旧東海道を歩く(豊明駅~桑名宿)その2:豊明市・神明社~桶狭間古戦場
『旧東海道を歩く』ブログ 目次前後駅前交差点を渡った最初の右手筋を入ると、Y字路中央に『地蔵堂』があった。『地蔵堂』をズームで。『地蔵堂』には、陽刻の地蔵尊が祀られており、碑面には文字が刻まれ、道標を兼ねているようである。街道に戻ると5~60m程先の右手に『道標』(写真右)が建っていた。この道標は風化が激しく文字は正確に判読できなかったが、ネットで調べてみると「祐福寺ふくた原道」 「文化四丁卯年」 などの文字が確認できるのだと。祐福寺はここより4km程北にある浄土宗の寺院で、桶狭間の合戦の前日に今川義元が宿泊したと伝えられているのだと。道標の直ぐ隣に連子格子の『旧家』。旧東海道を更に進むと、右手に『神明社社標』と明治43年(1910)の『常夜燈』が建っていた。右手に折れ進んでいくと、その先国道1号線を渡ったところに『神明社』があった。昔の参道が、国道1号線によって分断されてしまったのであろう。『手水舎』。『神明社拝殿』鎮座地は、愛知県豊明市前後町宮前、祭神は天照大神。『末社案内板』。■『津島社』祭神 素戔嗚尊創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており御神体は現在の愛知県津島市明神町より鎮座と伝えられており、厄除け・諸災害祓い病の御利益がある■『秋葉社』祭神 加具都知命創建勧請年月日は不詳伝説によると寛延二年(1749)五月本殿、拝殿建て替えと同時に創建と言い伝えれれており、御神体は現在の静岡県周智郡春野町より鎮座と伝えられており。鎮火・防火守護神の御利益がある。■『山神社』祭神 大山衹命創建勧請年月日は不詳伝説によると明治五年(1872)七月に三ツ谷部落より勧請したと言い伝えられており、御神体は現在の愛媛県越智郡大三島村より鎮座と伝えられており、家内安全・商売繁盛の御利益がある。鉄柵に覆われた『境内社』。国道1号線への合流地点手前。国道1号線に合流し左に折れ藤田外科病院前を進む。前方に名鉄名古屋本線のガードが姿を現す。ガードの手前、『競馬場前』交差点。交差点角にあった巨大な馬の蹄鉄とその上に競走馬の姿のモニュメント。この場所から3~400m先が『中京競馬場』正門。名鉄名古屋本線のガードを潜る。そして次の信号のある交差点には『桶狭間古戦場』案内標識が。T字路交差点には『桶狭間古戦場まつり』の横断幕が。T字路交差点を左に折れ進んで行く。そして『国指定史跡 桶狭間古戦場 伝説地』に到着。『伝説地』の表示が意味深長なのであった。『桶狭間古戦場伝説地』入口。『史跡 桶狭間古戦場』の石柱が入口に。『古戦場』案内板。「この地は、永禄三年(一五六○)五月十九日、今川義元が織田信長に襲われ戦死した所と伝えられ、田楽狭間、あるいは舘狭間と呼ばれた。 今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和八年(一七七一)七石表が建てられた。 文化六年(一八○九)には、桶狭間弔古碑が建立された。 また、戦死者を弔って建てられた、おばけ地蔵・徳本行者念仏碑などがある。」一帯は公園になっており、遊歩道を進む。道路沿いの『一号碑』。今川義元・松井宗信・無名の人々の塚があり、明和8年(1771)『七石表』が建てられ、文化6年(1809)には桶狭間弔古碑が建てられた。『七石表(1号碑)』「桶狭間の戦いで今川義元の戦死した場所を示す、最も古いものである。 明和八年(一七七一)尾張藩士人見弥右衛門黍、赤林孫七朗信之により建てられた。北面 「今川上総介義元戦死所」東面 「桶狭七石表之一」南面 「明和八年辛卯十二月十八日造」と刻まれている。」道路を隔てた竹藪の法面にも多くの石碑や石仏群が立っていたのでこの後に訪ねた。『今川治部太輔吉元(いまがわじぶだゆうよしもと)の墓』『今川治部太輔吉元の墓』。「駿河・遠江・三河の国守、今川義元は西上の途次、永禄三年(一五六○)五月十九日に織田信長の奇襲に遭い、ここで倒れた。 ここには、その霊が祭られている。以前、ここは塚であったが有松の住人山口正義が主唱し明治九年五月に、この墓を建てた。」『桶狭間の戦いと進軍ルート図』と『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。戦国時代の武将である今川義元(いまがわよしもと)は、三河(みかわ)、遠江(とおとうみ)、駿河(するが)の領主でしたが、さらに領地を広げるために、織田信長の領地である尾張への侵攻の機をうかがっていました。鳴海(なるみ)城、大高(おおたか)城を織田家から奪った義元に対し、信長も鷲津(わしづ)砦、丸根(まるね)砦を築くことで対抗します。このような動きを阻止すべく義元は1560(永禄3)年に国境の沓掛(くつかけ)城に入城します。義元の命により松平元康(のちの徳川家康)は丸根砦と鷲津砦を落とし、信長は義元への応戦を決意します。信長は5月19日の明け方、出陣前の清洲城において「人生五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり」というフレーズで有名な幸若舞(こうわかまい)の「敦盛」を舞います。