生育を祈念して作らせた御守筒で、中にお経を入れて背負ったという。 ところが、生まれて間もなく長男は亡くなり、梅貞童子という法名がつけられた。」 ![]() 「藩主とその時代 城番の時代 慶長5年(1600)に松平忠吉が転封してから、寛永10年(1633)に老中松平信綱が城主となるまで、 33年間忍城には城番が置かれ、周辺の領地は幕府領となった。 この時期に、幕府によって周辺の河川工事が進められるとともに、伊奈氏や大河内氏らが幕府の 代官による検知が行われ、年貢割付状が発行されるなど、農業政策の基盤が整えられた時代で あった。」 右にあったのが「酒巻村検知帳」と「忍領在々御普請役高辻帳」。 天正18年(1590)に徳川家康が関東に入ると、江戸を洪水から守り、関東の肥沃(ひよく)な平野を 穀倉地帯に変えていくため、大規模な治水対策が行われました。その要の一つが利根川と荒川に 挟まれた忍城を中心とした、忍領の治水対策です。この地域は現在の行田市をはじめ、熊谷市や 鴻巣市、羽生市の一部も含まれる広い範囲で、戦国時代には成田氏の支配領域となっていました。 河川は多くの村々を通るため、治水対策は一村だけではく、流域の村々が共同で当たる必要が あります。ところが、武蔵国の村々は幕府領・藩領・旗本領など領主が分散し、忍領もその 例外ではありませんでした。したがって領主が違う村々を共同で治水に当たらせるには個別の 領主権力を超えた、幕府主導による組合設置の必要がありました。 寛永12年(1635)、幕府は忍領111村、合計10万8千石にも上る村々を対象とした利根川と荒川の 維持管理に関する組合を設置しました。この村々の名前と石高を記したのがこの 「忍領在々御普請役高辻帳(ごふしんやくたかつじちょう)」です。内訳は、幕府領が51村・ 4万7480石余、旗本領が50村・4万590石余、忍藩領が14村・1万9987石余となっています。 村数の合計が合わないのは、一村に複数の領主がいる相給と呼ばれる村々があるためです。 高辻帳に記載された各村の石高が、利根川や荒川の堤防工事や用悪水路などの維持管理に必要な 人足や資材を負担する際の基準となりました。これに基づき、幕府代官が忍領内の普請などを 実施することとなったのですが、寛永19年に組合の管理が忍藩に移管されました。今風に言うと、 国が設置した組合を地方に移管して管理させたということになりますが、忍藩が幕府の権限を 代行して執行することになったともいえます。この役割は文政6年(1823)の国替えにより一旦は 幕府に戻りますが、同13年には再度忍藩が担当することとなり、幕末まで用水管理と普請を 管掌し続けたのです。 ![]() 「大御所となり駿府城(現静岡県静岡市)に生活の拠点を移していた徳川家康は、ニ代将軍の秀忠が いる江戸や忍・川越・岩槻・越谷へも頻繁に訪れた。 忍城の周辺には沼地が点在していたため、水草が茂り、鷹狩の獲物となる水鳥も多く生息していた。 後の忍城主阿部家の事蹟をまとめた「公餘録」には「御本丸ハ権現様殿之御跡」と記されており、 かって忍城の本丸に家康が宿泊するための御殿が建てられていたことが判明している。」 ![]() 「忍領在々御普請役高辻帳 中村家文書 寛永12年(1635) 貞享3年(1686) 水害の絶えない利根川と荒川の堤・井堰・堀等の維持・管理に要する費用を負担する流域村々を 定めた文書。「忍領」と言われる地域に広がっていたため、忍領御普請組合と呼ばれた。組合に 属する村は忍藩領だけではなく、本来は江戸幕府の役人が管理を行う。ところが、幕府は近世を 通じて忍領御普請組合の管理を忍藩に担当させた。全国的にも珍しい事例である。」 ![]() 「鯱(しゃち) これは”しゃち”とよばれる想像上の生きものです。おしろの屋根や門の上にいて、火事がおきた ときには口から水をはき、火をけしてくれるとかんがえられていました。 ここにおかれているのは、江戸時代に忍城の屋根にあった”しゃち”です。 長いあいだ、おしろを見守っていたんですね。」 ![]() 「阿部忠秋自筆覚書」。 ![]() 「現代語意訳 覚え 一、徳川将軍家を中心とする幕府を重んじ、そこへ仕えるにあたってあなたは昼夜とも油断しては ならない。このようなことはわざわざ口にすることではないが、私たちはこれまで将軍から特別に 取り立てていただいてきた。その恩は非常に深いものでありながら、それに報いるほどの働きを しないことは大変に無念なことである。第一にあなたは冥加のためにするべきことは、私たちに 対しては言うまでもなく、先祖たちへの孝行なのである。また、将軍家への奉公にあたっては 周りの様子を窺うのではなく、たとえ身の丈に合わないことであっても勤めるよう心掛けることが 大切なことである。 一、家臣として仕える者については、私たちが取り立てて信頼して仕える者であっても、その者の 不忠・不義・無作法はもちろん、あなたの意に背く場合は少しの用捨をすべきてはない。しかし、 行儀作法を謹み、忠義を重んじ、悪事を行わない者については、家来の上下にかかわらず信頼して 取り立て、慈悲深く召すとよい。私たちが取り立てて信頼し用いる者のうら、右のような者たちは ニ代にわたる忠義が浅いものではないということをよく承知しておきなさい。 一、世の中が泰平てあるので、武土は武道の鍛錬を怠り、武芸の稽古をする者も少ない。また、 身の丈に合わない贅沢をして、家業ではない浪費をし、内々に欲深く百姓を困窮させ、家中の 同輩に道理に合わない処罰をして、倹約の筋を誤り、武士道の嗜みを怠り、生活が乱れた者も いるようである。わざわざ口にすることではないのだが、あなた自身の慎みが第一のことなので ある。もっとも、家臣の下々に至るまで武士の生き方を忘れ作法を取り乱さぬように心を配る ことが肝要なことである。 右のとおり油断なく心に留めるように。そのほかについては注意すべきことはないので、 右の趣旨をもって自ら考えていくようにせよ。 寞文十一年 六月廿八日豊後守(花押) 阿部播磨守殿」 ![]() 「武蔵国の忍藩領 正徳2年(1712)時点」 忍藩領は忍城の城付領だけでなく、荒川流域の秩父領や柿かきのき木領、近畿地方の 摂津国にまで及び、所領高は 10万石を超えていた。 ![]() 「文政6年(1823)の三方領地替え 文政6年3月下旬、3つの大名家を転封させる「三方領知替え」が発令された これによリ、白河藩の松平定永が桑名(伊勢国)に、桑名藩の松平忠堯が忍(武蔵国)に、 忍藩の阿部正権が白河(陸奥国)に移ることとなった。 転封の理由については様々に推測されているが、白河藩が房総半島で行っていた海岸警備が遠隔地 で大きな負担となリ、松平定永が場所を移リたいという願いを幕府に上げていたこと、阿部正権が 病弱で「奉公を勤められるという確認」である将軍への初めての「御目見」を果たせて いなかったこと、これらのニ点が大きなものと考えられている こうして、3家が転封されたことによって現在の3市の縁が作られた。」 ![]() 「松平 忠堯 系譜」 松平 忠堯(まつだいら ただたか)は、江戸時代後期の大名。伊勢国桑名藩7代藩主、 武蔵国忍藩主。官位は下総守。奥平松平家9代。 享和元年(1801年)6月9日、桑名藩主・松平忠翼の長男として誕生。嫡出であったため、 家祖・松平忠明の幼名である鶴松丸を名付けられた。