カテゴリ:事件・裁判から法制度を考える
つい先日、喉の病気か何かで定期的に痰の吸引が必要な女の子が東大和市の保育園に通うのを拒否されたことの適法性が争われた裁判で、東京地裁が女の子側の訴えを認めて、女の子を保育園で受け入れさせる判決を下した。
この判決自体については特に論及をしようと言うわけではない。保育園に通えてよかったですね、という一般的な祝辞を述べるにとどめさせていただく。 私が今回気にしたのは、市長のほうから割りと早くに「控訴・上告はしない」と言う発言が出たこと。別に悪いというのではないが、それを見てちょっと想像したことを書く。 想像であるので間違っても真に受けることのないように。こんな考え方もあるかな、程度のものと受け止めてね。 行政の行った処分を争うような訴訟では、和解をすることができるかどうかには実は学説上は争いがあるようだが、実務上は原告側が訴えを取り下げる代わりに行政庁の方が処分を撤回したりすることがあるという。ほとんど和解と同じである。 しかし今回は判決である割には控訴上告をしないと言うことで割りと市の方もさらっと受け入れた印象を受けた。 一審に不満は全くありません、と言うことなら、最初からおとなしく受け入れるか、上のような和解をすればよかったのではないの?と言う気もしてくる。原告側の両親の方が、今後この手の事件への影響も気にしている(この手の行政がらみの裁判ではそういうことを意図している人たちの話をよく聞く)ので、最初から申出に応じる気がなかった可能性もあるかも分からない。 だが、私が考えたのは、「反発封じ」ということである。 今回入園拒否の原因となったのは、「痰を吸引する子どもの引き受けをするのは手間がかかりすぎて負担が過大だ」ということ。 「現場の負担」、つまりは現場感覚が相当に影響している。市のほうで勝手に処分をやめて受け入れるとなれば、現場からの相当な反発も予想される。これに対して、判決を取ってくれば「判決に従うしかないんだ」という大義名分が出てくる。いかに「現場の声」と言うことで反発したとしても、行政の上の方どころか裁判所までが噛み付いてくるとなると、反発が封じられる可能性も高い。そういうことではないかと私は睨んでいる。 国に賠償金を請求する国家賠償訴訟などでも、これに近い発想は割と聞くのである。 税金を、社会にとって有益な事業に使うのは問題ないが、不法行為の尻拭いに使うということは、ただ単にもったいないというだけでなく、納税者としての市民感覚としても受け入れがたいものが少なくないと思われる。 たぶん担当者だって、これはおとなしく賠償して救ってあげたいなあと思ったけど、法的に微妙だから、税金を使うんならせめて裁判所のお墨付きくらい取ってこないと反発されることもあるかもなあ、ということで争っているような件は、必ずしも少なくないと見ている。もちろん、およそ問題外の領域になってくればわからないけど。 そういえば、ハンセン病国賠訴訟でも、国は法律解釈に対して文句をいろいろとたれながらも(確かに旧来の思考の枠組みからすれば国の言い分は決して無理からぬものがあるように感じ、上級審でひっくり返る可能性も割りとあったと思う)当時の小泉総理大臣の鶴の一声で控訴なしと言うことになった。 もしかすると、似たような発想があるかも分からない。 以上、ちょっとした所感でした。 想像なので、くれぐれも真に受けて他人に向かって、真実であるかのようにしゃべったりしないように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年10月27日 14時38分38秒
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