カテゴリ:事件・裁判から法制度を考える
よくぞまァ大の大人がアンチ○○でこんなことを平気で言うなあ、というのを見かけたのでその辺に関して一言。
つい先日、パンツ一丁で包丁を振り回した男を取り押さえようとして警官3人が負傷、しかもうちひとりは重体という惨事になってしまった。 とにもかくにも、負傷した3人の快癒を祈らずにはいられない。 さて、この事態の原因に、またしても人権派批判を挙げる人がいる。「警察官が拳銃を使えなかったのは人権派知識人が批判するからだ」だってさ。 確かに、拳銃を使って射殺しようものならそれなりの批判が集まったことは容易に察せられるが、人権派知識人がどうたらこうたらごときで警察が本当に必要なことをとめてしまうと思っているのだろうか。 俗に人権派といわれる人たちでなくとも、刑事訴訟学者や弁護士たちが厳しく批判する実務の運用はいくらでもある。逮捕されている被疑者には取調を受ける義務があるとか、取調に弁護士を立ち合わせる義務はないとか、学説はしっかり理由、それも法的に見て一応筋の通る理由をつけて批判している。 じゃあ警察が学説の批判にごめんなさいしているか。そんな訳はない。取調べはばっちり行っているし、弁護士の立会いは認められていない。ケースバイケースで認めることもないわけではないようだが、原則認められるなどと言う領域には程遠い。もちろんそれにはちゃんとした法的根拠があるのは言うまでもないが。 ましてや警察官の命にも関わるこの現象。発砲が問題なく最初から適法で、必要があるなら人権派批判など無関係に発砲はなされるはずである。 発砲を支持してもよいし、発砲を批判する人たちを批判するのもかまわないけれども、人権派が噛み付くから発砲しないんだ、なんて、人権派嫌いをなんにでもかんにでも結び付けて噛み付いているだけである。いい年した大人がどうしてこういうことを平気で言うのか、私には皆目分からないのである。 なぜ今回の件で拳銃で射殺しなかったか。 本件の詳しい事情は当事者に聞いてみたいところだがいくつか思い当たることはある。 警察官職務執行法には、警察官が人に危害を加えることの出来る場合を示してある。 そこから7条を引っ張り出してみよう。青字の部分だ。下線部は私が便宜的につけたものである。 警察官は、犯人の逮捕若しくは逃走の防止、自己若しくは他人に対する防護又は公務執行に対する抵抗の抑止のため必要であると認める相当な理由のある場合においては、その事態に応じ合理的に必要と判断される限度において、武器を使用することができる。但し、刑法 (明治四十年法律第四十五号)第三十六条 (正当防衛)若しくは同法第三十七条 (緊急避難)に該当する場合又は左の各号の一に該当する場合を除いては、人に危害を与えてはならない。 一 死刑又は無期若しくは長期三年以上の懲役若しくは禁こにあたる兇悪な罪を現に犯し、若しくは既に犯したと疑うに足りる充分な理由のある者がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。 二 逮捕状により逮捕する際又は勾引状若しくは勾留状を執行する際その本人がその者に対する警察官の職務の執行に対して抵抗し、若しくは逃亡しようとするとき又は第三者がその者を逃がそうとして警察官に抵抗するとき、これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合。 人に向かって銃を撃つというのは、相手を押さえつけるのとは違い相手を負傷させることしかできない。やはり危害を与えることに他ならないと考えられるだろう。そこで上の条文に私が引いた下線部に着目。 犯罪を「現に犯しまたはすでに犯したと足りる十分な理由のある者」が「警察官の職務の執行に対して抵抗し、逃亡しようとするとき」で「これを防ぎ、又は逮捕するために他に手段がないと警察官において信ずるに足りる相当な理由のある場合」でなければならない。他に危なくない方法がいくらでもあるでしょ、と言う場合はダメだ。 そして、これを逸脱して他人に危害を加えれば正当防衛や緊急避難でもない限り賠償責任や刑事責任を負うということになるのである。 では、正当防衛の方の要件は、と言えば刑法36条。 「急迫不正の侵害」がある場合でなければならないから、ただ単にパンツ一丁で歩いて、包丁を持っていると言うだけでは正当防衛にはならないのである。また、例えばリンゴ1個盗んだ人間からリンゴを取り返すために射殺すれば、やはり過剰防衛になるとされる。利益と利益の均衡もそれなりに要求されるのだ。 もちろん取り押さえようとして行き過ぎた行為があったと言う事情であれば、裁判所だって寛大に臨むとは思う。といっても、最近傷害致死罪や傷害罪の法定刑は上がったばかり、それに伴って警察官が職務上違法な行為をやって他人を傷つけ、死亡させる特別公務員暴行陵虐致死傷罪(刑法196条)の法定刑も上がってしまっている。寛大な処分にも限度があろう。 こうした法が改正されることもなく根強いのは、国民感情にも大きいところがあるだろう。 日本ではそもそも銃刀法があり、銃の保持・使用規制がものすごく厳しい。アメリカみたいに銃を持つ権利が憲法で保障されてますなんて考えられないだろう。この点が日本の犯罪率の低さに一役買っているといえる。 こんな状態の下では、銃器それ自体に対して国民が小さからぬアレルギーを持っているのが実態だろう。たかが人権派批判封じごときのために、銃を使うたびわざわざ「銃器使用が適正だった」と言うとは私には思えない。そこには、銃の使用をすればそれを国民全体にアピールしないと警察のイメージに関わるという現実的な理由があるように思える。 犯罪者と言えども、問答無用で射殺してしまうことにはことさら人権派とカテゴライズされた人たちならずとも抵抗のある人が多い。これで本当は何の罪もない人を射殺することが起こりでもしたら、えらいことになるだろう。極端から極端に流れる国民性からすれば、銃を一切もつなと言うことになるかもしれない。 イギリスで死刑が廃止された原因は、死刑を執行したあとに冤罪が発覚すると言う悲劇があったためである。 最近は旧来の「事件があってから動く警察」に限界が感じられ、もっと積極的に動き回って犯罪者を捕まえ、予防をするような動きも警察に期待されている。いわゆる「共謀罪」の設置もその一つの現れである。 だが、それには憲法上の令状主義の保障やそのような国民感情を含め、さまざまな障害が存在することを認めてもらわざるを得ない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年10月28日 16時43分32秒
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