小田原城下を歩く-1(その11): 小田原スポーツ会館~報徳二宮神社・表参道大鳥居~報徳博物館~清閑亭
「藤棚」交差点を左折し、「報徳二宮神社」方向に向かう。左手にあったのが「小田原スポーツ会館」。小田原城三の丸(藤棚前)に位置するスポーツ施設。. 体育館・柔道場・トレーニング室を配備。市民が気軽に利用出来る施設。この「小田原スポーツ会館」を卒業した東海大学の学生、天野開斗君の全日本柔道体重別選手権大会、世界ジュニア柔道選手権ポルトガル大会の優勝報告が入口に掲載されていた。小田原城 南曲輪 南堀(蓮池)の蓮の花は既に終わっていた。「国指定史跡 小田原城」案内板。小田原城の歴史小田原城は、15中世中頃に大森氏が築城し、文亀元年( 1501 )までに、伊勢宗瑞(北条早雲)が大森氏に代わり支配下としたとされます。以後、北条五代(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)の本城として約100年にわたり、拡張・整備されました。永禄4年(1561)には、長尾景虎(上杉謙信)、同12年(1569)には、武田信玄に相次いで攻撃を受けましたが、城の守りを固め籠城により退けました。天正18年(1590)、天下統一を目指す豊臣秀吉との小田原合戦に際しては、周囲約9kmにわたり、堀と土塁によって城下を取り囲んだ総構を築き、守りを固め籠城しましたが、支城が次々と落城し、ついには開城しました。北条氏の滅亡後は、徳川家康の重臣、大久保忠世が城主となり、城は三の丸以内に規模が縮小されるとともに、北条時代の城を改変し、三の丸外郭を構築するなど近世城郭の原型が築かれました。寛永9年(1632)、稲葉正勝が城主となり、その子、正則の代には、天守と櫓や城門を各所に設け、石垣と水堀による近世城郭へと大きく生まれ変わりました。その後、貞享3年(1676)に大久保氏が再び城主となりましたが、元禄16年(1703)の元禄地震で、天守をはじめすべての建物が焼失するなど、何度も地震の被害を受けています。小田原城は、江戸幕府の西の守りを固める防衛上の要衝として、また、幕藩体制を支える譜代大名(大久保氏・稲葉氏など)の居城として、幕末まで重要な役割を担いましたが、明治3年(1870 に廃城となり、天守閣などの主要な建物は解体されました。小田原城周辺ガイドマップ。小田原城の歴史。「伊勢宗瑞(北条早雲) Hojo Soun戦国の魁として知られる北条早雲は、素浪人から戦国大名に成り上った下剋上の代表的人物と言われていましたが、現在では、備中伊勢氏の出身で、室町幕府の高級官僚(申次衆)を務めた人物であることがわかってきました。宗瑞は伊豆の韮山城を居城とし、小田原城は婀男の氏綱が在城していました。また、北条と名乗ったのはニ代氏綱からです。」北条氏直 Hojo Ujinao北条氏は宗瑞(早雲)、氏綱、氏康、氏政、氏直と五代約100年続きましたが、その間、家督相続をめぐる争いもなく家臣の謀反もなかった戦乱の世においては稀有な一族です。氏直は小田原合戦で開城にあたり、自らの命と引き換えに家臣たちの助命を申し出たといわれます。秀吉により助命され、高野山に蟄居の後、大名に復すも天正19年( 1589 )に没しました。」「空から見た小田原城 Aerial Photograph of Odawara Castle小田原城の登城は、ニの丸東堀を馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。さらに天守(閣)へは、常盤木坂をのぼり常盤木(九輪)橋を渡り、常盤木門をくぐり本丸へと登ります。これが江戸時代の正式な登城ルートです。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。」「国指定史跡 小田原城」の手前にあるこのマークは「文化財愛護シンボルマーク」。このマークは、文化財愛護運動を進めるため、昭和41年(1966)に定められた。