カテゴリ:事件・裁判から法制度を考える
一、弁護人の接見 最初に接見した弁護士について、本来は最初に逮捕された時点で弁護人依頼権があるのを通知するのは法律上当然(刑事訴訟法216条、203条)ながら、当番弁護士制度を警察のほうから通知するという実務の慣行があったと思うんだけどなあ…。依頼権はともかく、明らかに当番弁護制度はあの変態っぽいおじさんが教えて知った風であった。 さて、その弁護士が示談を勧めたのは、作中ではびしっと批判されていたし、その批判はそのとおりだと思ったが、他方で正直言って仕方のない「面がある」ものだと思った。 例え無実でも、たきつけて大裁判になって会社がクビになってということになればたまったものではないと考える人たちは実際には少なくない。今の司法に問題があるのは事実でも、司法問題と個別の事件の戦いをごちゃごちゃにすると、かえって個別の被告人の利益を吹っ飛ばす恐れもある。今回は被告人はフリーターということで仕事のクビを恐れなければならない立場ではなかった(家族の情愛ものにするのを避けるためという監督の発想らしい)が、特に勤め先がある人たちにとっては、その辺で究極の選択を迫られる事になる。 どんなに少なめに見積もっても、接見したら黙秘権や弁護人依頼権を教えたりするほか、否認した場合、黙秘した場合、認めた場合のメリットとデメリットを通知するくらいのことはやらざるを得ない(もちろん、結果的に弁護人による自白強要とならないように配慮するのは必須)と思っている。弁護人は刑事裁判で弁護するだけ、というものでもなく、多面的な役割が期待されている。 決して長い時間が取れるものではない接見で、どれほどのことが言えるのか。いえないなら優先順位は何か。さすがに防御権その他について教えるのが先だと思うが、実務家になったら苦心の種になるのではないかと今から想像している。 ちなみに、自白する被疑者であっても、何らかの原因で無罪の心証(無罪になるかもしれない…くらいだと思われる)を得れば弁護人は法廷で無罪弁論をすべきというのが一応通説であると聞いている。公判で自白していても証拠不十分である、違法収集証拠である、そういうところを独自の立場から主張する事は差し支えないどころかむしろしなければならないとされる。 弁護人の真実義務否定の有力学者でも接見で自白を勧める事はすべきだといってたりするらしいし、このあたりの議論は難しい。 二、弁護人の依頼 弁護人を依頼するために最初に行った渉外とか知的財産とかをやってそうな事務所らしきところでは、刑事はやってないということで別の弁護士事務所として最終的に受け持った事務所を紹介してもらった風であった。実際問題、弁護士といっても国選弁護にせよ私選弁護にせよ、否認事件は収入にならずやりたがらないのが本当のところである。(刑事弁護で儲けようと思ったらよほど大事件を扱って執筆でもするか、暴力団顧問にでもならないと・・・) 最終的に引き受けた弁護士は刑事畑ではあるものの特別痴漢問題の活動をしていたわけでもないようだが、弁護人は金のかかりそうな再現映像まで作って相当に熱心にやっていたように見えたし、周囲の人間も彼の無実を信じていろいろと活動をし、高くつく保釈金の工面もしていた。主人公は弁護人選びや周辺の人間の環境という意味では大当たりしたのではないか?というのが正直な感想である。 逆に言えば、その分初動弁護のまずさが際立ってくると言ってもいいわけなのだが。 また、弁護士の奥方?も夫に理解をしているように見えた(??)。少なくとも、世間を敵に回す弁護をしたら弁護人をやめる事を迫る人間とは、私は結婚はしたくない。それ以前に一生独身かな。 三、被害者の証人尋問 この映画を見た人は、被害者を尋問しているとき(ちなみに最初の「無罪病」と揶揄されていた裁判官がやっていた)に、被告人・傍聴席から(弁護人には見えていたけど)の遮蔽措置をやっていたのは憶えているだろうか? これは近年の刑事訴訟法改正で導入された制度(刑事訴訟法157条の3)。被告人や傍聴席に見られていては、落ち着いて証言する事ができなかったりして、下手をすると真相解明に支障をきたす(ちなみにこの辺の問題とからめて法廷への遺影遺骨持込の可否を検討した記事はこちらからどうぞ)し、場合によってはお礼参りなどの原因にもなりかねない。被害者の氏名などが公開されなかった描写があると記憶しているが、それもその辺の配慮だろう。 