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カテゴリ:JINさんの農園
境内のソテツの木と狛犬を見る。
![]() 龍の絵と「叶」の文字の絵馬。 ![]() 「老山福壽稲荷社」 享保11年(1726)2月勧請。 ![]() 「正一位 老山福壽稲荷社」。 ![]() 内陣。 神輿が奉納されていた。 ![]() その隣にも、小さな社・「武雄神社」があった。 弘化元年(1844)5月勧請。 旧西浦賀村田中住民尾島善四郎心願成就の為。 ![]() その前にあったのが「大廟参拝記念」と刻まれた石柱。 石段脇の石柱には、中央に「金毘羅大権現」、右に「秋葉大権現」、左に 「老山 福寿稲荷大権現」と刻まれていた。 ![]() 石段の途中、左には石碑と石仏が。 ![]() 石碑にズームしたが判読不可。 ![]() 本殿を見る。 ![]() 石鳥居の先にも境内社があった。 横須賀市西浦賀1丁目1−13。 ![]() 1つの小社の中に4柱の境内社がお祀りされていた。 ![]() 右から「淡島神社」。 ![]() 享保9年(1724)安産・医薬の神として勧請。御祭神は、大名持命、少名彦命。 ![]() 左隣に「大鷲神社」。 ![]() 元鎮守と称し、「叶神社」創立前に勧請されたと言われている。 ![]() 左隣に「三峰神社」。 ![]()
![]() 一番左に「船守稲荷神社」。 ![]() 元文4年(1739)浦賀港に出入りする船の航海安全を祈念して勘定された。
![]() 池と石鳥居の姿が眼下に。 ![]() 更に奥に、本殿の横には真新しい石の鳥居があって、扁額には「福寿辯財天」と。 ![]() 扁額「福寿辯財天」。 ![]() 「福寿辯財天 文政六年(一八二三) 創建」 ![]() 鳥居の奥には、池があり、その奥の擁壁の下に穴祠があり、そこに弁天様がお祀りされている ようであった。 ![]() 穴祠をズームして。 ![]() 句碑であっただろうか? ![]() 池には鯉が。 ![]() 再び拝殿前に戻り、見事に枝を伐採されたイチョウの老木を見る。 ![]() イチョウの老木を見上げて。 ![]() 一段下がった場所にあった「社務所」前から「西叶神社」の拝殿・本殿を見上げる。 ![]() 「社務所」。 ![]() 「社務所」の白壁にも見事な彫刻が。 ![]() 社務所玄関欄間壁の「鏝絵(こてえ)」。 左官職人が、土蔵などの壁の仕上げに鏝(こて)と漆喰(しっくい)で作り上げたレリーフを 鏝絵と呼び、江戸時代の中頃から数多く作られ、浦賀にも数点が残されています。 干鰯問屋(ほしか)と廻船問屋で栄えた浦賀には、土蔵造りが盛んであったことから漆喰壁を 塗る左官職人も多く、中でも川間(西浦賀)に住む石川善吉は「三浦の善吉」として 「伊豆の長八(入江長八)」とともに、全国的に知られる漆喰細工の名人でした。 浦賀には善吉とその息子吉蔵(9代目)、梅尾(10代目)の作品が残っています。 また、岩田辰之助、岩田徳太郎兄弟の作品も残っています とネットから。 ![]() 司馬温公は中国北宋の人。ある日、友人と遊んでいる時、友人が誤って瓶の中に落ちたのを、 温公が直ちに石で瓶を壊したという故事を、二間にわたって表したものである。 昭和5年(1930年)に社務所建立の際、石川善吉が制作したという。 左側には水瓶を割る子。 ![]() 右側には割れた水瓶より流れる水の中から童子が顔を覗かせ、助けられた一瞬の出来事を 漆喰で表現しています。 ふっくらした丸い顔、いきいきとした漆喰細工は、名人「三浦の善吉」の装飾壁の傑作です と。 ![]() 珍しい色彩のアジサイ・紫陽花の花が既に開花。 ![]() 近づいて。 ![]() 碇もあった。 ![]() 「奉納 碇 海洋画伯 飯塚羚見は東京湾特に、浦賀港出人船舶の水難除け・航海安全を願って奉納」 ![]() 「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑」。 ![]() 「明治天皇駐輦(ちゅうれん)之跡の記念碑 明治天皇 明治十四年五月一八日 観音畸に行幸の際 当叶神社境内に御滞在御休憩せられし御跡の記念碑です 文字は当時陸軍大将にして後に明治神宮宮司の一戸兵衛氏の揮亳です」 ![]() その奥の一段上がった場所にあった石碑群。 ![]() 庚申塔群。 ![]() 神職の先祖代々の墓・「感見家之墓」と。 叶神社の神主が1868年の神仏分離前に僧侶だった感応院から「感」を使用したと伝える と。 ![]() 再び本殿前脇から「社務所」を見ながら、「西叶神社」を後にして次の目的地の 「東福寺」に向かったのであった。 ![]() ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024.05.02 22:16:36
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