カテゴリ:法律いろいろ
先に断っておきますが、今日書く意見はかなり激烈です。強烈なことをけっこう書いてきたここでも激烈度は史上最強かもしれません。読む人は心するように。 テーマは題名の通り。 さて、ここまで改行すれば見ない人は去ってくれたかな。 今日の朝日新聞に、性犯罪者に対する監視措置についてアメリカで強化されたという記事があった。 日本でも、一定の常習性を有する性犯罪者の情報(住所氏名や顔写真、その他身体的特徴など)を公開するメーガン法は一時論争になっていた。奈良で少女誘拐殺人事件が起こったために、性犯罪の前科者を監視せよ、と言う動きが一時高まったのだ。(本来megan’s lawでミーガン法と言う発音が正しいという指摘もあるが、今回はこちらで統一) 去年、司法試験の論文試験の憲法第一問は日本版メーガン法と言うべき法律の合憲性が問われた。アメリカで実際に行われているメーガン法に比べればソフトな法律だがそれでも受験生の多くは違憲説で書いたらしい(統計があるわけではないので眉に唾するように)。 メーガン法論争はとにかく感情的議論の種になっている。 性犯罪者の人権vs被害者、一般市民の人権と言うような構図ばかりが強調され、実際にメーガン法がどのような効果を持ち、どのような弊害があり、メーガン法が必要な土壌はなんなのかと言う議論の基礎的な部分が全く無視されたままに論争されている。先週ここで語った「発言権を得るための論理のプロセス」が全く示されていないのである。これなら子どもの雪合戦の方がはるかにまともなゲームであろう。 いくらなんだって、そんな理屈が国会や裁判所で通るはずがない。法律家として考えるのに論理プロセスが必要だからこそ司法試験にだって出るのである。結論だけ書くような問題は司法試験の論文試験には出ない。 だいたい、今になってメーガン法論争は法が導入されたわけでもないのにすっかり静かになってしまった。メーガン法論争など、しょせんメディアと、その御用評論家の類に踊らされた、瞬間湯沸かし器みたいな感情でなされた議論だった印象が拭えないのである。 まず必要性。 そもそも性犯罪者の同一の犯罪における再犯率という正確な統計は公式には取られていない。「メーガン法があれば犯罪は防げる」と言うがもともと防ぐべき犯罪がほとんどない可能性もあるわけである。 さらにその効果。 端的に言ってメーガン法を使ったところで性犯罪者が消えるわけではないのだ。メーガン法により情報公開された性犯罪者といえども、殺したりすれば当然殺人罪である。ご近所の力がどんどん薄れている現在、日本中で自警団を作るとは思えない。つまり、いくらメーガン法を用いたところで市民はまず間違いなく有効な防衛策をうてるとは考えられないのである。 もっとも、メーガン法論争を受けて行政の方で情報を抑えておくようにしたようだ。では、さらに国民に周知するとなったときにどのような追加効果が合理的に期待できるのか。そしてそのときに起こる犯人への攻撃と比べてもその期待値は高いか。そのような比較検討はまるで行われていない。 メーガン法で情報が公開されても、再犯率は下がっておらず、再犯までの期間が短くなっただけだ、と言う統計の結論もある。これが発覚率増大によるものか、本当に再犯期間が短くなったのかどうかは分からないが、「新たな被害者を生まない」というのがメーガン法の売りだとすればそれには大きな疑問が既に提示されているのだ。 そして弊害。 海外で報告されている例で一番悲惨なのは放火。本人の財産も、社会復帰の土壌も、生命も危険になる。まして、放火される家には家族だって住んでいるわけだし、近隣の住居に燃え広がる可能性だってあるわけである。もはや犯罪者本人が苦しめばよい、と言うわけにはいかない。まだ木造建築が多い日本では、アメリカなどとは比べ物にならない被害が発生する可能性もある。 性犯罪者が住んでいると意識的に知ることになれば、周辺の地価が下がってしまうおそれもあるのだ。 また、日本では「家」と言う観念がまだ根強く残っている。放火に限らず、何の罪もない親戚や家族に影響が及ぶ可能性は高い。 オウム真理教の信者が引っ越してくる、となったときに付近住民は大規模デモ・監視で追い出しにかかった。本当にオウムがサリンを撒くから怖いのなら、そんなことしないでさっさと逃げるはずだが、それは共同体の異質排除意識によるものだ、と言う見解が正論に思える。実際あのようなデモに参加している人たちの中には「参加しないとかえって怖いおもいをしそう」と言うことで参加している人もいるようで、新聞に匿名の投書もあった。 被害者だって大丈夫とはいえない。特に家庭内性犯罪の場合、その情報が漏れる可能性が出てくる。性犯罪の場合被害者と言えども好奇の目で見られ、二次的な被害を受ける場合がよく報告されている。 これでは被害者が通報することが難しくなる恐れもある。実際問題、強制わいせつや強姦と言う大型の性犯罪は親や教師と言った身近な人によることが決して少なくないのだ。 こうしたメーガン法に疑問を呈する立場に、証拠を示すなど説得的に必要性を論証した見解を私は見たことがない。 一つの悲しい宿命として「自由な生活には危険が伴う」ということがある。 自由は享受したい、でも安全にもなりたい。それは理想である一方で、両立は不可能である。憲法によって自由な生活を保障されている我々は、犯罪者の隣に住むかもしれないし、場合によっては被害者になりうる危険を同時に背負わされた、と考えなければならないのである。 この発想はなかなか受け入れられないかもしれない。しかし当たり前の発想である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年11月27日 10時56分52秒
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