今回はやらなかったが、他に付添人をつけたり、ビデオリンク方式で尋問する事もある。刑事訴訟諸法上、こうした証人となった被害者を守る立法のほかに被害者に処分を通知する制度、検察審査会の議決に起訴効力を持たせる制度などが導入されている、または今後導入される。 なお、今度は被害者が訴訟に参加するという見解がいきなり走り出したようだが、弁護どころか検察実務の方からも反対意見があり、一筋縄では参らないであろう。もともと専門家がすることを前提に形成、作ってきた訴訟制度。その中でも特に専門家向けに作られている訴追の場面に、被害者が当事者として割り込むのは簡単ではない。せめて、公費で弁護人をつけ、その弁護人に代弁、監視?させるというようなワンクッションは必要だと思うのだが・・・ 四、スタッフ関連 この事件の法律監修者には、私に一こま講義をしてくださった教授がいる。誰かは秘密。その教授と満員電車でもろに鉢合わせた事もあった。 さらには周防監督が読んでこの映画を作るきっかけとなった本、「刑事裁判の心」の著者であり、やはり監修に携わった木谷明元裁判官の父親は、木谷道場で名高い木谷実九段であることを付言しておこう。囲碁マニアとしても思わずニタリ。 なお、少なくとも法律面や訴訟の実際という視点からすれば、この映画はよくできているというのが実務家たちの意見であるようだ。 私も習性的にいろいろな場面場面で根拠条文の記憶を探ったり「323条2号の書面」とか聞いたりしてあ、あれだなと思う事もしばしば。しかしいくつかは、あれ条文なんだったっけ?というところもあった。まだまだ勉強が足りん。 五、この事件の真相は?? 最後に、本作では、作中の事件について、「真犯人が誰か」「真相はどこか」は分からない構成になっている。虚心になってみれば、「視聴者の立場で見てさえ、主人公が無実という証明などどこにもない」構成であることが理解できる。 確かに、一応は判決のいうとおり、主人公の弁解にもそれは違わないか?という部分はあるし、判決は批判的に描かれているとは言え、「真実をついている一応の可能性」があることに変わりない。まして真相がどうかは全く分からない。もちろん、周防監督は計算ずくでそれをやったのであろう。(ここ参照) 主人公の無実を勝手に前提にして感想その他を書いている人たちは落第である。そこらの二時間ドラマと同レベルにこの作品を見たね、といわれても仕方ない。 痴漢の被害自体が架空のものという可能性。 彼は真犯人であるにもかかわらず否認している可能性。 否認しているうちに本当に自分はやってないとウソ発見器にも引っかからないくらいに思い込んだ可能性(長期拘禁が多い再審請求事件などには、そういう例もあるらしい)。 彼が真犯人ではなく別に真犯人がいる可能性。 彼の手の動きがたまたま被害者に触れてしまって痴漢と間違われた可能性。 可能性はいくつか上がるが、どれとも分からないしどれも否定できないのである。被害者の言い分の一部は違うっぽいな…とか、「分かっている部分」として描写されているのは細切れだ。アガサクリスティの「アクロイド殺人事件」のように、語り役である主人公が真犯人という推測だって、決して可能性としてありえないものではない。 それに不満を抱いた人は、最初に担当していた判事が司法修習生に説いた言葉を思い出していただきたい。もしも真犯人だったら・・・なんて悩む必要はない、そんな事を考えてしまったら冤罪を生んでしまうよということである。もちろん裁判員でもそれは同じ事だ。 松本サリン事件をモデルにした映画「日本の黒い夏」では、最後に真犯人が出てきてめでたしめでたしになっていたが、それは極めて珍しい例である。実際には真犯人なんか出てこないのが大半(もっとも、富山の冤罪事件のように真犯人が出てきて始めて冤罪発覚というのがあるのが恐ろしいところ)だ。法廷は2時間ドラマとは違う。 だが、裁判という場においてはこの世界とは比べ物にならないくらい「わからない」のである。裁判官・裁判員は事件に触れる事ができず、法廷に出される証拠でしか判断できない。第六巻でこいつは怪しいといってもダメだ。 今後裁判員として市民が事件に触れるとき、裁判員はこの映画以上に、事件について詳しく知る事はできない状態で裁きを申し渡すという構図を理解しておいていただきたいものである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[事件・裁判から法制度を考える] カテゴリの最新記事
|
|