HIRO.F's Scrawl
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8月29日は、大島正さんの26回目の命日です。。。私達にとって、鈴鹿8時間耐久の表彰台に日本人で上がるなんて、奇跡といれるくらい、ものすごいことでした。それなのに、2年連続2位!!ちょうど、バイクに興味を持っていたころ、鈴鹿と北海道を聖地と思って、鈴鹿8耐を最初に見に行った90年も2位。ほんとうに、ヒーローでした。ヤングマシン1985 2月号。。。コーナーをもたれていたのですね。大島正のスクーター道場やぶり。これの前のページには、宮城光のぶっちぎりON AIR でした。あとは、86年からの鈴鹿8耐パンフレットから 78 チームスーパーモンキー HONDA RVF750 フレッドマーケルと87年のパンフは、77番のエントリーリストのみ。88年 43 an TEAM BLUE FOX HONDA CBR750 安部直人さんと モトチャンプの広告にも89年 46 an TEAM BLUE FOX HONDA RVF750 宮崎祥司さんと an TEAM BLUE FOXの広告にも 決勝2位90年 16 an TEAM BLUE FOX HONDA RVF750 宮崎祥司さんと プレビューのところにピット作業の様子 決勝2位91年 37 チーム nomos with 阪神R KAWASAKI ZXR-7 阿部直人さんと 阪神ライディングスクールの広告にも92年 26 ビデオシステム・ヤマモトR HONDA VFR750 浜口俊之さんと Nov 30, 2018 レーシングヒーローズ大島正さんの特集がありましたので。。。前に、大島正さんの お母様の お店に行ったときの写真もありました。。。他のは、ぼけぼけでした。。。601の携帯使ってた頃ですね。。。大島正(享年35歳)大島正(おおしま ただし、1963年11月28日- 1999年8月29日)、大阪府豊中市出身。1982年にレースデビュー。BEETレーシング。1988年、鈴鹿200km優勝、1989年、1990年に鈴鹿8時間耐久ロードレースで2年連続2位入賞。1999年8月29日、栃木県ツインリンクもてぎで行われた、"’99もてぎ7時間耐久レース"で、スタート1周目の90度コーナーで転倒、頭部が後続車と接触、病院に搬送されるが、ほぼ即死の状態で死亡。今日は大島正選手の命日です。あれから22年経ちました…コロナが落ち着いたら最後の8耐模型届けに行きますね。#大島正 pic.twitter.com/W2bIFsr24m— suzuka8tai (@suzuka8taiQ) August 29, 2021 an祭り続きからの大島正選手祭り(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) #公式画像とうちの子並べようぜ pic.twitter.com/KWLHtW5P1a— suzuka8tai (@suzuka8taiQ) August 21, 2021
Aug 29, 2025
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22:01途中、駐輪場で、今年もお会いできましたGSX-R 40周年やら、某クラブの話とか、80's Meetingの話とかしてお帰りですサンバーのとこまで戻ると、うっちー来てました片付けして。。。22:5923:02もう、ぐっちゃぐちゃに荷物押し込みました帰ってからが死ぬうっちーの豆腐をいただきぬるいうちの真空6面パネルのクーラーは優秀0:25新名神高速道路 土山サービスエリアにいます。飯食べようかと思ったけど、やめて帰ります眠たい0:46甲南だめだ。。。眠たすぎ1:50なんとか帰ってきました部屋の中の温度が36℃暑い
Aug 3, 2025
19:30ゴールは、メインスタンドの裏コーラーたくさんもらって、呑みながら、。。。HONDAが、買って、山本隆義さんは、本当にくやしがっておられました。。。ずっと、他3社の応援されてましたからねえ~ヨシムラ3位表彰台おめでとう!!!!!19:3319:38下に下ります19:3919:45おお!表彰台前に回れるようになってるコロナ以降、行けなかったんですよね19:55おお、CNチャレンジの佐原さんほんと惜しかった。。。挨拶させていただき、昨年のGSX-S/R Meetingで、お渡ししたGSX-R 40周年キーホルダー、リュックにお守りにつけててまわりから、欲しいって言われるってことで、皆さんにプレゼント80's Meeting 2025の宣伝もさせていただきました~20:03表彰式!一番前まで20:13シャンパンファイト!今年も、たくさん浴びました20:39コロナ以降入れなかった、ピット裏にも回れました21:01みしなさんにも挨拶して、GSX-R 40thキーホルダーと、80's のフライヤーを21:02吉村 不二雄さんにも、GSX-R 40thキーホルダーを。昨年、加藤社長にもお渡ししたんです!って、あと、このサイン、20年以上前に、スズキミーティングでサインいただいたんですって21:1621:21WWのHi!!21:23なっちゃん、水野選手のインタビューしてますねうっちーの姿が見えないので、電話したらも、もう第一げーどから出るともう色々締め切られてると。。。ってことで、私も帰りますKTCさん撤収してたので、挨拶して
私は、シャワー浴びてすっきりして、山田先生と、コースを目指します山田先生が、応援グッズ交換とかまわったり、ヨシムラブースとか回ってKTCさんのとこ挨拶いって9:36ビール売ってないなあ。。。と、南海のとこ行って、色々回ってKOMINEで、いつもの黄色いバッグもらってストレート裏の売店とこで、ビールを買って、ひとまず乾杯うっちーのも買っていなかきゃ。。。でも、もうひからびるので限界毎年、こうやって第2コーナー向かってたら、うっちーと会うんだよなあと言ってたら、むこうからやってきて9:58ビールおごるから、一度帰ろうと第2コーナーのとこで、生ビールを!9:59みなさんで、第2コーナーで飲みまくります応援席に行こうかなと思ってましたが、山本隆義さんが、こちらに来られるってことで、第2コーナーでスタートを迎えることに10:17おお!!!長年、第2コーナーで、一緒に観戦してた、こころくん親子がほんと、ちっちゃいころから、第2コーナーの場所取りしてもらってて最初は、第2コーナーで、場所探してて、一杯で。。。お母さんから、声かけてもらって、ここ使ってくださいとかって当時から、ヨシムラファンで、毎年良く見るなあと、思っておられて、困ってると声をかけてもらっててお母さんの体調もあり、昨年は来られなかったですが、少し良くなったからとGSX-Rの40thキーホルダーを、お二人にプレゼントさせていただきましたあの小学生だった、こころくんも、弱いけど、少しなら飲めるとのことで、みんなで乾杯!2年前Aug 6, 2023 しんどいですが、なんとか第2コーナーに。ひさびさに、こころくん親子が!!10:26こころくんが、もう車運転して、来年、新卒で就職だってー!!10:17焼きそばやポテトを差し入れいただき11:07ケバブも、みんなで食べてーと11:16レジェンドライダー、元チームシンスケの山本隆義さんが来られたので、ふたたび乾杯!いよいよスタートです!みんなで、居酒屋第2コーナー盛り上がってます!山田先生が、無花果を取って来ていただき、生ハムと無花果で、純米吟醸いただきます12:4013:49結局、応援席には、まったく行かず夕方まで、こちらで、酒飲んだり、家のHDDレコーダーにつないで、中継見ながら、色々と、8耐の裏話とか、お聞きしてました2度目のセーフティカーが出て、日も傾いてきてそろそろ片付けて向かわないと。。。と
8月2日 5:12おはようございます8月2日 5:37サンバーの温度計最高の50℃超えは、水温が115℃行ったので、エアコン切って、ヒーターにしたら、熱風出た時、熱くて、手を当てれなかった8月2日 7:12シャワー浴びて、スッキリしました今日は、どうするかサーキット行っても、すぐに戻って来ないといけないしなぁ防水温湿度計の1が、6面真空パネルのクーラーボックス3は、ソフトのクーラーボックス肉と野菜たっぷりあるが、帰るまで、もつかどうかパレードの帰りに、氷たくさん買って帰ったら、大丈夫かなぁ8/2 9:40土曜日は、午前中しかいれないので、ブースを、色々と回りますKTCさんの3千円ガチャは、ラチェットドライバでした!これは嬉しい!https://ktc.jp/catalog/index-category/category-list/dbr14No. 小売参考価格DBR14 ¥6,170●先端ビット交換式のラチェットドライバです。●締め・緩めのラチェット操作および、ラチェットの固定により通常のドライバとしても使用可能。●付属のビットは軸部およびグリップエンドに収納可能です。●付属ビット:クロスNo.1×マイナス5.5mm、クロスNo.3×マイナス8mm、六角2.5mm×六角3mm、六角4mm×六角5mm、トルクスT15×トルクスT20、トルクスT25×トルクスT30、クロスNo.2×マイナス6mm(2コ)※クロスNo.3×マイナス8mmビットは軸の反対側(グリップに埋まっている方)についています。ということで、ベスラさんにも挨拶して、ミツバサンワコーポさんでもガチャして、バイスガードエアの短いほうのセットが当たり、そろそろ、サンバーに戻ります8月2日 11:47むっちゃ綺麗な、久留米ナンバーのFZだ
Aug 2, 2025
戻ってきて、ハッチタープと、蚊帳張って今年は、この前買った、ジンギスカン鍋で20:42ラムジンギスカン一気にたいらげてしまった2回戦はロースジンギスカンか21:29風よ鈴鹿へ、今からみます21:33ホルモンうめえええええ!!!ジンギスカンに、ホルモン食べたら、おなかいっぱいで。。。ロースのジンギスカンに、けいちゃん焼とかは、また、明日かな。。。って、いつまで、もつだろうか。。。21:548月2日 1:28ひたすら、チームシンスケ、ラストランを見てるんですがもう、30年なのかあ夕方、田村さんに、挨拶させていただきました私の中では、本当に素晴らしいヒーローです泣いたら元気出てきたこの言葉に、ずっと助けられた8月2日 1:32鈴鹿は、風もあって涼しいですよしかし、今年も、そこら中で、エンジンかけっぱなしで、クーラー効かせまくりの車ばかりこれ、なんで、係の方、注意して回らないんだろう動画見てるだけで、注意しに来たのに音出さずに見てるけど、全部覚えてるので、再現されますが去年も思ったのだけどまったく、蚊がいないあまりにも暑すぎて、蚊がでないのか?何か対策してるのか??
