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碁法の谷の庵にて

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2006年10月01日
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テーマ:囲碁全般(745)
カテゴリ:囲碁~碁界一般編
 今日で開設500日です。そこでちょっと名前を変えてみました。
 もともとこんなに長続きするとは思わず適当につけた名前だったし、最近は名前の変更がはやっているようですからね。
 最近ネタ切れてきたかな。というか我ながらよくこんなにネタが続くなあ。



 500日記念というわけで、今日は囲碁界と法律世界にまたがった話を。かなり前からのストックネタだけど。



 江戸時代、囲碁の家元と言えば本因坊・安井・井上・林の四家である。

 本因坊門は道策・算悦・道知・元丈・丈和・秀策・秀和・秀甫・秀栄などを輩出した4家の筆頭と言うべき最大級の名門である。
 が、最後の巨星・21代秀哉が「最強者が本因坊を名乗るべきである」と言う考えをすすめてついにその名跡を毎日新聞に譲り渡し、家元としては消滅。その後、○世本因坊を名乗る資格を得ているのは高川格(秀格)、石田芳夫(秀芳)、趙治勲である。
 今の本因坊は高尾紳路。

 では、他の家元はどうか。大仙知・知得仙知を輩出した安井家と、他と比べるとイマイチの林家は、明治維新の後に衰亡してしまった。家康が囲碁殿堂に最初に入れられたのがよく分かる。保護がなくなったら、途端に空中分解してしまったのだ。


 さて、こうした家元の中で、家元として最後まで残ったのは、幻庵因碩を輩出した井上家である。
 明治時代になっても、本当に細々とながら存続し、なんと戦後に至るまで残っていた
 しかし、東西両棋院が囲碁界を仕切るようになって家元の意義ははっきり言って歴史保存以外にはなくなってしまったのが本当のところだろう。


 先日、法科大学院で使わせてもらっている判例検索システムで、興味本位で「囲碁」と打ち込んでみた。
 刑事裁判で被害者の趣味として囲碁が挙がっていたり、賭博関連の罪でも囲碁についてのものがあった。さすがに賭け碁でつかまったわけではないようだが。
 他に、某女流プロが原告になっている裁判があったり、某棋士が某棋院を年金関連で訴えたり、棋院の建物を巡って裁判が起こったりしているほか、(棋士は二人とも現役のプロなんで内容は秘密にしときます)この井上家を巡る裁判が引っかかったのである。

 

 昭和36年8月21日、16代井上因碩を襲名していた恵下田仙次郎(栄芳)が亡くなった。後継者の指名はされていなかった。

 そして、この時点で井上家にいた専業棋士は、当時碁会所を経営していた津田義孝三段と潮伊一郎四段だけだったという。
 で、このうち津田義孝三段が、名門衰亡を惜しむ人々に推されて後に17代井上因碩を襲名しようとしたのだが、それをめぐって恵下田未亡人ミネと津田三段の間で裁判が勃発。
 ミネの方から、井上因碩を名乗ることを禁止することを求めて裁判に訴えたのだ。(判決文によると、津田とミネの間で生活費の支給がらみでごたごたがあったようだ)



 この裁判の主な争点は、

囲碁家元では、跡目が決められずに家元が死亡した場合未亡人に跡目を指定する権利があるのか

 ということ。
 もちろんこういうのは直接決めてある法律がある問題ではなく、慣習として存在していたかどうかの問題である。そういう慣習がある、と言うことであれば、津田はミネに従わなければならないことになる。というのも、法例2条では、法律のない世界では慣習があるなら慣習に従うということが明らかにされているのだ。
 商法の世界では、商法に規定がない世界では民法より先に商業に関する慣習を使うと定めていたりもする。世の中に現実に存在する慣習は、法の一部として扱われるのである。


 さて、大阪地方裁判所は、そのような慣習はないと認めた。つまり、そんな慣習がないならミネに口を出す権限はないことになる。

 判決文の一部をわかりやすいようにちょっと改変して抜き出すと、

 「徳川時代囲碁界における名跡の承継は、通常各家元がその存命中にそれぞれ跡目を定め幕府に許可を願い出てその許可を受けておき、家元の死亡又は隠居により跡目がこれを承継するという方法によってなされていたが、たまたま家元が跡目を定めないで死亡したときは一門の棋士が評議して跡目を選び、これを他家の家元が幕府に跡目として推薦し、幕府がこれを許可するという方法によってなされていた」
 「明治維新以降井上家家元となった第一四世大塚因碩・第一五世田渕因碩はいずれも前因碩が跡目を定めず死亡したため同門の棋士に推挙されて名跡を継いだものである」


 さらに、本因坊家の雁金準一vs田村保寿(後の秀哉)の争いや16代恵下田因碩が家督相続したときの事件まで持ち出して、

 「家元が跡目を定めず死亡した場合には一門の棋士が評議のうえこれを選定していたものと推測することはできても、原告主張のように家元の相続人又は未亡人が跡目を指定したり、その同意がなければ名跡を継ぐことができないとする慣習があったとは認めがたいと結論付けたのだ。

 ちなみに、フォローとして

 「もともと前近代的な家元制度の中では、家元の未亡人は一門の棋士から師匠の身内として尊敬され、また名跡を継ぐ者は未亡人から代々家元に伝わる遺品類の引渡を受けなければならなかつたこともあって、跡目を選ぶのに未亡人の意向が影響を及ぼし、また名跡を継ごうとする者がその継承に当り未亡人に相応の礼を尽くしたであろうことは容易に推測できるけども、それ以上に、未亡人が跡目を決めるとか、未亡人の同意がなければ名跡を継げないという慣習が存在しているとは、特に徳川時代および第一四、一五世井上因碩の襲名の経過に照らせば認めがたい」

 と裁判で示された。

 ミネの方は大阪高等裁判所に控訴したが、判断はちっとも揺らがなかった。高裁は地裁の言ってることは全くその通りであるとしたのだ。この裁判が最高裁までもつれ込むことはなかったようである。


 最終的に津田は17代井上因碩となって六段に昇ったようだが、1983年に亡くなっている。


 井上家の現状については、もうネット上でもまるでわからないようになっている。
 2ちゃんねる囲碁板に僅かに現れていた一説によると、関西に移っていってもう家元は碁を打っていないというが、詳しいことは分かっていない。


 判決文は、後日アップします。





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最終更新日  2006年10月01日 19時47分53秒
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