テーマ:ニュース(100183)
カテゴリ:事件・裁判から法制度を考える
判決期日、判決が原告・被告・代理人、事件によっては傍聴席まで、皆でかたずをのんで聞かれる…と思っている方、結構多いのではありませんか?
判決は「言い渡し」です。判決文を裁判所に頼んで作ってもらったとして、まかり間違って判決文の文章と実際に言い渡された判決が異なっていた場合、正しいものとして扱われるのは「判決の言い渡し」の方です。送られてきた判決文にもっと軽い刑が書いてあったから棚ボタ、なんてオチはありえないのです。 しかし、判決手続自体は、えっこれだけ?と思うほど質素なものです。 刑事裁判で、書類審査で終わらせるような事件でなく(略式裁判)、きちんと公判が開かれる事件ならば、判決には検察官と被告人・弁護人が立ち会います。 ところが、民事裁判では判決は「誰も聞いていない」、ということが珍しくありません。 もちろん社会的に耳目を集めた事件や、よほど当事者の事件に対する思い入れが深い事件であればそうはいかないでしょうし、私自身そう言う事件もいくつか傍聴したりしていますが、多数派の事件では、裁判官が書記官以外にはほとんど誰もいない法廷で判決の主文だけを読み上げ、理由の読みあげは省略して終わり(理由の読みあげを省略することは民事訴訟規則で認められています)、あとで当事者や代理人にFAXで判決文を送る…というのが一般的なのです。 また、判決期日を延期すること自体は、実はそうまで珍しい事態でもないようです。 判決期日に裁判官が交通関係や急病など、一定の事情で来られなくなってやむを得ず…ということもあるようです。 判決が難しくて書ききれないことから、裁判所が自分で決めた期日を一方的に延ばす…という例も、そうまで珍しい話ではないようです。また、これに対して当事者が不満に思ったとしても細かい理由の説明はなされないようです。 正義の目隠しをした裁判所の判断も、結局「自己都合で」代えることはあると言う訳です。 もちろん、「納期に間に合わないからいい加減な判決文を書いてもいいんだ」なんて、自称社会人のようなことが言えるはずもありませんし。 こちらの記事も参照してください。(ちなみに、このブログの弁護士の先生とは一度だけですがお会いしたことがあります) なんでこんな記事を書いたかというと、昨日の朝日新聞の夕刊にこんな記事があったから。 判決期日が4回も延期されている異例の裁判がある。長野県南木曽町で2004年3月、取材ヘリコプターの墜落事故で死亡した信越放送(SBC)記者三好志奈(しな)さん(当時26)の遺族が国などの責任を求めた訴訟の控訴審だ。4日、東京高裁で判決が予定されていたが、直前にまた延期された。 4回も伸ばすとなると、 「自分で指定しておきながら」今までの指定はなんだったんですか? 仮に心証がぐらついているような事件なら、当事者により立証を促してもっと審理すべきだったのではないですか?(尽きていたらそれまでですが) と問われても仕方がないと言えるでしょう。記事でも「ベテラン民事裁判官」とやらがそれを言っています。新聞などのこの手の匿名のベテラン法律家には眉に唾した方がいいと思いますが、少なくともこの問題についてこの裁判官の感覚と私の感覚は同じと言えます。 国賠の責任追及のような事件の場合、判決文はものすごく長くなることが多いですが、判決文の形式面などはテンプレート的に用意できるもののはずですし、手続を進めながらでも、当事者の主張などをまとめた部分や、第一審判決の要旨については用意できます。何より、期日指定においてそこまで考慮した上でもっと後の期日を指定することもできたはずです。「自分の事情」でもある訳ですし。 ・・・といっても、裁判所のこの件に関する内情まで詳しく知っている訳ではないので、現段階では仮定法以上に「裁判所を非難」することは差し控えたいのではありますが。 そして思うこと。 こういう事件が全国誌に書かれても、ネットは静かなものですね…ブログでは一件もありませんでした。 法廷を愚弄しているとか、遺族を軽視しているとか言う人が一定数出てもよさそうなものですが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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