Aug 1, 2025
KTCさんに挨拶して、一万円くじは、ラチェット当たりました!良かった、ツールボックスでなくて¥23,500するんですよね~ネプロス9.5sq.フレックスラチェットハンドルNBR390AFNo. 標準小売価格NBR390AF ¥23,500従来品(NBR390シリーズ)のヘッド幅30mmを4mmシェイプアップし、狭所作業の効率化、使い良さを向上。使いやすさをさらに深化。●ヘッドの小型化、軽量化、バランスの最適化でより使いやすいラチェットハンドルに。●精密8段クロウの採用で、小型ながら従来品と同等の強度を実現。●プッシュボタンを押さない限り不意にソケットがラチェットから外れないユニオン機構。●リペアキット(NBR390A-K)を設定しています。●ゴムリングは補給部品およびオプション(カラーバリエーション)として設定しています。17:07もう脱水症状やばいし、飯も食べなければと、さきほどコンビニで買ったビールと揚げ鶏を、メインスタンド裏の階段のとこで17:14アメリカンドッグなどもいただきました鈴鹿の風が気持ちいい
15:43おお!ノーサイン北斗さんが!!スズキブース!GK71B展示してありますよ!!!っておおまじか!それなら、そうと書いてくれればいいのに。。。北斗さんは、土曜日は、滋賀に住みます芸人の仕事がたくさんあって日曜日に、また来られるそうです15:46初代GSX-R展示してあるじゃないですか!!!それなら、そうと、最初から言ってくださいな!!!どうも、すいませんでした応援グッズのT シャツは売ってますね。さすがに、これは着れないちなみに、応援グッズ引換、4Lがありました#GSXR#GSXR41周年#鈴鹿サーキット#鈴鹿8耐ヨシムラは今年からキャッシュレスオンリーになりました!たくさん下ろして来たのにTシャツとタオル購入チタンキーホルダーも売ってましたオンライン販売限定って書いてあったけど、こっちでも売ってるんですね?と確認すると、あれは、他のネット販売では売ってないということなんですと。。。それなら、そうと書いておいてほしかった。。。SNSとかメールとかで質問したのに、返事なかったし。。。
15:17到着しましたげ!元オートキャンプ場だったところ、屋根ができてる!と思ったら、全部太陽電池だ!15:28色々と新しい施設できてますね15:39Zがある!SDGさんブース、そうか送風機とかのメーカーで、複数チームのスポンサーやってるのか
ぼちぼち向かいます12:23ガソリン入れて、洗車機でワックスがけして12:47綺麗になって向かいます13:09ジャパンで、ちょっと買い物して14:31鈴鹿まで到着ビールとか揚げ鶏、アメリカンドッグ買って風よ鈴鹿へをかけて、向かいます
SUZUKI応援チケット購入したんですが、合同テスト、無料で入れるそう平日かあ------------------------------------------------------------------2025 鈴鹿8耐 SUZUKI応援グッズ付きチケットをご購入いただいた皆様へお世話になっております。オートリメッサ S-MALL店の吉田と申します。この度は「2025 鈴鹿8耐 SUZUKI応援グッズ付きチケット」をご購入いただきまして誠にありがとうございます。鈴鹿サーキットでは、6月11日(水)、12日(木)、18日(水)、19日(木)に鈴鹿8耐合同テストを行います。https://www.suzukacircuit.jp/8tai/race-info/test/チケットをご購入いただいた方は、無料でご観覧いただく事が可能です。添付の入場証PDFのデータをスマートフォンなどに保存いただくか、プリントアウトしたものをお持ちいただき係員にご提示いただければご入場いただけます。入場証は下記の点に十分注意してご利用ください。① 本券の使用はスズキ応援席購入者のみ利用可能(スズキ応援券を購入しなかった方への譲渡はできません)② 入場券をSNSやインターネット上で公開することはできません。
Jun 3, 2025
6月1日 11:17 ひとまずおさえました舗装だったらP6でもいいかと思いましたが、躊躇したあいだに、なくなってました6月1日 16:45スズキの応援席チケットも購入しました
Jun 1, 2025
4/20は大ちゃんの命日です 2003年4月20日に、四日市の病院で闘っていた加藤大治郎選手が、永遠の眠りにつきました。 22年にもなってしまうんですね。。。。。。 そうかあ。。。22年か。。。あのロッシもとうとう引退したし。。。何もかも変わってしまった。。。それでも、、、22年経っても、いまだに信じられません。。。 大ちゃんがいなくなって、日本のモーターレース会は、止まってしまったようです・・・ 鈴鹿での事故で、ヘリで運ばれ。。。 状態がよくなったとの話もでたのですが。。。 全世界のバイクファンが悲しみにつつまれました 2003/06/01 加藤大治郎選手『偉大なるチャンピオン・栄光の軌跡』展 に行ってきました。 これは、写真展に行ってきたときのレポートです はじめて大ちゃんと会ったのは、1996年の8耐で、前日に宋和さん、坂田さん、武田くんとコンビであったときでした そのときのレポート TRF HONDAの第3ライダーとして、イベント等参加されてました。 宗和さんと、125の坂田と、750の武田雄一、250の加藤大治郎と一緒に、8耐前夜にサーキット近くのコンビニでばったり出会いました。 その時何故アプリリアの坂田と一緒にいるのとたずねたら、「俺達、HRCの監督に気に入られているから(爆笑)」って感じでした。 コンビニの中で、写真を撮ったり、はしゃぎまくっている私の友人と、4人でちょっと話したのですが(武田君と加藤君はとても大人しい...) みんな良い人で、次の日もある場所(これは極秘です)で出会ったのですが、そこでも気さくに話してくれました。 コンビニに行ったのは、夜中に買い出しに行った時でした。 夜中でしたが、レジには行列が出来ていました。しかし、だれも気づきません。 前日にHOTELから出たまんまの格好でしたので、見事に溶け込んでおりました。 私が気づくと、友人も超ミーハーになり、話しかけに行きました。 写真を撮ったりしたのですが、それでも、まわりはシーンとしていました。 ライダーって、つなぎやチームの服でないと、だれも気づかないみたいですね。 (チームの服着てても、スタッフと間違われたりしてるようですが...) 特に8耐は、ライダーの名前なんて知らない人も結構多いので、みんな平気に表に出てますね。 1997にはSuper Bike2ヒートも見に行きました 1998のモータースポーツキックオフデーでもサインもらいました。 ほんとうに、すごいキャラクターで、みんなに愛されていました。 そして、ロッシに勝って、世界チャンピオンになれるのは、大ちゃんしかいないと 誰もが思っていました。 いまでもロッシの走りを見るたびに、大ちゃんが生きていたら、どうだったんだろうなぁと思い返してしまいます いまでも大ちゃんがいないことが信じられません。。。 もう2度と、、、悲しい事故が起こらないように、みんなを見守っていてください。。。 悲しい事故が多すぎる。。。。 2023には、国光さんも行かれたので、きっとみんなで懐かしい話をしてるんじゃないかと。。。 みんな、いまでも忘れない。 そうそう、大ちゃんの名前をもらった、うちの だいちゃんも、2014年に星になってしまって。。。 大ちゃんといっしょにいるかな。。。似てる猫ちゃんが、前の家にいたんだけど、その子も、みなくなってしまった。。。 やっぱり、さびしいなぁ。。。
Apr 20, 2025
ああ、、、、こんなものを見つけてしまった。。。。このチャンス逃すと、揃わんだろうし。。、。10冊で一万超えるやつとか買うなら、これのほうが、かなりお得だが。。。山本隆義さんの特集のとか探したいんだよなあしかし、置き場所がないんだよなあ。。。いまでも、足の踏み場がない状態なのに。。、、レーシングヒーローズ: 創刊号から休刊号まで 84冊セット菅村書店レーシングヒーローズ: 創刊号から休刊号まで 84冊セット¥33,000出版社CBSソニー出版、ソニーマガジンズサイズタテ296ミリ×ヨコ232ミリ冊数84冊解説●1986年10月号(別冊サイクルワールド: フォルツァ レーシングヒーローズ) 1冊●1987年2月号(別冊サイクルワールド: フォルツァ レーシングヒーローズ) 1冊●1987年4月号(創刊号)から12月号(No.9)まで 8冊(11月号は欠け。ご注意ください) 4月号付録ポスター付き ※7、8月号に目立つイタミ●1988年1月号(No.10)から12月号(No.22)まで 10冊(8月号、9月号は欠け。ご注意ください)●1989年1月号(No.23)から12月号(No.34)まで 11冊(11月号は欠け。ご注意ください)●1990年1月号(No.35)から12月号(No.46)まで 12冊 8月号に蒲池幸子掲載 ※2月号に目立つイタミ●1991年1月号(No.47)から12月号(No.58)まで 12冊●1992年1月号(No.59)から12月号(No.70)まで 12冊●1993年1月号(No.71)から12月号(No.82)まで 12冊 ※8月号に目立つ破れ・イタミ●1994年1月号(No.83)から5月号(No.87・休刊号)まで 5冊 2月号付録カレンダー、5月号付録ステッカー付き特記以外の号に付録はついていません。特記以外に程度の差はありますが、各冊ともに少汚れ、フチ・角に少ヨレ、折れ、少破れ、少シミ、少イタミがあります。分売不可発送ポリシー◆ご注文後、在庫を確認してから「送料を含んだ合計額と発送方法」を「ご返信」します。返信メールよりクレジット決済、または入金お手続きへお進みください。※「単品スピード決済」の商品は、注文時にクレジット決済ができます◆発送はクリックポスト・レターパック各種、佐川急便のいずれかです◆代引き決済をご希望の際は備考欄に「代引き発送希望」とお書き添えください◆公費注文の際は書式・必要事項(宛名・日付・送料の記載方法など)をお知らせください◆海外発送、承ります(日本国外へ発送する場合は追加の送料が必要です)◆複数冊まとめてのご注文、承ります(総冊数のサイズ・重量から改めて送料を算出しご連絡します)★適格請求書発行事業者登録済今持ってるのは、20冊11月30日 9:44二冊届きました。内容は、また、そのうちUPします。ひとつだけ。。。大島正さんの特集がありましたので。。。お母様には、ブロックされてますので、見ていただくことはできませんが。。。Nov 30, 2018 レーシングヒーローズ今回購入したのは04 1987/0722 1989/12今までに買ったのは創刊号 1997/04 ポスター付き、平さんサイン付き創刊3号 1987/06 x204 1987/0707 1987/1010 1988/0112 1988/0217 1988/0722 1989/1223 1989/0124 1989/0230 1989/0831 1989/0952 1991/0654 1991/0859 1992/0175 1993/0578 1993/0880 1993/1081 1993/1182 1993/12
Mar 19, 2025
嵐山あけみさんの昔の動画ないかと、ララバイクオーター探してたら、1988のチーム紳助が
