JINさんの陽蜂農遠日記
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『JINさんの陽蜂農遠日記』にアクセスありがとう ございます。 このブログは、 陽:太陽光発電、 蜂:趣味の養蜂、 農:菜園、花、スロー&アクティブシニアライフ、 遠:旅行、 を中心とした備忘録を兼ねたブログ(雑記帳)です。 書き込んでいただける方は、写真下の『コメントを書く』から 気楽に、ご感想、ご意見ご質問等を書き込んでいただきたく。
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次 この日2020年1月21日(火)は『旧東海道を歩く(四日市宿~関宿)』の初日の移動日を入れて 3日目の朝。そして日本橋をスタートして27日目(移動日を除く)の『旧東海道を歩く』の日。 この日も早朝起床して朝食会場に。 ホテルのフロント横で朝食会場のレストランのオープンを待つ。 フロントロビーに掲げられていた『花魁(おいらん)』の姿絵。 海外に移住し現在はオーストラリアに居住しており展覧会もほとんどが海外で 開催されている「森田春代」氏の作品か。 立派な絨毯も壁に。 朝食は和風をオーダー。 そして6:50過ぎに、車はホテル駐車場に置き、この日の「旧東海道を歩く」のスタート。 『平田町駅』前のタイヤの如きモニュメント。 駅から鈴鹿サーキットまでは距離にしておよそ3.5kmなので、鈴鹿サーキットのF1車を イメージしたものか?それとも近くにタイヤ工場があるのか? HONDA鈴鹿製作所があるのは解っていたが。台座の下にあるプレートの確認を忘れました。 時間は6:35、雨がポツポツと。 ホテルルートイン鈴鹿の手前の路地を斜め右に入り、ひたすら鈴鹿川を目指して歩く。 そして鈴鹿川の堤防に突き当たり『庄野橋』に向かって進む。 ここは鈴鹿川の河口より13km上流の場所であると。 『しょうのはし』。 『庄野橋』の歩道を渡る。 、 『庄野橋』を渡り国道25号線の歩道橋をさらに渡り、旧東海道の1本鈴鹿川沿いにある 路地を庄野宿入り口にむかって進む。 右手にあったのが、臨済宗東福寺派の『妙法寺』。 『妙法寺 山門』。 『妙法寺 本堂』。 妙法寺の創建年代等は不詳であるが、境内には五輪塔の一部などの石像物があると。 また、毎週日曜日の朝に座禅会が行われているという。 『鐘楼』。 『位牌堂』か? 『萬霊塔』。 そして旧東海道に突き当たり、左折すると、そこは『庄野町西』交差点。 ここが『庄野宿入口』。 『旧東海道 庄野宿~石薬師宿』案内マップ。 マップを見ながら、前日に歩いた道を振り返る。 赤太線ーが現存する旧東海道、赤点線---が今は失われた旧東海道の代道であると。 『庄野宿』案内板。 「庄野宿は江戸から百二里余、東海道四十五次にあたり、幕府の直轄領であった。 他宿にくらべ宿立ては遅く、寛永元年(1624)といわれている。 この宿は、「草分け36戸、宿立て70戸」といわれ、鈴鹿川東の古庄野から移った人達を 合わせ70戸で宿立てをした。 南北八丁で宿入口の加茂町中町上町からなる。 歌川広重の描く「庄野の白雨」は、彼の作品の中でも傑作中の傑作といわれ、世界的にも 高い評価を得ている。」 『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』。 庄野で描かれた「白雨」は、東海道全五十五枚中三大役物のひとつに数えられ、 歌川広重全作品の中でも最高傑作と呼ばれているのだ。 「白雨」とは、夕立やにわか雨のこと。突然の風を伴った激しい雨に、坂道を往来する 人々を生き生きと描写。