文政4年(1821年)、父の死去に伴い 藩主となり、文政6年(1823年)3月24日には三方領地替えにより、阿部正権の後の 武蔵忍藩へ転封を命じられた。 天保3年(1832年)、侍従に任官。天保9年(1838年)、弟・忠彦に家督を譲って隠居した。 元治元年(1864年)8月14日、死去した。享年64。 ![]() 「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿」。 ![]() 「近世の行田 忍城 二ノ丸御殿 現在の忍中学校あたりは、かっての忍城二ノ丸にあたり、土塁、土塀に囲まれていた。 この建物は、ニノ丸にあった城主の御殿であり、残されている絵図から再現したものである。 そのおおよその規模は間ロ48.5間、奥行28間、総坪数608坪。室数72室。畳数755畳。 廊下8ヶ所。厠11ヶ所。土間8ヶ所。 湯殿2ヶ所である。周囲には、各係の詰める長屋が建てられていた。」 ![]() 軍服・甲冑が並ぶ。 ![]() 「軍服(複製)」 。 ![]() 忍藩士の鎧 「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」。 本甲冑(鎧兜)は兜・面頬・胴に中八幡義一の銘が入った非常に状態の良い具足です。 中八幡義一は阿波蜂須賀家御抱え甲冑師として伝わります。 兜の吹返には金銅(こんどう:銅や青銅に金めっきした物)金具が付き、胴には金で 「丸に三つ柏」の家紋が描かれています。縁起の良い伊多羅貝(いたらがい)の前立と品のある 美女相の面頬が特徴的な具足です。浅葱色(あさぎいろ)の縅糸も鮮やかで非常に美しい 甲冑(兜鎧)です。 ![]() 「鉄錆地胸取横矧桶側五枚胴具足」 ![]() 「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足」。 ![]() 「鉄錆色漆塗縦矧桶側ニ枚胴具足 忍藩士柴田家伝来 江戸時代 兜は鉄板16枚をつなぎ合わせて漆を塗った十六間筋兜。忍藩主(奥平)松平家の合印である 釘貫紋の前立を立てる。しころは鉄板5枚を黒漆塗として紺色で素懸威とした日根野形。 胴は鉄板を縦につなぎ合わせて漆を塗った縦矧桶側ニ枚胴で、前立挙と胸板を黒韋(くろがわ)で 素懸威とする。草摺(くさずり)は煉革(ねりかわ)5枚を黒漆塗として黒韋で素懸威とした 七間五段下り。袖は鉄板6枚を黒漆塗として縹色(薄い藍色)の糸で素懸威にする。 籠手は鉄錆色漆塗の六枚筒籠手。佩盾(はいだて)は鎖に鉄製漆塗の骨牌金(かるたがね)を綴じる。」 ![]() 「近世の行田 城下町のくらし 町のようす」。 ![]() 「近世の行田 城下町のくらし 町のようす 城下町行田は、阿部氏の整備によりその基礎が定まり、(奥平)松平氏の移對により拡張され、 今日に至っている。 城下町特有の間口が狭く、奥行が長い地割りは今でも残されている。 江戸時代にはこの町もたびたび大火にあい、特に弘化3年(1846 )の大火では町の大半を焼失した。 この時以来、土蔵造りの家は火に強いと、本町や新町に多く造られるようになったといわれる。」 ![]() 「日本遺産 足袋蔵のまち行田」。 ![]() 「足袋と行田」ゾーンでは、「行田における足袋製造の歴史」👈リンク を学ぶことができた。 ![]() 行田は近世より足袋の産地として知られた地域。明治中期にミシンや裁断機が導入され、 大量生産が可能となり、最盛期の昭和戦前期には全国生産量の80%を占めていた。 ここ行田市郷土博物館が開館以来、長年にわたり収集・整理を行ってきたもので、行田の 地場産業として営まれてきた足袋製造に関する用具と、製品や販促品等の関係資料から 構成されていた。 