愛車遍歴で、2022年4月2日からMCやってる今井 優杏さんって、元レースクイーンで、2003年の鈴鹿8耐のクレバーウルフのキャンギャルやってたんだ今井 優杏 wiki今井 優杏(いまい ゆうき、1980年12月10日 - )は、日本の自動車ジャーナリスト、モータースポーツMC。日本自動車ジャーナリスト協会会員。日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員。元レースクイーン。奈良県出身、東京都在住。来歴大学時代からモデル・イベントコンパニオンとして活動を開始[1]。その後スタイルコーポレーションに所属しレースクイーン活動を行う。スタイル退所後は広告代理店勤務を経て、自動車情報誌のライターに転身。現在は雑誌やWEBへの執筆の他、モータースポーツ関連のイベントでMCとしても活動。また、モータースポーツをはじめとしたプロスポーツや自動車の専門知識に強いMCを育成・派遣する株式会社インホイールの代表を務めている。2012年にはTRDラリーチャレンジにドライバーとして参戦し、年間成績2位という結果を残している。2022年4月2日(#375)の放送回から『おぎやはぎの愛車遍歴』(BS日テレ)のMCに就任。2025年3月15日に放送された「愛車遍歴的昭和の希少車は輝いていた!?」回で、おぎやはぎに年齢を訊かれ、昭和46年生まれの二人よりはちょっと若い、年齢は非公開にしている、Wikipediaには間違った情報が載っていてちょっとお姉さんに書かれている、昭和生まれであることは事実、と答えている。テレビ出演おぎやはぎの愛車遍歴(BS日テレ、2022年4月2日 - ) - MCモーターゾーンTV(三重テレビ 他、不定期出演) - レポーター走改☆車楽!(テレビ大阪)湯けむりライダーモンちゃんが行く!(BS日テレ、2016年12月26日) - ゲストラジオ出演トヨタ南海グループ presents RADIO TEST DRIVE(FM大阪、2019年7月6日 - )レースクイーン2002年 フォーミュラ・ニッポン「森永 Weiderガール」(第3・4戦)2003年 全日本GT選手権「Team GAIKOKUYA レースクイーン」、鈴鹿8時間耐久ロードレース 「clever wolf」2005年 - 2006年 SUPER GT「BANDAI バクシードガールズ」[3]その他日本自動車ジャーナリスト協会会員日本カー・オブ・ザ・イヤー選考委員(2013年 - )生年月日 1980年12月10日(44歳)ってWikiの情報は間違ってて、ちょっとお姉さんに書かれているって言ってるけど、一つくらい違うくらいかな。。。トレカには、1980年12月10日って書かれてるけど。。。2003年のパンフと、8耐速報みたけど、キャンギャルのコーナーに、クレバーウルフは出てませんでしたこちらには、1983と書かれているが。。。なかりゃこふさんが、当時の写真をお持ちで!!嵐山あけみさんは、元気にされてるだろうか。。。ずっと南海のCMにも出ておられたし、SUZUKIのJaJaのRQもされてた。赤いヨシムラのジャケットに、サインもらったなあ当時から年齢詐称言われてましたが、この写真だと1975年生まれかもっと上だって、話も。。。私も学生の頃から見てたような。。。私がバイク乗り出した頃、すでに、南海とか色々出ておられたちょっと、本を探してて、オートバイの付録を見つけた2004年6月号と2005年1月号のキャンギャル特集なので、2003年と2004年の8耐とかですね。2005年1月号に、愛車遍歴の今井優杏さんが!クレバーウルフは2003だけかと思ってましたが、2年目と書かれてますね。こちらでも、23歳と書かれてますねそして、初代ブレーキガールで、週刊バイクTVでお馴染みの、あっきーも!2004年の方は、嵐山あけみさん見つけましたオートバイの付録見つけた2004年6月号と2005年1月号のキャンギャル特集2005年1月号に、愛車遍歴の今井優杏さんが!クレバーウルフは2003だけかと思ってましたが、2年目と書かれてますね初代ブレーキガールで、週刊バイクTVでお馴染みの、あっきーも2004年の方は、嵐山あけみさん見つけました pic.twitter.com/ym1ihMszqN— HIRO.F (80's Meting 2025 9/6-7@愛知県民の森) (@HIRO_HKAGES) March 23, 2025
2021年お亡くなりになられた横内さんの命日ですね。。。横内さんがいなくなって、スズキもレース活動の縮小とか、開発、販売機種の縮小とか。。。悲しいニュースばかり。。。天国で、どのように思われていることでしょうか。。。下記は、3年前、10月20日に訃報を聞いての記事です。<訃報> スズキの名物エンジニア 87歳で逝く~さようなら横内悦夫さんGSX-Rの、GK71Bの生みの親、元スズキの開発部長、横内悦夫さんが亡くならられたと、80's Meetingでお世話になている、RIDEの中村浩史のFacebookと記事で知りました。。。横内悦夫さんには、GSX-R 20周年の2004年のスズキミーティングで、GK71B CLUBでブースを出したとき、ゲストの希望を聞かれて、もちろん生みの親の横内さんのお名前を書かせていただきました。可能であればって希望でしたので、まあ、無理だろうなあと思っていたら、うちのブースに来られたのは。。。本物だ!!!!一同、驚いて、興奮と感動で、子供のような目で、質問攻めしたのでした。一つ一つに、丁寧に、図解などもしてくれながら答えていただきました。次の年にも、ブースに来ていただき、お話しさせていただきました。本当に、感動して、ものすごく楽しくて、GSX-Rに対する愛情が一層深まった時でした。横内さんがいなければ、GSX-Rも無かったでしょうし、私もバイクに乗っていなかったかもしれません。本当にありがとうございました。ヨシムラの活躍や、たくさんの名車を開発いただき、夢を感動をありがとうございました。御冥福を、お祈りいたします。2004/07/17(土)-19(月)天竜-袋井 GSX-R 20周年記念 GK71B CLUB MEETINGなんと、あの伝説の方が。。。なんと、GK71Bの生みの親と言っても過言ではない、当時2輪設計部長、スズキ2輪設計の顔”仏の横内”と社内で恐れられていた(?)横内悦男さんがGK71B CLUBブースに来られました!!クラブ用テント申し込み時に、特典として、SUZUKI関係者を誰かブースに呼ぶことができるということで、横内さんを希望と出しておいたのですが、まさか本当に来られるとは!!一同感激で、何から聞いていいのか分からないような状態でした!!先日放送のあった、プロジェクトXでも、火事で塞ぎこんでいたPOPさんにGSを送って、打倒RCBと元気付けたという伝説の方です。もちろん、GK71Bの開発に関しては一番のキーマンであり、当時の開発秘話はモト・ライダー'84年8月号「スズキGSX-Rのすべて」のなかの「GSX-R開発秘話&メカニズム解説 不可能と思うな、挑戦しろ!」で何度も読み直しているので、本当に感激です!!耐久レーサーを市販しよう!!これなんですよね。横内2輪設計部長が、GSX-Rに求めたこと!!開発当時のお話をたくさん頂きました。日本中を巻き込んだバイクブーム!!猫も杓子もレーサーに憧れ、F-3はこれでもかってほどのエントリー数。4大メーカーが集まって、次世代バイクの自主規制をどれだけにするか。。。60psか50psか、、、世の中は暴走族やバイクの事故による死亡事故が多発し、バイクは悪役になってしまっている頃でした。。。F-3のレーサー以上の60psは、そんな世間を敵にしてしまう。。。横内2輪設計部長は、それを危惧し、59psを提案。決定後、すぐに開発陣に59psでの適正重量を計算し、52kgに決定!!とにかく軽くするべきだ!!「少小軽美」横内さんは、その経緯を、グラフにして、熱く説明くださいました。「バイクは、少なく、小さく、軽く、美しく」それこそが大事だと。世間のバイクのりは、皆サーキットに憧れを持っている。サーキットこそバイクの一番光る場である。少小軽美こそ、全ての面で武器になりうる。軽さ、パワーウエイトレシオは、ストッピング能力、加速、コーナーリング性能、全てにおいて運動性能を決定付けるものとなる。そのために、FWで限界まで軽量化したエンジンまで、さらに軽量化「壊れるまで、回せ!!壊れたら、他の部分をもっと軽くしろ!!」耐久性を犠牲にして、限界まで削り取った珠玉のバイク。。。最新の技術をつぎ込んだ現在のバイクの中にも、匹敵するものはないくらいの性能。しかし、その耐久性を削ったバイクが、20年経った今でも、目の前にあり、現行車あいてに走り回っている。「オイルをきちんと交換して、メンテしてやったら、いつまでも元気に乗れますよ。」誇り高き笑みを浮かべ、横内モト設計部長は語る。「大切に乗ってくれて本当に嬉しい」我が子がこれだけ、皆に愛されて、今でも元気に走っている姿、美しく磨き上げあれた姿に、本当の父のような笑みを浮かべ、さらに言葉は続く。「バイクは美しくあるべき!!」「洗車をして、磨いていると、見逃してしまいそうなクラック、油染み、色々なトラブルを事前に発見することができる」皆をひきつけるスタイリングも大事、ただ、愛車を磨き、常に愛情を持って接してやることが、事前にトラブルを見つけることもできる。愛情を持って接してやれば、決してマシンは裏切ることはない。。。GSX-Rに対する愛情は、決して他の人には負けないと思い続け、その想いが痛いほど分かる皆は、うんうんと、頷くだけでした。。。「軽さのために、メーターがぐらぐらしてもいい!!って言われたそうですね」コウイチさんが開発時のエピソードについて訊ね、横内さんは、「ああ、これね。。。」と初期型のメーターを、ぐらぐらとしてみせる。。。メーター周りは、初期型と2型は違うため、そんなことになっているのは、まったく知りませんでした。。。おお、たしかにぐらぐらしてる。。。2型はスポンジのようなのがベースについているんですよねぇ~20年以上前から、我が子のように暖め、世に送り出した横内さん20年、十何年、一緒に走った距離、時間は違うけれども、恋人以上に愛し続けたGK71B CLUBメンバー、、、今まで同じ想いを持って乗り続けている人と話をする機会もほとんどなかったみんなが、恋人のお父さんと、語り明かしたような数十分でした。。。緊張もしましたけど、本当に感激するような話ばかり。。。頭の中には、中島みゆきの「風の中のすばる~♪ 砂の中の銀河~♪ みんな何処へ行った 見送られることもなく~♪」が、こだましてました。。。NHKさん、ぜひ、プロジェクトXに使ってください~!!!それくらい感動を呼ぶ開発秘話でした!!当時のモトライダー8月号、「GSX-Rのすべて」を横内さんに見ていただきました。「当時の開発秘話でてますよ!!!」先ほどまでお話いただいた内容が、細かく書いてあります。また横内さん以下、開発陣の写真も出ています。「おお!!なつかしい面々だなぁ~!!おった、おった!!」と懐かしい当時の、若かりし開発陣の姿を見て、当時の思いが蘇っておられたような感じでした。「GSX-RとΓは一番思い入れのあるバイクなんだ~」横内さんから、そんな言葉を頂いて、全員感激しまくりです!!感激ついでに、モト・ライダーにサインをいただきました!!直筆の「少小軽美」のメモとともに、GK71B CLUBのお宝として大切にいたします!!!