清洲城を出発した信長は、熱田神宮で戦勝を祈願します。信長はこの熱田において鷲津砦と丸根砦から煙が上がっているのを知ったと言います。昼になり信長軍は中島砦より出撃を開始します。3,000という少数の兵で進軍した信長軍は、相手に気づかれることなく桶狭間で休息中の今川義元本陣を急襲しました。この急襲に際し信長は「運は天にあり、敵が懸(か)からば引け、退けば押せ、個々の巧名争いを避け、常に組織的に行動せよ」との訓示を兵に与えました。先遣隊が敵を引き付けて、残りの2,000の兵が本陣を攻めたのです。この際、空が曇り大風雨が起こります。敵の攻撃拠点を落とし安心していた義元ですが、豪雨が止んで視界が開けると信長軍が目前に迫っており、急いで陣を引き払い退却します。しかしこの退却の混乱の最中、義元は討ち取られてしまいます。『桶狭間古戦場 石碑配置図』案内板。七石表は、古戦場伝説地の中で一番古い史跡で、明和8年(1771)12月18日に尾張藩士人見弥衛門・赤林孫七郎により建立された。全部で7本あり、全てに「桶峡七石表之一」と彫られ、6本は伝説地内にあり、一号碑には、「今川総介義元戦死所」と刻まれている。二号碑は高徳院墓地内にあり「松井八郎塚云五郎八」と彫られている。『桶狭間古戦場の古絵図と古写真による変遷』案内板。『桶狭間合戦戦場 地形図と戦いと進軍ルート』『今川義元公 生誕 五百年』案内板。『今川義元公 肖像画』以上の案内板の前で、ボランティアのオジサンが我々二人に『熱く』説明してくれたのであったが知識不足の私には少し辛い時間でもあったのだ。『桶狭間古戦場趾 愛知縣』石柱。『弔古碑』。下記の如き内容が書かれているのだと。1、永禄3年駿河の今川義元侯が西へと軍を進め、5月19日桶狭間山の北に陣をしいた。 織田公奇兵をもって之を襲い義元侯を滅ぼした。2、今川義元は大軍を率いて尾張に侵入、鷲津・丸根の砦を攻めて陥落させ 『明日、朝食する頃には清洲城は取れているだろう』と豪語 した。家臣たちは勝利を祝賀し、 陣中で祝い酒が出された。その時、黒雲が沸き起こり暴風雨となった。 織田軍が攻め込む振動音と鬨の声が背中のほうから聞こえたが、誰も突然襲われると思って おらず、本陣は大混乱となり、格闘するが2500人の死者が出た。この碑を建立した津島神社の神官 氷室豊永は、この戦いで戦死した今川家の重臣 松井宗信の子孫で、24歳で氷室家に養子に入った。 碑文の内容は、松井家に代々伝わる今川側の「戦いの状況」と思われる。 また、碑を建てるに当たり、この文面と建立場所は尾張藩の初代藩主徳川義直書いた『成功記』と一致しており、尾張藩は正しいと認め、建立を許可した。と。「弔古碑文化六年五月(一八○九)津島の神官、氷室豊長が建てたもの、碑の表面は「桶狭間の戦い」を回顧する文と往時を偲ぶ詩、裏面には建碑の趣旨が彫られている。 文章は尾張藩の儒学者秦鼎(号は滄浪、字は士鉱)、碑面の文字は尾張藩の大阪用達役(文中「天満邸令」)中西融の筆跡。 石工河内屋孫右衛門の手により刻されたものである。 」『3号碑』。桶狭間大きさ15×15×95 (全長123.5cm) 東 人見弥右面門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚南 本田尚澄書北 桶峡七石表之一『4号碑』。大きさ 15×15×84東 人見弥右衛門あつし 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『5号碑』。大きさ 15×15×90東 人見弥右衛門黍 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一『6号碑』。大きさ 15×15×90西 桶峡七石表之一南 士脇将塚『7号碑』。大きさ 15×15×105東 人見弥右衛門疫 赤林孫七郎信之西 士隊将塚北 桶峡七石表之一小さな池には水はなかったが石橋が。『句碑』が小高い場所に。『香川景樹 句碑』歌人香川景樹(桂園派の巨匠)が江戸での会派獲得の為、京より出府した。 だが失敗、失意の帰郷のおり文化15・文政1年(1818)、この地を訪れ弔古碑の前で詠った歌が刻まれているのだと。「あと問へば 昔のときの こゑたてて 松に答ふる 風のかなしさ 景樹」小高いこの場所には『東屋』。『東屋』。『とよあけ桶狭間 ガイドボランティア案内書』とトイレ。古戦場伝説地の脇の道路を挟んで反対側の高台には「高徳院」という寺が堂宇を構えていた。実はこの高徳院の斜面に多くの墓石や石仏群が安置されていた。道路を渡る。『徳本行者名号塔』江戸中期の浄土宗の僧。庶民の教化に努め、その足跡は畿内・北陸・東海・関東に及ぶ。桶狭間古戦場を訪れたことは明らかで、豊明市内に数基建てられている。『今川義元の仏式の墓碑』。万延元年(1860)建立者は「某」と刻まれて不明。方形の石柱に笠と蓮花弁を模した台座がつく墓塔形式で、戒名が刻まれている。 そのため「今川義元仏式の墓」と呼ばれている。『阿闍梨諦念墓』 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・