日本建築の重要な要素である斗きょう(柱の上部で軒を支える部分のこと)をイメージしており、これを3つ重ねることで、文化財を過去・現在・未来にわたって伝承していくという愛護精神を表しているのだ と。「小田原城南曲輪西南二重櫓」案内板。「小田原城南曲輪西南二重櫓近代以降の小田原城小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治34年(1901)には、二の丸内に御用邸が建設されました。しかし、大正12年(1923)の関東大震災では石垣が崩壊し、壊滅的な被害を受けました。御用邸は廃止され、二の丸堀北側一帯や住吉堀などが埋め立てられました。昭和4年(1929)、銅門一帯には、小田原高等女学校(小田原城内高等学校)や町立第二尋常小学校(城内小学校→三の丸小学校)が建設されました。昭和初期には、二の丸の石垣などが復旧されましたが、第二次大戦後は、本丸周辺には動物園や遊園地が、御用米曲輪には市営小田原城が設置され、城跡としての景観は失われていました。小田原城の史跡整備小田原城は、昭和13年(1938)に初めて国史跡に指定され、本丸・二の丸の大部分と八幡山古郭や三の丸外郭、総構の一部が国の史跡になっています。昭和35年(1960)に天守閣、昭和46年(1971)に常盤木門が復興されましたが、史跡内に多くの施設が残ったままでした。昭和51年より市庁舎をはじめとした施設移転が進められ、昭和58年(1983)からは、本格的に史跡整備に取り組み、二の丸住吉堀の発掘調査に着手した。平成2年(1990)には、住吉堀石垣と住吉橋が復元され、平成9年に銅門桝形が復元されました。そして、平成21年(2009)には、馬出門が復元され、近世小田原城の大手筋からの登城ルートの歴史的景観がよみがえってきました。小田原城は、北条氏の中世城郭と江戸時代の近世城郭の複合的な城郭として知られていますが、本丸・二の丸の範囲は近世城郭としての整備が進められています。一方、丘陵部に展開する戦国時代の城郭遺構は、八幡山古郭東曲輪や三の丸外郭の清閑亭土塁、新堀土塁など史跡指定が進められ、史跡公園として公開されています。史跡小田原城跡の主な整備事業一覧 昭和28年(1953) 天守台石垣復旧 昭和35年(1960) 天守閣復興 昭和46年(1971) 常盤木門復興 昭和62年(1987) 住吉堀復元工事開始 平成02年(1990) 住吉堀・住吉橋復元工事完了 平成07年(1995) 銅門枡形石垣復元整備工事完了 平成09年(1997) 銅門復元工事完成 平成11年(1999) 本丸東堀遺構表面表示 平成18年(2006) 馬出門枡形石垣復元整備工事完了 平成21年(2009) 馬出門枡形門・土塀整備工事完了 平成23年(2011) 馬屋曲輪修景整備事業完了」「南曲輪西南二重櫓横浜の英字新聞「ザ・ファーイースト」明治4年(1871)12月1号に掲載された南曲輪西南二重櫓の写真です。廃城時には、屋根瓦や白壁も崩落し、荒れ果てた姿でした。正面の石垣は、二の丸南堀と南曲輪の石垣ですが、大正12年(1923)の関東大震災によって崩壊し、昭和初期に復旧されたものです。」「馬出門と銅門」と「小田原城天守閣」「馬出門と銅門Umadashi-mon Gate and Akagane-mon Gate小田原城への登城は、馬出門土橋を渡り馬出門を通って、馬屋曲輪から住吉橋を渡り、銅門を通りニの丸主部に至ります。昭和58年から本格的にスタートした史跡小田原城跡の史跡整備は、この大手筋の登城ルートの歴史的景観の復元を目指して進められてきました。」「小田原天守閣Donjon 0f Odawara Castle小田原城天守閣は現存する天守ひな型模型や絵図などを基に昭和35年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。4階展望室からは相模湾が一望でき、天気の良い日には房総半島まで見ることができます。」「江戸時代末期南曲輪一帯Illustration map of Odawara Castle during Edo period.