ほんと、GSX-Rに乗り続けて来て良かった!!!! <訃報> スズキの名物エンジニア 87歳で逝く~さようなら横内悦夫さん2021-10-20中村浩史スズキ数々の名車を世に送り出した名物エンジニア スズキ1970~80年代初頭のロードレース、モトクロス世界グランプリ時代のレースグループ長であり、市販モデルの世界ではGS750/1000やRG250Γ、GSX1100SカタナやGSX-R(400)/750などの名車を世に送り出した名物エンジニア、横内悦夫さんが亡くなりました。87歳でした。 横内さんは、昭和9年4月、宮崎県出身。昭和32年に鈴木自動車工業(当時)に入社、設計課に配属となり、同42年には短期間だけアメリカに駐在、同49年にレースグループ長に任命されてモトクロス、ロードレースのチームマネジメントとマシン開発を担当。 両競技とも数々のワールドタイトルを獲得し、同53年にはレースグループ長を兼任しながら市販車の二輪設計部次長に配属されました。 ロードレースでは世界グランプリ500ccクラスでのメーカタイトル7年連続獲得という偉業を達成しながら、市販車ではGS750/1000やGSX1100Sカタナ、RG250/400Γ、GSX-R(400)/750などのヒット作を連発。同63年には取締役・二輪生産管理部長となり、二輪設計の現場、第一線からは退いたものの、次世代エンジンの開発やスズキオリジナルF1エンジンの設計検討を進め、実際に3500ccのV型12気筒エンジンの試作機も完成させていました。しかし、スズキがF1エンジンを実際に生産することはありませんでしたね。 スズキ退職後は静岡県浜松市に住み、後進の指導や講演会の出席などを楽しんでいました。オーナーズクラブのミーティングやイベントにも精力的に顔を出し、自分が手掛けたオートバイにずっと乗ってくれているファンンのみなさんとの交流が本当に楽しい、っておっしゃっていましたね。2007年 ヨシムラの鈴鹿8時間耐久レースの優勝祝勝会で ヨシムラの活躍をいつも楽しみにしていた横内さんの大きな功績のひとつに、スズキのレース活動のサポートがあります。2ストロークマシンで行なわれる世界グランプリGP500クラスには、ワークスチームとして参戦していたスズキですが、もうひとつの柱である4ストロークマシンで行なわれるレースでは、あのポップ吉村こと、故・吉村秀雄さんと合流し、AMAやヨーロッパの耐久レース、鈴鹿8耐で、ヨシムラを通じてスズキGS750/1000をレースでアピールしました。 ポップとの出会いは1976年夏、アメリカ・ロサンゼルス。GSのエンジン設計図を見せただけでその高性能を見抜いたポップにレーシングマシンへのチューニングを依頼した時に『吉村さん、スズキのエンジンをやってくれますか』「やりましょう」とふたつ返事で交渉がまとまり、契約書も何もなくジョイントが決まったというエピソードは有名です。「最初に市販車のGS1000を2台、(当時、ヨシムラの本拠地のあった)アメリカに送ったんだ。オヤジさんはね、必要なパーツをちっとも要求してこない。こちらが『何か送りましょうか』というと、必要最小限なだけ言ってくる。こりゃ信頼に値する人だと思ったよ」と、横内さんが当時のことを話してくれたことがあります。 1978年の第1回鈴鹿8時間耐久レースに、そのヨシムラチューンのスズキGS1000が優勝。それまでは「2ストロークの」といわれていたスズキの4ストロークモデルが世界に優秀性を証明した瞬間でした。 市販車の世界では、RG250ΓやGSX-Rシリーズなど、80年代スズキの名車を手掛けていたことは、バイク雑誌を通じてユーザーの目にも触れるようになりました。新型モデル発表の時には、プロジェクトリーダー的な立場で新商品の説明をし、それが雑誌に載って「横内ファン」がどんどん増えていました。メーカーの技術者が有名になってファンがつくなんて、今でもめったにないことですね。 スズキの広告に顔を出していたこともありました。メディア向けの発表会・試乗会では試乗会場でにらみを利かせていて、試乗したライダーのコメントに耳をそばだて、納得のいかないことがある、と言うと「どういう風に良くなかったんだ?」と詰め寄る姿が有名でした。「1日24時間バイクのことばっかり考えている」(本人談)厳しくも優しい、名物エンジニアでした。同じく2007年の祝勝会で 渡辺篤と酒井大作に挟まれての横内さん 横内さんとお会いした人は、みんな豪快で、温かい人柄にいっぺんにやられていましたね。僕もそのひとりで、失礼して、僕と横内さんとの思い出を書かせていただきます。 僕が横内さんのことを知ったのは、まだこの仕事を始める前、1980年代初頭、中学生の頃です。GSX1100Sカタナが好きでたまらなかった中学生は、その後に出たRG250Γに衝撃を受け、GSX-Rに、GSX-R750に歓喜します。そのモデルが載っているバイク雑誌に、ほとんど横内さんのお顔があり、開発のエピソードやコメントがありました。 ヤッコダコと呼ばれたRG250Γのテールカウルの形状のことを尋ねられると「だって(レーシングマシンの)RGΓがそうなってるんですから」 アンチノーズダイブのアイディアを問われると「犬が走っている姿をていたら、前足を突っ張って曲がっていくんだ。そこからフロントフォークを沈ませない機構を考えた」 油冷エンジンの着想を尋ねられると「子どもの頃、ばーさんに五右衛門風呂の湯沸かしを頼まれてね。沸かしている最中に竹の棒で湯をかき混ぜると早く沸くんだ。それが熱境界線の破壊、ピストンクーラーの原理だよ」 横内さんの考えた独創的メカニズムのエピソードは、まだまだたくさんありますね。ご自身のGSX1100Sカタナと 初期モデルをお持ちで、最近あんまり乗ってなくてね……という車両をユニコーンジャパンがレストアして実走コンディションに仕上げたものだ バイクのことなんか何も知らない、免許すら持っていない少年が「ヨコウチエツオ」の名前を覚えるまでに、そう時間はかかりませんでした。 1988年にこの仕事を始めてしばらくして、なにか理由をかこつけて、会いたくて会いたくて、スズキに「横内さんの取材をしたい」と申し込んだことがありました。 でも、その時すでに横内さんは二輪設計の第一線から退いて「取締役二輪生産管理部長」という部署に就いていらして、最初は二輪雑誌の取材を受ける立場にない、と断られたんですが、そこをなんとか、と広報の窓口を口説き落として、時間を取ってもらえることになりました。当時の僕の愛車は初期モデルのGSX-R750。無論、横内さんが担当されたモデルでした。 そのページのコピーもまだ持っているんですが、どうも内容は横内さんの思い出話ばかりで(笑)、一体なんのテーマで取材を申し込んだのかわからない。ただ、本が出来てお送りした時には編集部に直接電話をもらって「アンタ、私の若い時のことを良く知ってるんだね、ガハハハ」と言ってくれたことは忘れられません。そうそう、横内さんは大笑いする時はガハハハと笑い、小声で笑うときにはうしししし、いひひひって笑い方する人だったなー。 その後も、鈴鹿8耐の時にはヨシムラのピットにいらしたり、イベントや講演会で何かにつけてお話しする機会があり、顔も覚えてもらい、ユニコーンジャパンさんが横内さんの愛車GSX1100Sカタナをレストアした時には試乗させてもらったり。実は、この横内カタナに乗せてもらって、僕はユニコーンが組み上げたカタナレストアを購入することになるんです。 カタナを買ったことを報告しに浜松に行った時には「アンタ私のカタナを楽しそうに乗ってたからね。買うんじゃないかと思ってたんだよ、ガハハハ」ってアタマをくしゃくしゃくしゃっ、と撫でられて。奥様が隣で「お父さん、中村さん子供じゃあるまいし~。すいません」って笑っていたこと、忘れられません。 その後も80歳をお祝いする会に出席したり、トークショーの相方をさせていただいたり、ご自宅に呼んでもらえたり。ご自宅の畑で一緒にキャベツの収穫をして、収穫時期を逃して大きくなりすぎたキャベツをもらったこともありました。 横内さん、あれキャベツ虫がいっぱい食ってたよ、って後日に電話すると「あらら、そうかね。そりゃアンタ、虫が食べるほど美味しかったんだよ」って。 この数年は、電話すると嬉しそうに出てくれて、それでもあの太くて口調が強い声が弱々しくなっていたり、この1年ばかり誤嚥性の食道炎を患っていらしたようで、衰弱し、病院で最期をお迎えになったそうです。逝去の連絡をいただき、この時節柄もあってご親族だけで葬儀出棺をする、とのことでご自宅に連絡差し上げたのですが、ご家族の方が「バイクの世界ではたくさんみなさんによくしていただいて。いい思い出をたくさん作っていただいて、本当にありがとうございます。みなさんによろしくお伝えください」とのことでした。 二輪界、ロードレース界、モトクロス界に多大なる影響、貢献をいただいた「生涯いち技術者」(本人談)の一生でした。心より、ご冥福をお祈り申し上げます。 横内さん、さようなら。今年もスズキとヨシムラがジョイントしたチームが世界耐久選手権のチャンピオンになったんだよ! GSX-Rだよ! オヤジさんのお孫さんがチーム率いてるんだよ! まだまだ、きっと勝ちまくるチームだと思うよー!2002年かな、スズキの竜洋テストコースでのイベントで横内さんとお会いしたときに、僕のカタナと一緒に撮っていただきました。また写真がデジタルデータじゃなかったころの話、この元ネガがないんです…… 厳しくて優しい、大好きなおじさんでした。今はとにかく悲しいです。写真・文責/中村浩史
Oct 18, 2024
3年ですか。。。また、鈴鹿で、走る姿を見たかった。。。3年前、10月22日に訃報が入って来た時の記事ですAMAスーパーバイクチャンピオン 逝く~65歳 クーリーさん、早すぎます…… 横内さんの訃報に続き、ヨシムラの第一回鈴鹿8耐優勝の立役者ウェス・クーリーさんが65歳の若さで、天国に旅立たれました。。。スズキファン、ヨシムラファンの中では、ポップ、横内さんに並ぶレジェンド。。。2017年の鈴鹿8耐のときの前夜祭、クーリー、クロスビーのデモラン、本当に感動しました。まさか見れるとは思っていませんでした。。。そして、表彰式のあと、ピット裏で、ご本人にお会いできて、タペストリーにサインまでいただけました。一生のお宝です。その時も、マジックを持つ手が、力が入っていないような感じで、これで、よく走れたなあという感じでした。サインも、かなり大変そうでしたが、それでも一生懸命書いていただき、ほんとうに感激いたしました。糖尿病と戦われていたのですね。。。また、鈴鹿でお会いできると思っていたのに。。。悲しいです。。。御冥福を、お祈りいたします。Jul 29, 2017 前夜祭!Jul 30, 2017 レジェンド!!!Jul 30, 2017 皆様、お疲れ様でした!<訃報> AMAスーパーバイクチャンピオン 逝く~65歳 クーリーさん、早すぎます……2021-10-22中村浩史横内さんの残念な訃報をお伝えしたばかりですが、同じ時代のサーキットで活躍したライダー、ウェス・クーリーさん(本名 ウェスター・スティーブン・クーリー)が亡くなりました。1956年ロサンゼルス生まれですから、65歳でした。早いです。2017年の鈴鹿8耐前夜祭で 左から吉村不二雄さん、クーリーさんに、加藤陽平、グレーム・クロスビー、ケビン・シュワンツ、そして加賀山就臣デモランを終えての不二雄さんとクーリーさん。