製造用具は全工程を手作業で行っていた時代の用具から、分業に特化したミシンは裁断機等、 機械化以降の用具までがあり、我が国における製造業が近代的な製造形態へと移行していく 流れを読み取る上でも重要な資料です。関係資料には行田で製造された製品や付随する販促品、 足袋屋の店舗で使用された様々な物品等が含まれています。資料を通じて、製造のみならず 販売も自ら行う足袋屋が個々に併存し、地域総体の産業として発展したという行田足袋の 地域的な特色が窺えたのであった。 ![]() 「裁断機」。 ![]() 「裁断機 ・・・・・????? 足袋生地の上に裁断用の型を置いて、手動で上からハンドルで押し、抜き打ち裁断する機械」。 底型 足袋の底の部分 親指と人差し指の間の 指の股にスリットが入っています。 人間の全体重を支えます。 四ツ型 人差し指、中指、薬指、小指の四本の指が入る側、前に進む力を作るなど指が快適に包まれて いることが大切です。 親型 親指が入る側 踏ん張ったり、バランスをとったりするのに指が自由に動かせることが重要です。 ![]() 「掛通しミシン」。 掛糸通しという工程です。 かかとで止め金(甲馳=コハゼ)を掛けるための糸(掛糸)を親型に一気に通します。 甲馳に対して寸法を気をつけないと履き心地がよくない。 二度通しをしないこと、よりの戻った糸は使わないことで、足の動きを快適にしています。 ![]() 「掛通しミシン 甲馳(こはぜ)の掛け糸を付けるミシン。生地のカカト部分に針を刺して引き抜くことで 糸を通す。布同士の縫い合わせに使われるミシンと比べて大きく異なる形が特徴。」 ![]() 「甲馳付けミシン」 ![]() 「甲馳付けミシン 生地に甲馳を縫い付けるミシン。甲馳形のくぼみがついた専用の板を生地の上に置き、くぼ みに甲馳を並べて、その上をまっすぐに一往復縫う。針は甲馳に開けられた3か所の穴を的確 に通り、甲馳を傷つけない仕みになっている。」 ![]() 「爪縫いミシン」 ![]() 「爪縫いミシン 爪先を縫うミシン。生地に均等な大きさのひだを寄せながら縫い、爪先を立体的に仕上げる 複雑な動きをする。元は革靴を縫うために使われていたドイツ製のミシンを足袋製造用に 改良したもので、通称「ドイツ八方」と呼ばれる。 爪縫いは足袋の履き心地を左右する重要な工程であり、また非常に繊細な作業であるため、 爪縫いミシンを扱うには熟練した技術が必要とされる。」 ![]() 「廻しミシン」。 ![]() 「廻しミシン 爪先を縫った後、残りの部分を縫って底と甲とを縫い付けるミシン。」 ![]() 「仕上げをする職人」。 ![]() 横から。 ![]() 「仕上げをする職人 (チャセンとツッコミボウを使う様子) 縫い終えた足袋の形を整える一連の作業を「仕上げ」と呼ぶ。見た目以上に力が要るため、 主に男性の職人が担う。」 ![]() 左:「紺紐足袋」 右上:「刺し子の紺足袋」 右下:「東海木曽両道中懐宝図鑑」 ![]() 「紺紐足袋 紐足袋の一種。踵(かかと)側に穴が開いており、内側から紐を通して締め具合を調節できる」 ![]() 「刺し子の紺足袋 爪先など、すりきれやすい部分に刺し子(補強用の刺繍)を施し、頑丈に作った足袋。 「東海木曽両道中懐宝図鑑」に出てくる「忍のさし足袋」は、刺し子の足袋を示すと考えられる。」 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ ![]() 行田天然温泉 ハナホテル行田 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.08.05 07:07:04
コメント(0) | コメントを書く
[国内旅行] カテゴリの最新記事
|