南曲輸には西南隅(図書館側)と東南隅(郷土文化館)に2楝の櫓が建っていました。この櫓は千鳥破風や石落しを備えた優美なニ層櫓でした。看板が立っている藤棚一帯は堀の一部を埋め立てた場所に位置します。」「小田原城 南曲輪 南堀(蓮池)」にはカルガモの姿が。「報徳二宮神社」の「表参道大鳥居」を見る。「報徳二宮神社」。そして坂を上り「報徳博物館」を訪ねた。残念がら、水、木、金曜日は閉館と。この日は9月20日(金)であった。次回に訪ねることとし外からの写真を撮る。「公益財団法人 報徳福運社 報徳博物館」入口を道路脇から。「二宮尊徳就学の地二宮尊徳(金次郎)は、若いころ小田原藩家老の服部家(ここから二〇〇ほど上がった所)に若党として奉公をしていました。そして、漢学塾へと通う同家の若様のお伴をして、小峰坂と呼ぶこの前の道をいつも通っていました。また、この博物館のある場所は、当時、近藤某という書物好きな藩士の屋敷があり、尊徳は、時々、ここに寄って書物を借りて読んだということです。こうして、尊徳は学問の幅を広げていきましたが、報徳博物館はこうした縁りの場所に建っております。 報徳博物館」「報徳博物館」。さらに「小峰坂」と呼ぶ坂を上って行った。「国登録有形文化財 小田原別邸料理 清閑亭」案内板。前方が「清閑亭(せいかんてい)」への入口。「小田原別邸料理 清閑亭」と。しかし未だ「準備中」と。時間は10:41。開店は11時からと。「清閑亭(黒田長成(くろだながしげ)別邸)」案内板。「清閑亭は黒田長成侯爵の別邸だった邸園(邸宅と庭園を合わせた造語)です。明治39年(1906)、黒田家が別莊を造営。その後、平成17年(2005)に建物が国登録有形文化財となり、翌年には敷地が国の史跡に指定されました。現在は回遊ネットワークの拠点として公開しています。清閑亭の特徴は、格式ばらない近代数寄屋建築の建物と、その座敷から見ることができる相模湾の大らかな眺望にあります。往時の主が楽しんだ、小田原ならではのゆったりとした時の流れを、今でも体感することができます。」「清閑亭」は明治39年(1906年)頃に造営された数寄屋風書院造りの建物。明治から昭和初期にかけて活躍した政治家・黒田長成侯爵の旧別邸です。黒田侯爵は、豊臣秀吉にもっとも頼りにされ、天才軍師と呼ばれた「黒田官兵衛」の流れを汲む黒田家の十三代目当主です。清閑亭の立地する場所は、旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に位置しており、400年前の史跡の上に118年前の国登録有形文化財の建造物が建つ歴史的に大変価値の高い建物となっております。また、晴れた日は母屋から真鶴半島や大島が浮かぶ相模湾や、箱根山を一望できます と。「小田原邸園散歩 周辺案内図」。清閑亭周辺は「天神山(てんじんやま)」と呼ばれる尾根の先端部で、小田原の街や相模灘(さがみなだ)を一望できる眺望に恵まれた場所で、ほかに皇族の閑院宮(かんいんのみや)家、山下(やました)家(旧山下汽船創業者)、北原白秋(きたはらはくしゅう)など多くの文化人や政財界人、軍人が邸宅や別邸・別荘を構えていたとのこと。以下 Wikipediaより抜粋・山下亀三郎 1867年5月12日〈慶応3年4月9日〉 - 1944年〈昭和19年〉12月13日)は、日本の実業家。 勲一等。山下汽船(現・商船三井)・山下財閥の創業者。勝田銀次郎、内田信也と並ぶ 三大船成金の一人。・秋山真之 1868年4月12日〈慶応4年3月20日〉 - 1918年〈大正7年〉2月4日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍中将。位階勲等功級は従四位勲二等功三級。勲二等旭日重光章、功三級 金鵄勲章を授与された。通称は淳五郎(じゅんごろう)・瓜生外吉 安政4年1月2日(1857年1月27日) - 昭和12年(1937年)11月11日)は、日本の海軍軍人。 最終階級は海軍大将。位階は正二位男爵。 石川県出身。妻は瓜生繁子(旧姓永井)。