不二雄さん、この時わざわざ、当時よくかぶっていた星条旗柄の帽子を持ってきてくれたんですクーリーさんは77年に、当時アメリカを本拠としていたヨシムラに、そしてポップこと故・吉村秀雄さんに見いだされてAMAスーパーバイクにデビュー。78年には、第1回の鈴鹿8時間耐久でヨシムラスズキGS1000をライディングして、マイク・ボールドウィンとのペアで優勝。80年にはグレーム・クロスビーとのペアで2回目の鈴鹿8耐優勝を果たしています。本業のAMAスーパーバイクでは、78年にマシンをスズキにスイッチし、ヨシムラスズキGS1000を駆って表彰台の常連になると、79年~80年とAMAスーパーバイクチャンピオンとなりました。78年に鈴鹿8耐優勝、79年にAMAスーパーバイクチャンピオンとなり、80年にはAMAスーパーバイクと鈴鹿8耐をダブルで制したことになりますね。その17年、パドックに展示された鈴鹿8耐優勝当時のGS1000レプリカ これはヨシムラの熱心なファン、吉川友和さんがご自身の車両をレプリカ風にカスタムし、ヨシムラに提供したもののはずですこれはデモランした実車 上の車両とは細部が違いますね たしか浅川スピードで製作した車両のはずそのクーリーさん、85年シーズンのレース中にクラッシュし、重症を負って回復まで数年を要する大けがを負い、レースに復帰はしたものの、往年の速さは戻らなかったといいます。その後はライディングスクールのインストラクターなどを務め、2004年にはAMAスーパーバイクの殿堂入り。2017年には鈴鹿8耐にも来日してくれ、前夜祭と、決勝日朝に、78年の鈴鹿8耐ウィニングマシンGS1000のレプリカでデモランをしてくれました。この時も足が悪かったようで「あんまりスケジュールを詰めてくれるな」って一旦キツ目に言った後、周囲がシーンとすると「僕は、ゆっくりとしか歩けないんだからさー」って笑っていました。いたずら好きなとこもあったみたい。この時、弊社で「ふたり鷹ファンブック」を発売したタイミングで、劇中にも登場するクーリーさんに登場シーンを見せたら「僕のこと、これだけしか載ってないの?」ってニコニコしてくれました。引退後はドクターもやっていて、優しい、穏やかな、聡明な感じのする方でした。あの時まだ、60歳だったんですねぇ……。糖尿病を患っていらっしゃる、とお聞きしました。左がクーリーさん、右はクロスビーさん 右のマシンで、このふたりが80年の鈴鹿8耐を制したのですクーリーさんは10月16日、アイダホのご自宅で、糖尿病の合併症で亡くなった、と伝えられました。今ごろ向こうで、横内さん、ポップと再会している頃でしょうか。謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。この日のデモランのために、クシタニがツナギを製作、アライヘルメットが当時のカラーリングでヘルメットを製作 「これ、持ち帰っていいのかな」と、ツナギとヘルメットをものすごく喜んでいました写真/南 孝幸・中村浩史 文責/中村浩史
Oct 16, 2024
タイガー宗和さんなんで。。。元気そうと思っていましたが鈴鹿8耐前の深夜のコンビニで、宗和さん、坂田さん、大ちゃんと会ってお話させていただきました俺らは第3ライダーなんで、いいんだよ~って明るく話されてました本当にショックです。。。なんで。。。ご冥福を、お祈りいたします1996/07/26-28 1996 鈴鹿8時間耐久-宋和さん-TRF HONDAの第3ライダーとして、イベント等参加されてました。宗和さんと、125の坂田と、750の武田雄一、250の加藤大治郎と一緒に、8耐前夜にサーキット近くのコンビニでばったり出会いました。その時何故アプリリアの坂田と一緒にいるのとたずねたら、「俺達、HRCの監督に気に入られているから(爆笑)」って感じでした。コンビニの中で、写真を撮ったり、はしゃぎまくっている私の友人と、4人でちょっと話したのですが(武田君と加藤君はとても大人しい...)みんな良い人で、次の日もある場所(これは極秘です)で出会ったのですが、そこでも気さくに話してくれました。コンビニに行ったのは、夜中に買い出しに行った時でした。夜中でしたが、レジには行列が出来ていました。しかし、だれも気づきません。前日にHOTELから出たまんまの格好でしたので、見事に溶け込んでおりました。私が気づくと、友人も超ミーハーになり、話しかけに行きました。写真を撮ったりしたのですが、それでも、まわりはシーンとしていました。ライダーって、つなぎやチームの服でないと、だれも気づかないみたいですね。(チームの服着てても、スタッフと間違われたりしてるようですが...)特に8耐は、ライダーの名前なんて知らない人も結構多いので、みんな平気に表に出てますね。チームからのお知らせです。 pic.twitter.com/4f7UTGyQpe— SQUADRA TIGRE TAIRA PROMOTE (@SquadraTigre) October 8, 2024
Oct 8, 2024
もう29年なんですね。。。。当時では少ない海外のスーパーバイクで活躍する選手でした。前の選手のオイルに乗ってしまい、そして、転倒後のバイクの下敷きとなるという、ものすごく不幸が重なってしまいました。。。永井選手の事故のあと、カウル内にオイルを吸収するパッドが義務付けられました。。。YAMAHAを代表する、日本を代表する、本当にすばらしいライダーでした。。。当時、亡くなった後に、日本での走行が録画でやってて悲しんだのを覚えています。。。本当に、好きなライダーでした。。。。永井 康友(ながい やすとも、1965年10月29日 - 1995年9月12日)は、埼玉県出身のオートバイ・ロードレースライダー。日本人で初めてボルドール24時間耐久ロードレース優勝。略歴1989年、全日本ロードレース国際A級デビュー。以後、ヤマハのワークスライダーとして活躍。1995年、スーパーバイク世界選手権に日本人として初めてのフル参戦開始。第10戦オランダ(アッセン)第2ヒートで、エンジンブローを起こしたファブリツィオ・ピロバーノのドゥカティ916のオイルが撒き散らされていた。ピロバーノは自らのオイルに乗って転倒。立ち上がると即座にコースマーシャルに対して、オイルフラッグを出せとアピールしたという。しかし、永井はそのオイルに乗ってしまい転倒。投げ出され滑走する永井の前を滑走するマシンが宙に舞い上がり、その間に、滑走し続ける永井の体がマシンに追いつき、そこへマシンが降り落ちてきた。マシンに押しつぶされた永井は、意識不明のままアッセン市内の病院へ運ばれた。事故の報を受けて日本から駆けつけた家族と婚約者が見守る中、9月12日(日本時間9月13日)息を引き取った。29歳。1996年、永井の遺志を継ぐべく、吉川和多留が(1995年ランキング5位で終えた)永井のナンバー「5」でフル参戦した。1986年 - ロードレースデビュー(筑波選手権SP2)1987年 - SP忠男レーシング加入筑波選手権ノービスF3 チャンピオン筑波選手権ノービスSP400 チャンピオン筑波選手権ノービスGP250 ランキング2位鈴鹿4時間耐久ロードレース6位(加藤義昌)1988年 - ジュニア昇格全日本選手権ジュニアGP250 チャンピオン(4勝)全日本選手権ジュニアTT-F3 ランキング3位(2勝)鈴鹿ジュニア4時間耐久レースリタイヤ(福智学)1989年 - ヤマハワークス加入、国際A級昇格全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング3位TTフォーミュラ世界選手権SUGO大会TT-F1 2位鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(斉藤光雄)1990年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング11位鈴鹿8時間耐久ロードレース4位(加藤信吾)1991年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング2位(1勝)鈴鹿8時間耐久ロードレースリタイヤ(藤原儀彦)1992年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング5位(1勝)鈴鹿8時間耐久ロードレース11位(藤原儀彦)1993年 - 全日本ロードレース選手権TT-F1 ランキング3位(4勝)鈴鹿8時間耐久ロードレース32位(藤原儀彦)1994年 - 全日本ロードレース選手権スーパーバイク ランキング6位(2勝※ヒートレース含)スーパーバイク世界選手権SUGO大会 第1ヒート3位、第2ヒート5位鈴鹿8時間耐久ロードレース4位(エディ・ローソン)ボルドール24時間耐久ロードレース優勝(クリスチャン・サロン、ドミニク・サロン)1995年 - スーパーバイク世界選手権 ランキング5位(ヒート最高位2位)鈴鹿8時間耐久ロードレース5位(コーリン・エドワーズ)デイトナスーパーバイク200マイルレース7位
Sep 12, 2024
8月29日は、大島正さんの25回目の命日です。。。私達にとって、鈴鹿8時間耐久の表彰台に日本人で上がるなんて、奇跡といれるくらい、ものすごいことでした。それなのに、2年連続2位!!ちょうど、バイクに興味を持っていたころ、鈴鹿と北海道を聖地と思って、鈴鹿8耐を最初に見に行った90年も2位。ほんとうに、ヒーローでした。ヤングマシン1985 2月号。。。コーナーをもたれていたのですね。大島正のスクーター道場やぶり。これの前のページには、宮城光のぶっちぎりON AIR でした。あとは、86年からの鈴鹿8耐パンフレットから 78 チームスーパーモンキー HONDA RVF750 フレッドマーケルと87年のパンフは、77番のエントリーリストのみ。88年 43 an TEAM BLUE FOX HONDA CBR750 安部直人さんと モトチャンプの広告にも89年 46 an TEAM BLUE FOX HONDA RVF750 宮崎祥司さんと an TEAM BLUE FOXの広告にも 決勝2位90年 16 an TEAM BLUE FOX HONDA RVF750 宮崎祥司さんと プレビューのところにピット作業の様子 決勝2位91年 37 チーム nomos with 阪神R KAWASAKI ZXR-7 阿部直人さんと 阪神ライディングスクールの広告にも92年 26 ビデオシステム・ヤマモトR HONDA VFR750 浜口俊之さんと Nov 30, 2018 レーシングヒーローズ大島正さんの特集がありましたので。。。前に、大島正さんの お母様の お店に行ったときの写真もありました。。。他のは、ぼけぼけでした。。。601の携帯使ってた頃ですね。。。大島正(享年35歳)大島正(おおしま ただし、1963年11月28日- 1999年8月29日)、大阪府豊中市出身。1982年にレースデビュー。BEETレーシング。1988年、鈴鹿200km優勝、1989年、1990年に鈴鹿8時間耐久ロードレースで2年連続2位入賞。1999年8月29日、栃木県ツインリンクもてぎで行われた、"’99もてぎ7時間耐久レース"で、スタート1周目の90度コーナーで転倒、頭部が後続車と接触、病院に搬送されるが、ほぼ即死の状態で死亡。今日は大島正選手の命日です。あれから22年経ちました…コロナが落ち着いたら最後の8耐模型届けに行きますね。#大島正 pic.twitter.com/W2bIFsr24m— suzuka8tai (@suzuka8taiQ) August 29, 2021 an祭り続きからの大島正選手祭り(⁎⁍̴̆Ɛ⁍̴̆⁎) #公式画像とうちの子並べようぜ pic.twitter.com/KWLHtW5P1a— suzuka8tai (@suzuka8taiQ) August 21, 2021