強風に揺れる遠景の竹薮を、輪郭線の無い二重のシルエットにして 奥行きを出し、降る雨の角度を変えるなど、技法的にも新たな試みをし、成功していると。 『東海道庄野宿碑』。 旧東海道・庄野宿を進む。 先に進むと、黒板壁の家や連子格子の家などがあり、街道の面影を偲ばせていた。 雨が止みそうで止まなかった。 庄野宿に入って間もなく、左手に真宗高田派の『筧口山善照寺』があった。 『善照寺 山門』。 山門に掛かる善照寺の扁額も見えた。 『鐘楼』。 『本堂』。 善照寺は、長禄年間(1457-60)に平田地内筧口と称する所に、善正法師が善照寺を開基した。 初めは天台宗であったが、高田派第10世真慧上人の教化により真宗高田派に改宗したと。 盆行事の一つの庄野大念佛は、鈴鹿市無形文化財に指定されているとのこと。 『本堂』に掛かる『善照寺』の扁額。 『善照寺』から100m程進むと、鈴鹿市指定文化財となっている『旧小林家住宅』が左手に。 ここにも『廣重 東海道五十三次の内 庄野 白雨』が。 「天領である庄野宿は寛永元年(1624)に設置。本陣・脇本陣各一、旅籠十五軒、五十三ある 宿場のうち最も遅かった。 「草分け三十六戸・宿立七十戸」対岸の集落を移動させ宿立七十戸とした。」 『旧小林家住宅』は、現在、主屋の一部を創建当時の姿に復元して、『庄野宿資料館』として 使用されている模様。 早朝スタートもよいが、開館されていないのが問題なのであるが。 館内には、庄野宿の本陣・脇本陣文書、宿駅関係資料や地域に残る民具、農具、日用品などが 展示されているのだと。 建物前に建つ『鈴鹿市指定建造物旧小林家住宅』碑。 『旧小林家住宅』を振り返る。 旧小林家住宅から20m程先、右手に『問屋場跡』が。 「問屋場跡 問屋場は御伝馬所とも言い、街道の宿場にとって重要な役所であった。 問屋2名、年寄4名、書記(帳付)馬差各4~5名が半数ずつ交替で詰めた。 主な任務は公用書状の継立、往来者の要望に応じて人足・馬の割振り、助郷村々への 人馬の割当て、賃銭・会計であった。」 更に庄野宿を進む。 道路脇のマンホール。 鈴鹿の峰々から湧き出た清水が川となって緑の野を流れ、白砂青松の伊勢湾まで注ぐ様を 表しているのだと。 右手の庄野集会所前に『庄野宿本陣跡』があった。 『庄野宿本陣跡碑』 石碑の側面には 「庄野宿は東海道五十三次の45番の宿場で、寛永元年(1624)に設置された。 本陣は沢田家で間口14間一尺、奥行21間一尺、面積229坪7合、畳数197畳半、 板敷44畳半あった。」と刻まれていた。 そしてポストの横には『距津市原標九里十九町』と刻まれた道標も。 「石薬師へ壱里一町 亀山へ弐里三町 庄野村」と。 庄野宿脇本陣跡の左筋の角に『高札場跡』があり、案内板も。 また、高札場跡の立札が建っている家が庄野宿『脇本陣跡』であり、玄関上の軒下に案内板が。 脇本陣は江戸時代、本陣の予備にあてた街道の宿舎で、本陣に余裕のない時に利用された。 大名や幕府の重臣が本陣に泊る時、家老や手代の宿舎にあてられた。本陣に次ぐ宿場の 名望家が選ばれることが多かった。庄野宿では、本陣隣の楠与兵衛家が脇本陣であった。 「高札場 高札場は、法度掟書などを書いた 「高札」 を掲示した場所で、各村の庄屋宅前とか人通りの 多い辻など村や宿場ごとに一ヶ所設けられていた。 庶民に法令などの趣旨を徹底させるためであった。 庄野宿資料館には、人馬賃銭の規定、人倫の奨励、その他禁制など実物五枚が展示されている。」 ・・・もどる・・・ ・・・つづく・・・
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