嵯峨源氏渡辺氏流瓜生氏の流れを汲むという。・閑院宮載仁親王 1865年11月10日(慶応元年9月22日) - 1945年〈昭和20年〉5月20日)は、日本の皇族、 陸軍軍人、日本赤十字社総裁、東京地学協会総裁(1895年 - 1945年)、日露協会総裁 (1911年 - )。 伏見宮邦家親王第16王子。称号・階級並びに勲等功級は元帥陸軍大将大勲位功一級。 世襲親王家の閑院宮第6代当主。 1900年以後から第二次世界大戦終了直前まで皇族軍人として活躍。親王宣下による親王では 最後の生存者であり、また大日本帝国憲法下最後の国葬を行った人物である。 貴族院の創設に伴って皇族議員となり薨去まで54年6ヶ月間務めた。これは貴族院のみならず 参議院まで含めても最長在任記録である・田中光顕 1843年11月16日〈天保14年閏9月25日〉 - 1939年〈昭和14年〉3月28日[2])は、 日本の政治家。栄典は従一位勲一等伯爵。初名は浜田辰弥。通称を顕助、号は青山。「清閑亭正面」。黒田 長成(くろだ ながしげ、慶応3年5月5日(1867年6月7日) - 昭和14年(1939年)8月14日)は、日本の政治家で華族(侯爵)。号は桜谷。父は筑前福岡藩の最後の藩主黒田長知。母は側室・隅田氏。妻は公爵島津忠義の娘清子。後嗣は嫡男・黒田長礼。黒田家17代目の当主である。位階は従一位、勲等勲章は勲一等旭日桐花大綬章。1894年から1924年までの約30年間、貴族院副議長を務めた。1905年、副島種臣死去の後を継けて、東邦協会の会頭となった。1908年12月11日、麝香間祗候となる。1924年に枢密顧問官、議定官に任じられ、以後終生その官にあった。1939年に薨去。享年73。墓所は、東京都港区南青山の青山霊園。毎年、8月14日の命日には小田原市にある旧黒田家別邸清閑亭にて、長成侯爵を偲ぶ桜谷忌が催されている とウィキペディアより。「清閑亭中庭」。入口にあった風鈴の音が暑さを和らげてくれたのであった。近づいて。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)」案内板。「国指定史跡 小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)史跡小田原城跡 三の丸土塁(清閑亭土塁)について清閑亭土塁は小田原城三の丸土塁の一部で、天神山丘陵の尾根が平地部に接する部分にあたり、この地形を利用して土塁や空堀を巧みにめぐらし、城の出入口である虎ロも設けていたようです。北側には城の中心域を控える一方、南側には城下町が広がっており、戦国時代から重要な位置にあったことがうかがえます。この清閑亭土塁は平成18年1月に国指定史跡に指定されました。小田原城八幡山古郭・総構について戦国時代の小田原城は現在の城址公園部分ばかりでなく、さらに西側の県立小田原高校付近までをその中心域としており、この区域を「八幡山古郭」「八幡山遺構群」と呼んでいます。現在も空堀の跡が地表で観察できる場所があるほか、発掘調査で堀跡や井戸跡、石積みを伴う道路の跡が確認されたところもあります。総構(そうがまえ)は天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めに備えて築かれた小田原城の一番外側の守りで、全周約9kmの土塁と空堀で城下町を囲んでいます。これにより小田原城の面積は約3.48平方キロメートルにも達し、全国有数の規模を誇る巨城となりました。総構は現在でも町のあちこちにその痕跡をとどめていますが、特に西部丘陵地帯は保存状態がよく、北条氏による築城の技術を観察することができます。」「国登録有形文化財 清閑亭(旧黒田長成別邸)国登録有形文化財 清閑亭(旧黒田長成別邸)について清閑亭は貴族院副議長・枢密顧問官などを務めた公爵(慶応4年(1867)・昭和14年(1939))の小田原別邸として明治39年(1906)に設けられました。現在、数寄屋風書院造の母屋と海への眺望に優れた庭園が残されています。