Aug 29, 2024
私が鈴鹿8耐に行きだした頃は、すでに現役を退いておられましたが、妹さんも、チームも活躍されていましたね。2006年のインタビュー記事は、知らないことばかりで、むちゃくちゃ感心しましたね。。。2003年に発症された重症筋無力症と闘いながら女性ライダーの応援を、ずっと続けてこられていました。一度、お会いして、話を聞きたかったです。。。残念ですご冥福を、お祈りいたします。Team MARI / チームマリ<悲しいお知らせ>チームマリの創業者で特別顧問を務めておりました井形マリが、8月13日、永眠いたしました。享年66才。長く病気療養中でしたが、8月11日に病状が急変し救急搬送となり、そのまま医師の治療もむなしく逝ってしまいました。ロードレース現役中は大きな転倒や怪我にも負けずに不屈の精神で復活し続け、レース引退後は女性ライダー育成に情熱をもって全力で駆け抜けた人生でした。マリが生前中に賜りましたご厚誼に対し、心よりお礼申し上げます。葬儀は近親者にて執り行いました。誠に勝手ながら、ご慰問、並びに、お香典、ご供花等は謹んで辞退申し上げます。後日チームマリにて「お別れの会」を執り行います。ここ数年は外出もままならず、一人でいることが多かったので、たくさんの方に見送っていただければと思っております。日程や場所、お別れ会の形式などの詳細は、改めてお知らせ申し上げます。なお、マリへの思いを込めて準備を行いたいと思っており、また9~10月はチームマリのスクールやイベント開催が各地で決定しているため、開催はかなり先になってしまうと思いますが、どうかこのFBやマリ輪NETでの次のご案内をお待ちいただけますようお願いいたします。チームマリ代表著名人インタビューVol.11 バイクインストラクター 井形マリさん安全はお金を払って身につけるもの日本人史上2人目の女性国際A級ライダーであり、80年代のバイクブームに女性レーサーの草分けとして大活躍した井形マリさん。引退後は、女性ライダーをサポートするバイクインストラクターへと転身し、現在は女性ライダーを中心としたライディングスクール活動の企画・運営を行っています。2003年に発病した「重症筋無力症」と戦いながら、今もなおバイクとライダーを愛してやまない井形さんにお話を聞きました。ホンダ入社からサーキットデビューまで── バイクに興味を持ったのはいつ頃ですか?高校2年のときです。男子が通学に使うバイクの後ろに乗せてもらって、「便利だな」「かっこいいな」というのが第一印象ですね。同級生にバイクの話ができる女の子が2~3人いて、みんなで「50ccでも取ろっか?」って軽いノリで免許を取って、すぐにホンダのダックス50というバイクを買って。初めて乗ったときは、今までにない刺激的な乗り物という印象を受けました。本田朝霞技術研究所勤務のころ。 19歳の井形マリさん。本田朝霞技術研究所勤務のころ。19歳の井形マリさん。── 高校を卒業して、すぐにレースを始めたのですか?卒業したら就職しようと思っていて、できれば二輪や四輪の会社に行きたいなと考えていたところに、たまたまホンダの就職案内が来ていたんですよ。深いことを考えずに入社試験を受けてみたら、あっさり採用されました。入社後は管理課という部署に配属されて、タイピストとして一日中部品の名前を打っていました。その頃はまだバイクのレースがあるってことすら知りませんでした。しばらくして、ホンダの社内にバイクチームがあることを聞きつけました。ブルーヘルメットと言うチームなんですが、そこの部室へちょくちょく顔を出すようになります。最初は「女子が入った前例はない」と門前払いされていたんですが、めげずにサーキットまで押し掛けて先輩のタイムを計ったり、バイクにガソリン入れたりっていう下働きを続けていたら、「仕方ないから125でもやらせてみようか」って言ってくれて。そこからはあっという間ですね。筑波サーキットでライセンスを取り、レースに出るということでホンダからCB125JXというバイクを用意していただき、そして筑波選手権プロダクション125というレースにブルーヘルメットの一員として参戦しました。── 初めてサーキットを走ったとき、感じたことは?「自分の道を見つけた」と思いました。高校までは自分がのめり込むものがわからなかったんです。だから、バイクに出会ってレースを始めたとき、「この世界で絶対生きていくんだ」って決めました。それとスピードの魅力は強烈でしたね。でも速く走るのはすごく難しくて、そういう部分がのめり込む原因だったかな。とにかく負けず嫌いなので(笑)。── 会社でも頭の中はレースのことで一杯?レースを始めてからは、夕方に仕事が終わるとブルーヘルメットの部室に行って先輩に整備を教えてもらい、週末はサーキットに出向いてスポーツ走行や地方選手権に出たりという日々でした。ノービス、ジュニアと成績が上ってくると、ホンダから補助金が出るようになって、それを車両代や部品費用にあてていました。ホンダの社員でレースをするのと、一般人としてレースをするのでは、サポートが全然違いますから、国際A級を取るまではホンダでがんばろうという考えはありましたね。国際A級に昇格したのは1982年、24歳のときです。この頃にはもっと練習してプロになりたいという思いがどんどん強くなっていました。そこで会社を辞めて、レーサーとしての道を歩むことになります。1983年鈴鹿8時間耐久レースでの勇姿。17位で見事完走。── 女性がレーサーとして一人でやっていくのはたいへんではなかったですか?定期収入はないので、ヘルメットのSHOEIさんを始め、部品メーカーなどにサポートしてもらっていました。ただ当時はバイクレース業界がバブルの上り口ということもあって、お金を出してくれるところは比較的多かったですね。それと女性という部分で若干有利だな、と自覚していた部分もあります。そういうところは、計算高いんです(笑)。── 昇格して次の年には鈴鹿8時間耐久レースに出ていますね。もともとブルーヘルメットのみんなが出場していたので、単純に走ってみたかったのが一つと、国際A級を戦うための資金調達という下心もありました。一年目はブルーヘルメットの先輩に、おんぶに抱っこ状態でなんとか走って17位。このときはホンダ時代からお世話になっている神谷忠さん(※)に、オートバイを貸してもらったり、テレビ局の取材を取り付けてもらったりといろいろバックアップしてもらいましたね。翌年はシェリー・フライダスっていうアメリカ人の女性ライダーと組んで走りました。当時シェリーさんは怪我をしていたみたいで、タイムがあまり良くなかった。鈴鹿8耐は外人の方とペアを組むと、特別枠ということで予選に通らなくても本選に出られるんですけど、レーサーとしてのプライドがあるので、それは絶対に嫌だった。そこはわたしががんばってタイムを縮めて、45番グリッドで予選を通過しました。本選も無事完走できて、24位でレースを終えました。※:神谷忠ホンダでテストライダーを務め、NR500の開発にも携わった日本バイク界の重鎮。ホンダ在籍時にはブルーヘルメットにも所属している。現在は災害VBN埼玉隊長やレーシングスクール校長などを務め、二輪車の啓蒙活動を精力的に続けている。ライディングに関する著書も多い。80年代の一大バイクブームのなかで── 当時のバイク業界の雰囲気ってどんな感じでしたか?業界自体が勢いに乗っていて、レースをやる人間も多かった。わりと世間がレースに興味を持っていたように記憶しています。バブルでお金があったからかもしれませんね(笑)。平忠彦さんの活躍も起爆剤になりました。80年代の真ん中のあたりに『レディスバイク』という雑誌が創刊され、「格好良いレーサー特集」などの企画がよくありましたね。レースやレーサーに興味を持つ女性が増え、その余波でバイクに乗る女性が爆発的に増えたのでしょう。── 井形さんも引っ張りだこだったのでは?取材はものすごい数でしたね。二輪雑誌よりもむしろ一般の雑誌のほうが多かった。テレビ局へ収録に行ったら、「ここでバイクを起こしてください」っていきなり言われたりもしました(笑)。8歳年下の妹、井形ともが全日本選手権GP125に出場した時。井形マリさんは監督をやっていました。── 順風満帆の井形さんが、29歳の時にレースで大怪我をされたのですね。そのころ海外のレースに参戦する人が出てきていて、わたしも成績を上げてさらなる飛躍を、と思っていました。ところがレース予選中に思いっきり転倒してしまい、骨盤バラバラ、股関節がバキッと折れるという大怪我を負ってしまったんです。まだレースをやめたくなかったので、一生懸命リハビリもして、一年以上かけてなんとか歩けるようになって、早速バイクに乗ってみたんですけど、やっぱり痛い。股関節って人間にとってすごく大事なところなんですよ。ここが壊れてしまったんじゃ、もうレースは無理だなぁ、と思いました。できるかできないかっていうのは、自分自身が一番良くわかっているので、残念だけど仕方ないかなって。── その後どうされたんですか?当時のわたしは「バイクで食べていきたい」という気持ちがとても強かった。残念ながらレーサーの道は絶たれてしまったけど、タイミング良くバイク講師のお仕事が来たんです。ラッキーだったと思いますね。当時、CBR系のレーサーハンドルタイプが流行していたのですが、これは公道で乗りにくいバイクだと言われていました。そういうバイクを買った女性が、乗れないままバイクを降りてしまうというケースが続出して、販売店で講習会をやったほうがいいんじゃないか、っていう話がでていたんですよ。そこでわたしのような女性レーサーを講師にしようという話が持ち上がったようです。講師の依頼は頻繁にあり、怪我をした翌年には女性ライダーの育成と指導を行う「チームマリ」を結成させました。わたし自身はまだ杖をついていましたけど(笑)。乗れない人を乗れるように導く楽しさ── 大勢の人に安全な乗り方を伝えるわけですけが、最初から上手くいきましたか?最初はやっぱり苦労しましたね。あまり理論的に物事を考えられるタイプではないので、この感覚をどう伝えたらいいんだろうって、悩みました。でも場数を踏めば、どう教えたら良いかは自然とわかってくるものですよ。当初、戸惑ったのは女性ライダーが走りに対して求めていることが、わたしの求めてきたモノと違っていたことです。わたしがずっと追い求めてきた「速く走る」という技術は、一般の女性ライダーは求めていない。Uターンや、坂道発進ができるようになることの方がずっと重要なんですよね。妹の井形ともさんと。井形ともさんはWGP125ccクラスに日本人女性として初めてフル参戦した経歴の持ち主。現在はスクールの企画総括責任者です。── 女性にライディングを教えることのやりがいってどんなところにありますか?劇的に変わるんですよ、女の人って。うちのスクールは入るとまず初級・中級・上級に分かれます。初級に入って、発進できない、Uターンできない、立ちごけも何度もしちゃうって人は、すごくおどおどした顔をしてます。でも、「同じ女性なのにこんなに走れるの?」っていう人が、上級・中級の参加者やインストラクターに大勢いる。そういう女性を見て、「私も練習すればできるようになるんだ!」って希望が湧く。それで何度も練習して上手になると、その自信が顔つきに出てくる。そういう成長を目の当たりにできることに、すごくやりがいを感じます。── スクールに来られる女性はどんなかたですか?スクールを始めた当初は、若い人ばかりでした。最近は30~40代の方が多いですね。女性は結婚したり子どもを生んだりするとバイクに乗らなくなりますが、子育てに一段落すると、「20代のときに乗っていたからまた乗ろう」という考えに至るようです。80年代のバイクブームのときに乗っていて、また乗りたくなったっていう人が結構来られています。── 昔と今で女性ライダーが変化した部分ってありますか?女性だけのスクール「チームマリ・モーターサイクルレッスン」。栃木県のツインリンクもてぎにて1996年に教習所で大型二輪免許が取れるようになり、大きく変化しましたね。以前の大型二輪免許は、最初に普通二輪免許を取って、250や400を何年か乗ってから警察の免許試験場で何度も厳しい試験を受けて手にするものでした。だから大型二輪免許を持っている人は女性でもそれなりに走れる人だった。今はまったくバイクに乗ったことのない人でも、教習所に行けばいきなり大型二輪を取れる。ステップを踏まなくてもいいんです。この制度変更を機に大型二輪免許保持者は増えました。でも本当に走れる人は多くないでしょう。大型二輪が簡単に取れるようになったことにより、教える側としてはとても大変になりました。免許を持っているから1台目のバイクに大型を買い、初めて参加するレッスンも「750をレンタルして練習します」っていう人がいる。750のバイクに無理やり乗っても、バタバタ倒すだけで効率の悪い練習になってしまうんです。だから「250か400の扱いやすいバイクで練習を重ねてから750に移行したほうが、早く上手くなるんですよ」とステップアップして練習することを勧めるんですけど、なかなか聞いてもらえません。それとみなさんお金持ちなんですね。一台目に買うバイクは外車がすごく多い。しかも女性の場合はデザイン重視なんですよ。いきなり1000ccの外車を買ってしまう人も少なくありません。初心者には扱いにくい癖のあるバイクを選んでも、乗りこなせるわけないのですが。── そういう人もスクールに通えば乗れるようになりますか?途中で嫌にならなければ大丈夫です。でも大きいバイクを買って車庫から出せない人って、本当にいるんですよ。わたしたちからすれば、バイクショップはそういう人には売らないでほしい、という思いがあります。外車メーカーは今すごく強気で売っていますけど、乗れない人に売るということを問題だと考えてはいないのでしょうか。── バイク業界に注文を言うならば?メーカーは警察に頼らずに、もっと安全運転の講習会を開催するべきです。それは売るものの義務だと思います。経済活動なのでお金をかけられない事情があるのはわかります。でも、ひとアクセルで100キロ以上出るものを売っている会社なら、安全に対する活動にもそれなりにお金をかけるべきです。安全に対する意識という点では、ライダー自身にも変革を求めたいですね。安全のためのスクールって「無料」という意識が大勢の人にあると思うんです。でも安全はお金を払って手に入れるものですよ。ホンダが昔やっていたスクールは一回3,000円だったけど、もっと高くてもいい。「安全はお金を出して身に付けるもの」ってことを、どのメーカーもアピールしないといけないんじゃないでしょうか。うちのスクールは一日で15,000円しますけど、必ず定員オーバーします。それだけ切実に上手になりたいと考えている人が多いんですよ。── 女性ライダーにアドバイスするとすれば?男女の決定的な差は筋力の差で、それがもろに影響するのがバイクです。車庫からバイクを出せない男性っていないし、体の小さい男性が上手く乗れるのも、ある程度筋力があるからでしょう。でもそれを女性だからできないと言うのではなく、技術を身につけることでなんとでもなる、ということを理解してほしいんです。筋力で男性には勝てなくても、そこは技術で補える。足つきにしても、技術でカバーできます。信号待ちなど停止する際に、バレリーナのように両足がつま先立ちになって怖いという方がいますが、お尻をずらして片足だけを地面につければ安定します。身長が小さいことを言い訳にする女性も多いですが、背の低いインストラクターはちゃんと工夫して乗っていますよ。生徒たちに後押しされたチームマリの存続── 2002年に大きな病気を患っておられますが、お話を聞かせてもらえますか?サーキットに出てのレッスン。井形マリさんのホームグラウンドでもあり、笑顔がこぼれます。事故で割ってしまった股関節の痛みが、15年かけてひどくなったので、人工関節に変えたんです。その手術をしたすぐあとに「重症筋無力症」という病気にかかりました。国の指定する難病です。手が上がらないところから始まって、物も全然噛めなくなる。起き上がることもできなくなって、寝たきりみたいでしたね。もちろん良くなる方法はあって、食事療法や投薬・手術などの治療は続けていました。ただタイミングが悪いことに、この病気にかかったあと、チームマリを金銭的にサポートしてくれていたホンダさんが、それを打ち切るという話を持ち出してきたんです。当時はわたしの症状もすごく悪化してきていたし、さすがに「もうやめちゃおうかな…」という気持ちになっていました。ところが、チームマリを存続させるために生徒さんをはじめとする有志が署名活動を始めてくれて、それがあっという間に6,000名以上集まったんです。チームマリをずっと続けていたけど、その手ごたえを感じたことってあまりありませんでした。でもこの署名運動で確かにそれを感じたんです。そのおかげで「チームマリをやらなければいけないんだ!」という気持ちになったし、「病気なんかしてられない!」って、闘病の支えにもなりました。インストラクターのみんなも一生懸命サポートしてくれたし、署名用紙を受けてくれたホンダさんも、支援を続けましょうと言ってくれました。その後は病状もひと段落して、こうやってお話できるまで回復しています。まだ完治したわけではないですから、体調管理など大変なこともありますけど、最近はスクールにも顔を出しているし、もっと回復したらサーキットにも戻りたい、という気持ちもあるんですよ。── 今後チームマリが目指すものは?マリ輪CLUB(まりりんくらぶ)の九州ツーリングのときの一枚。会員数は現在全国に1195名を抱える。バイクに乗れる技術を身につけた女性の数をもっと増やしたい。これは、その女性が母親になったとき、子どもにバイクの素晴らしさや技術を伝えられる女性を増やすことが目的です。親子でバイクと言っても、お父さんが子どもに教えることが多いですよね。でも子育てをメインで行うのは女性です。バイクだけじゃないですけど、何が安全で何が危険かということは、母親も教えるべき。それには母親自身が安全と危険、どちらもわかっていないとダメですから。── 最後にお聞きします。井形さんにとってバイクの魅力ってなんですか?相手が機械なので、それをコントロールする難しさがおもしろいですね。バイクごとの特性があって、それをどういう風に生かしたらうまく走れるかを考えることが大好きで、そこが魅力です。(2006年12月5日(火) 於:東京品川・NMCA日本二輪車協会)井形マリ プロフィール井形マリ(いがた・まり)バイクインストラクターリンクオフィシャルWEBサイト「マリ輪ネット」1958年 東京生まれ1978年 20歳でレースデビュー 筑波選手権プロダクション125 年間ランキング3位1979年 ノービス125 全日本選手権ノービス125 年間ランキング5位1980年 ジュニア125 全日本選手権ジュニア125 年間ランキング11位1981年 国際B級125 全日本選手権国際B級125 年間ランキング8位1982年 国際A級昇格 ※日本人女性史上2人目1983年 世界選手権鈴鹿8時間耐久オートバイレース 総合17位(ペアは日本人男性ライダー)1984年 世界選手権鈴鹿8時間耐久オートバイレース 総合24位(ペアはアメリカ人女性ライダー)1985年 国際A級125 全日本選手権国際A級125 年間ランキング5位1987年 国際A級125 全日本選手権国際A級125出場中に転倒し、怪我のため引退1988年 チームマリ結成1993年 女性ライダー限定のライディングレッスン「ビューティライディング」を開催1997年 女性だけのライダーズクラブ「マリ輪CLUB」を結成2003年 重症筋無力症発病2004年 女性ライダー限定の「チームマリ・モーターサイクルレッスン」を開催2005年 女性ライダー限定の中高速プログラム「ビューティ・サーキットレッスン」を開催「マリ輪CLUB」の登録メンバーが1000名を超える井形マリさんへ「10の質問」1 現在の愛車は? ホンダのCBR954です。最近乗ってなくて、妹(元GPライダーの、井形とも)に取られていますけど。2 最初に乗ったバイクは? ホンダのダックス50です。3 今後乗ってみたいバイクは? 少し前に思ったのはアプリリアのRS125。すごいおしゃれな感じだったので。4 愛用の小物は? チームマリの刺繍が入っているバンダナを愛用しています。それとSHOEIさんのヘルメット。5 バイクに乗って行きたいところは? オランダのアッセンと、イギリスのドニントンパークへ行って、motoGPを観たい。6 あなたにとってバイクとは? 連れ合い。相棒。7 安全のための心得はありますか? 自分の技術を客観的に見られること。8 バイクに関する困り事は? メーカーはもっと乗る人の安全を考慮した販売をしてほしい。9 憧れのライダーは? 堀ひろこさんです。亡くなってしまいましたが、憧れたのはあの人だけですね。10 バイクの神様に会ったら何と言う? バイクとめぐり会わせてくれて、ありがとうございました、かな。
Aug 17, 2024
8月15日 10:54 帰ってきました
Aug 15, 2024
8月15日 1:29 いつも買ってるハクバのA3額縁も、注文して当日に届きました。この前もらった、RKさんのを飾ろうとハクバ 額縁 アルミ 額 ペオリア A3 サイズ ブラック A3 1面 アルミ FAPE-BKA3¥1,709商品の小計:¥5,127配送料・手数料:¥0注文合計:¥5,127割引:-¥1,171ご請求額:¥3,956
Aug 14, 2024
8月5日 11:51 今年の8耐から、チケットが、スマフォで表示するようになったのですよ。ただ、スマフォ使ってない方のために、セブンイレブンだったかで印刷もできる。そして、今回、ほんとにこれで良いのか?と思ったのはスマフォのQRの確認って、入場ゲートのとこだけなんですよね。他は、QRの画面の黙視だけこれ、スマフォアプリは、時間によってQR変わるんですけど、ネットワーク状態悪いことを考えて、画面キャプチャーでも良いんですよ。そして、最初から、印刷したのを持って行っても良い私は、ホームページから、印刷って、選んで、印刷したのを持って行きました。だって、ネットワーク状態もだけど、バッテリー切れ起こして、入れないなんてことになるんですよ。実際、うっちーは、ネットワーク状態悪くて、土曜日に入れなくて、私がデザリングして、なんとか入れました。さて、何が問題かというとてっきり、指定席とか、全部QR読みこみで、誰がどこにいるのかくらい管理してると思ったのですよ。そして、名前とか性別とか表示されて、不正してないか分かるとか指定エリアから出るときにもQRて管理するとかそれが、全部目視確認それも、QRでなくて、隣の文字のとこ私は、白黒で印刷してったので(HPに白黒で可と書かれている)、白黒は一般なので、指定には入れませんと言われた。。。それで、これが、どういうことかと言うとカンの良い方は、もう分かってますね画面のキャプチャーや、印刷したのを、他の人にあげたら、入場券だけで、いくらでも指定エリアに入れるのですよ。入場券すらも要らないかも。。。やってないですが、これって、今までよりも、ザルじゃねえかって思いました。。。やってる人は、いたんじゃないかなあ。。。昔は、不正入場対策で、腕にベルトつけられたりしましたね。去年と同じ色で使えないか?と思って持ってきたら、別の色で無理かと。。。さあ、来年も、同じなんでしょうかね??こんなこと書くと、来年、その手が使えないだろ!!!って怒られそうだ。。。