建物は木造平屋建(一部2階)入母屋造りの和風建築で、母屋は数寄屋書院造となっており、大正初期頃の様式を備え、かっての邸園(邸宅・庭園)の趣を伝えています。明治40年(1907)には隣に閑院宮別邸が設けられ、宮家と黒田家とは交流を深めていました。その後、昭和21年(1946)から昭和38年(1963)までは東京国立博物館長などを歴任した浅野長武が住まい、東洋学者ルネ・グルッセ、松永安左ヱ門ら著名人も数多く訪れました。母屋は平成7年(2005) 7月に国の登録有形文化財となり、平成22年(2010) 6月から小田原邸園文化の交流拠点として公開されています。小田原の邸園(邸宅・庭園)について小田原では明治22年(1889)に本町四丁目の海岸に伊藤博文が別邸滄浪閣を建設したことや、明治33年(1900)に小田原城跡に御用邸が設けられたことなどが契機となり、戦国の雄北条氏や豊臣秀吉が築いた石垣山一夜城の遣る小田原を好んだ政財界人・文人の邸園が数多く開かれました。特に広大な小田原城の遺構群は北条氏や豊臣秀吉などの英雄をしのばせる場所として好まれ、土塁からの眺めや土塁と堀の起伏をいかした邸園がつくられていきました。小田原城周辺では、南町や板橋に多く別邸がありましたが現在も清閑亭をはじめ、南町の田中光顕伯爵別邸(現・小田原文学館)や板橋の松永安左ヱ門別邸(現・小田原市郷土文化館分館松永記念館)などが保存・公開されています。」黒田長成(1867 ~ 1939) 出典:国立国会図書館より。清閑亭正面。移動して。暖簾には「すっぽん 水炊き 小田原別邸料理 清閑亭」と。小田原駅までの無料送迎車「お駕籠」も出番待ち。城下町小田原の風情を感じさせる武士や貴族の乗り物「御駕籠(おかご)」をイメージした造りとなっており、環境にも配慮した電気自動車であると。「清閑亭」パンフレットの一部。「清閑亭」間取り図をパンフレットから。東棟内部の写真をネットから。庭から東棟2階の見える写真をネットから。2階からの光景をネットから。メニュー「鶏の水炊き」・「すっぽんまる鍋」をパンフレットから。ソフトドリンク・かき氷・冷製麺 メニュー。「清閑亭」を後にして、横の急な坂道を上って行った。「清閑亭周辺の縄文時代の遺跡」案内板。「現在地は、箱根外輸山から小田原市街地に伸びてきた丘陵の先端部付近に位置し、周辺は天神山と呼ばれています。天神山の名は、この丘陵の南側にある山角天神社に由来し、天保年間に書かれた「相中雑志」に、初めて確認することができます。天神山周辺で遺跡の存在が広く知られるようになったのは、昭和36年(1961)の旧県立小田原城内高等学校(城内高校)の建設工事の時でした。今からおよそ5,500 ~4,000年前の縄文時代中期・後期の土器や石器が採集されています。その後、昭和63年(1988) 2月の城内高校外側の擁壁補強工事の際に、天神山遺跡第I地点の発掘調査が行われました。縄文時代中期初めの五領ヶ台式土器が多く見つかり、人びとが天神山周辺に定着し始めたことを物語っています。天神山周辺での人びとの活動は古く、現在地から北西に約220mの天神山台遺跡の調査では、約15,000年前の縄文時代草創期の石器が見つかっています。出土した石器は、神子柴型石器と呼ばれるタイプで、長さ14.1cm、幅5.5cm、厚さ4.4cm、重さ399gと重量感があり、刃の部分を局所的に磨いて仕上げていることが特徴的です。また、天神山台遺跡の調査では、石を囲って構築した縄文時代中期の石囲炉も複数見つかっています。もともとは竪穴住居跡の内部に造られていたものと考えられます。」「清閑亭」土塁。「清閑亭」の立地する場所は、旧小田原城三の丸外郭土塁の南向き傾斜地に位置しており、天神山尾根筋の先端に位置する「清閑亭」には三の丸の土塁が残されていた。現在では、清閑亭敷地内とアジアセンター跡地内に残る土塁が国指定史跡として保存されており、当時の面影を残しているのだ と。 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・・