Aug 5, 2024
8月4日 23:36最後、現金しか使えなくて、半分買って、金おろして来て買ったヨシムラグッズ転売用とかではないですよ~チタンキーホルダーは、1995年の500円の頃から、おみやげ用によいって、ずっと20個くらい買ってるので。。。ガチャは、POPでなくて、ずっとやってたが、私がやってたやつには、入ってなかった。。。金色のカプセルと言うことを、後で知った。。。
Aug 4, 2024
22:54スズキ応援席の景品です。今年は金曜日に受け取りに行ったので、ちゃんとLLです。シンプルに見えますが、確か後ろは、パスケースと同じような柄でした。SUZUKI応援セット
8/4 18:52渥美心くんすげえ!!!!最後は、こんなバトルがあったのか。。。19:34ゴール!!最後、あんなペナルティあったのか。。。見るほうも走るほうも、本当に大変な8時間だった。。。19:44心くん、本当にすごかった!!!!しかし、片付けは、まったく終わっていない。。。どうしよう。。。
19:20うちわたくさん。。。メグさんも。。。あと、ベスラで、ガチャやって、コーヒーゲット!高くて買えなかったんですよね。コーヒーの袋と、うちわに、とっきーのサインいただきました。うちわ各種ベスラ
RKRKさんは、本当に盛りだくさんでしたね。チェーンのキーホルダーとクリアファイルは、SNSフォローしたら頂けました。他はみんなもらえましたね。
表彰台のテープさあ、あと一時間片付けは、まったく進んでない。。。こちらは、表彰台前といっても、ストレートからは入れないそこで見てて、飛んできたやつ一度も落ちてない状態で、風で流れてきたのをキャッチした。ちなみに。踏まれてグチャグチャになったやつも、一応持って帰りました。。。
KTC1万円ガチャと、三千円ガチャの景品は、この前紹介したがこちらは、ガチャする前に、これ、安くてかっくいい!!!と思って買ったKTCカーボンスタイルクリップボード
BAN-ZI8耐ウイーク、土曜日に挨拶に行かせていただいた、BAN-ZIさん昨年の、2りんかん祭りのときも、たくさんお話いたたき今年は、2りんかん祭りには展示されてなかったですが、鈴鹿には来られてました。かなり詳しく、しっかり説明してくださる女性の方が、相手をしていただき、色々とお話をききました。技術か、営業の方?どちらにしても、両方の能力あるなあと聞いてみたら、サービスの方だそうです。すげえそれで、大きいBAN-ZI AID買ったら、おまけにつけるプライマーを、小さいほうにも付けていただきました。こちらは、補強はできないけど、穴を埋めるにはよいとサンバーのフレームに使おうかと思います
17:51KOMINE今年の8耐のコミネさんのカバン2りんかん祭りの時も、土曜日も、全員に配ることはしない、買った人だけと言われてましたが、決勝の日は、全員に配られてましたね。左のは昨年の鈴鹿8耐の特別なやつだったので、嬉しかった。今年は、2りんかん祭りなどと同じ
11:04最後の四耐か。。。40年前は、グンと、シデヨシが、GK71Bで、逆転優勝したんですよね。。。予選が、何組も行われるほど、バイクの甲子園として、盛り上がってました。。。最後は、8耐ウィークにしてほしかったな。。。さあ、今年も、BSとCSの録画見ながら、八時間耐久片付けするか。。。もう、1本いただいてますが。。。11:33スタートしました!!11:558/04 14:02しかのこ?すしのこの、新しいキャラ?と思ったら!おしのこだったかあこの前、鈴鹿前に買ったのにも、コースターついてたなあ。。。8/04 14:26もう少しで三時間片付けは、まったく進まないのに、ビールだけは、進んでいく。。。なんでだろう。。。ラ・ムーでおつまみ買ってきました14:2715:00鈴鹿は、雨降るんですか??最後の四耐悔いのないようにがんばれ!!!あと、一時間!!!八幡も、すごい雷だ16:0144年の歴史に幕皆様、お疲れ様でした16:21おめでとう!!!
2024年7月27日我らが山本隆義さんの、チームシンスケ時代のメットも展示されますよ。風よ鈴鹿へを、口ずさみながら、見に行きましょうKD design2024年7月27日 ·▼SHOEI 千石 清一 実使用 ヘルメット ▲SHOEIの千石清一さんの実使用ヘルメットです。島田紳助氏のチーム・シンスケで8耐で活躍しました。BOBSONカラーです。このヘルメットは、千石さんの引退レースの1991年、最後の8耐で使用されたものです。https://youtu.be/opk_vfi9YmE?si=7SBfuO2oWOld4B3P第5回「ヘルメット博物館IN大阪市立平野区民センター」開催!大阪市立平野区民センターで、8月11日(日)の1日開催です。時間はAM11:30〜PM5:00で、テーマは「8耐」です。鈴鹿8時間耐久ロードレースは、日本ロードレース界における夏の風物詩として国内有数の集客を誇るモータースポーツイベントです。そこで活躍したライダーの顔である、ヘルメットを見に来てください。今回も警備上の関係で、入場料として500円いただきます。お釣りの無いようによろしくお願いします。その時にはこのヘルメットも展示いたします!皆さん是非お越しください。
Jul 27, 2024
0:11少し傷ついてるかなあ。。。つけられたのかなあ。。。新名神高速道路 土山サービスエリアにいます。2024年7月22日荷物は、とにかく押し込んでぐちゃぐちゃの状態でうっちーが、離れてるとこの駐車場からたどり着くのまっていざ出ようとしたら、鍵がなくiPhone、バッテリーなくて、充電しても、なかなかONにならずやっと入って探すで、鳴らすものの、車の中でなってるけど分からず。。。なぜか、ヨシムラなどのグッズの袋から出てきました。。。そこから、別れて、土山まで、1:01今日は、って、もう日が変わりましたが、ちゃんとしたメシ食べてなくて、枝豆とか、つまみばかり食べてただけなので何か食べようと思ったのだけど、深夜なので、ほとんど✕で、悩みに悩んだのが、ほかの丼やカツカレーなどよりカロリー少ない名古屋メシセット1:24うーーーん、まあこんなもんか。。。って感じで。。。うーーむ。。。眠たい。。。横になってたけど、腰痛いさあ、帰るか3:26なんとか、無事到着しました
Jul 21, 2024
22:14駐車場で、横浜のNSRの方や、あちらのクラブの有名な方々と、お話させていただきました。NSR、リザーバータンクの蓋を盗まれたそうで、ペットボトルの蓋を使って対策されてました。盗まれたのは、二回目だと22:31皆さん、80's Meeting来てくださいね!!!
19:3119:39ヨシムラ三位です!!!!20:04本当に、みなさんありがとう!!!!20:4020:47本当にありがとう!!!感動をありがとう!!!20:5221:02長瀬!!!!
12:14そろそろ、移動しますかね12:48またRKの貰います。。。14:16定位置で、呑みまくってます15:52こんな名物あったっけ??初耳ですが、焼肉ランチいただきます。。。
昨夜の酒とか、疲れとか動けません。。。みんな元気ですね。。。9:199:3010:31V2席まで、なんとか、たどり着きました10:54スタートに、間に合った!11:17RKで貰ったキーホルダー、みんなに薦めてます11:28いよいよスタートです
もう、日が傾いてる。。。19:1819:2619:32けいちゃんあるって食べてみたずっと食べてみたかったのでうーーむ。。。、普通に、味噌味ベースの鶏肉の野菜炒めだよなあうっちーが、これは、けいちゃんではないと。、。うっちーと別れて、車に戻ります。。。
Jul 20, 2024
土曜日も、各ブースまわり昨日やってなかったエリアを中心に8 FESエリアのほうほとんどのブースで挨拶させていただきました14:30ベスラさんで、くじやって、またコーヒーがとっきーさんにも、サインもらって、写真撮らせていただきましたもちろん、まいどまいどですが、80's Meetingへの協賛お願いと15:23MOTULさん、NAPS京都八幡でのMOTUL JACKでお会いしたの覚えていてくれて80's Meetingの協賛も、またお願いさせていただきました密照幸映@saemissho_気が付いたら、トップテントライアルも終わってた。。。何も見れなかったなあ。。。
7:16鈴鹿の朝は、やっぱり、これですね9:16うっちー、Wi-fi入らなくてQR表示できず、入場できず。。。うちのデザリングして、なんとか入れました9:54
18:25設置完了さあ、BBQするか~風よ鈴鹿へ 見ながら、一杯やってます7/20 1:39シャワー浴びました。快適ですなあでも、すぐ近くの車が、もう、何時間もエンジンかけたままうちの車達を思うと、そんな怖いことはできないですって、周りのこと、思わない人なんでしょうなあ
Jul 19, 2024
14:10皆さん、今年もヨシムラブースは、現金のみです。お金足らなくて、全部買えず、外のコンビニまで、行かないとないと安心してください。時計台の奥にあります。有り金全部おろして、ヨシムラグッズ買ってくださいちなみに、ガチャもやりまくって、既に6万#鈴鹿8耐#ヨシムラ16:14平嶋なっちゃんが!取材の打合せに来られてたようです16:32金曜日は、やってないところが多いのですが、TONEさんのブースに、レースクイーンおられたので、写真を撮らせていただきました愛田ほのかさん百田ゆりさん17:20戻りますか。。。。
10:076時から積込やってますが、やっと出発11:09京滋も名神も渋滞京都南から乗って、やっと草津眠たすぎて休憩12:42鈴鹿サーキットにいます。2024年7月19日三重県 鈴鹿市到着しました。12:5713:1213:18今日は、昨日に急遽作った企画書持って、色々とブース巡り。。。お忙しい中、迷惑とは思いますが。。。明日も、回ります。。。ダメもとで。。。たぶん、全部ダメと思いますが。。。熱射病なりかけてますが、がんばります。。。ほんと、ごめんなさい、迷惑なのは、重々承知で。。。これで、少しても、参加される方に喜んでいただくことができればと。。。皆様、よろしく御願い致します。。。13:57
6/14 18:42スズキ応援席チケット購入しました。今は、席を選べるようになってるのですね。残り、四席でした。山田先生親子の分とで、三席並んでは無理でしたが、Bブロック四列15-16と、五列15なので、前後です。
Jun 14, 2024
6/10駐車場券、届きました
Jun 10, 2024