カテゴリ:法律いろいろ
碁の方では半目負けを食らってナエまくりなのですがorz
記念記事と言ってもあまり憲法とは関係ありません。まあ毎年憲法記念日記念記事とかやってましたからね。 憲法関連の質問でもあれば回答するにはやぶさかではないのですが、まあこのブログで扱っている憲法ネタで扱ってみたいネタは扱いつくしました(「民主制でも権力を縛り付ける」立憲政治の意義などは、ぜひいろんな人に考えてもらいたい意識なのですが)し、面白くもなんともない論点解説をやりたい訳でもないので、法律に関する所感めいたことを。 私自身、ちょっとした理由で、何度か裁判官の先生とお会いしたことがあります。 そしてつくづく感じるのは、「裁判官の先生方は人間だ」ということです。 確かに頭のいい人だ、とはよく思います。私などには手に余る法律をするすると使って正しい答えを導き出します。 あまのじゃくな私はえっと思って反発の材料を探そうとするのですが、残念なことに私のレベルではとても応戦不能です。 しかし、それだけ。 私の知っている現役あるいは元裁判官の先生方は、家に帰れば着崩した格好で料理もしたり、家族にしばかれたり、子煩悩なお父さんや良き母親をやったりしているような人たちばかりです。敬虔なキリスト教信者だったり、天体観測をしにわざわざ海外まで行ったり、ドラマのDVD集めてたり、挙句にはアイドルの追っかけをやったり、多分全くの偶然ですがテレビの街頭インタビューでインタビューされたり。一升瓶をあけるほどに酒も飲んだり、ダジャレやら自作川柳やらでウケを取ったりと言う人も。 念のため言っておきますが、これは私が知っている数少ない裁判官の先生方に限定した話です。日本中探せばもっとすごい人が余るほどいるのでしょう。 法服着て法廷に立っていなければ、何のことはない本当にただの人間なのですし、実際そう言う点もよく強調されます。 本当に一般の人とは異なる路線で努力したか才能があったかはたまたその両方か、いずれにせよそれだけの人間だといってよいはずだという実感には自信を持っています。 手にきちんとした職のある人なら多かれ少なかれそこに至るために努力をしたか才能があったかだと思いますから、そう考えれば裁判官ばかりお偉い先生だ、と言う訳ではありません。 専門職の持つ専門性や職業としての意義・尊厳に一定の敬意を払うべきであるのは、法律家に限った話ではなく、医師でも士業でも職人芸でも農業でも同じであると考えています(それだけに、他の士業を知りもしない上、貶すような発言をする者に対しては許し難いと思うことがあります)から、その限りでの敬意は裁判官にも当然に払いますが、裁判官も何のことはない、「ただ分業制社会の中で司法を担当し、その中でも判断をすると言う役割を与えられているだけ」なのです。 あまり詳細を語ると冗談抜きで手が後ろに回りかねませんし、そうでなくともプライバシーの問題にもなるのでこれ以上詳しいことは書けませんから、信用性を疑うのであれば構いません。 しかし素直に私が感じたことであるということはいいたいと思います。 法曹界でも、裁判官もごく普通の人間であるということは共通認識に属すると言って差し支えないように思います。 そして、裁判官も人間であるということに立ち返り、更に裁判員制度も含めて考え併せれば、至極簡単に分かることがあります。 それは、「何故ただの人間に過ぎない裁判官(あるいは裁判員)の判断が、判決と言う形で人一人の人生を左右していいのか」ということです。 もちろん誰かがやらなければいけないから、と言うのが究極的な解答であることは揺らぎません。 ただそれでも、特に裁判官や裁判員の判断に任せ、他の人間に関与させないと言う点では、裁判官や裁判員に何か特別な属性があることになるのもまた事実のはずです。 最終的な裁判官の判断の権威性は、証拠を見たかどうか、双方の言い分をきちんと聞いたかどうかという、「手続を踏まえたか否か」に求められると私は思います。 権威性を手続きさえ踏まえれば担保できるからこそ、裁判員制度が導入されたのだともいえます。() ・・・逆に言えば、手続を踏まえなければ裁判官の権威などないも同じだともいえるのです。 しかし、世人がそう見るかは別問題です。「裁判官が言ってるから」と言うことで一定の信頼をしてしまう人は少なくありません。 だから、外国ではどうか知りませんが、日本では手続外で裁判官がものを言うのを避ける傾向が大変強いのだ、と考えています。例えば、誤判が明らかになった際、担当裁判官に感想を求めるマスコミがいますが、裁判官としては当然それは回答できません。そう言う回答は別に手続を踏まえていないため、何の権威もない、どうあがいても「単なる一私人の感想」に過ぎないものに「裁判官の発言」として勝手に権威が付与されてしまう恐れがある訳です。 現実に、在日外国人の選挙権訴訟で、当時の裁判官がオフレコをしたために、判例が揺らぐという本末転倒な事態が発生しているのは、その手の問題に詳しい人には知ってのとおりです。(裁判官がオフレコしたから判例としての事実上の先例性には揺らぎはないと考えられるので、このオフレコで判例無価値と鬼の首を取ったように騒ぐ人たちには違和感がありまくるのですが…) そう言う訳で、裁判官の口は一般向けとしては果てしなく重くならなければいけません。他の法曹や司法修習生のような身内同士でオフレコで語ってよいことはあっても、権限に属してすらいない所で、自分でコントロールできない言葉を発して混乱させることは、厳に慎まなければいけないのです。 もちろん、それは裁判官に口を開いてもらう側にも弁えが求められることです。 かつて、日米安保密約を暴いた記者は、その取材方法が社会的相当性を逸脱しなければ違法性を阻却される場合があることは認められたにもかかわらず、その男女関係を利用した取材方法の悪辣さを指摘されて秘密の漏えいで有罪になっています。(最判昭和53・3・1。個人的感想としては、秘密の漏えいの保護法益と異なるので不相当であるから有罪と言うのには理屈に飛躍がある気もしないことはないのですが) まあ、間違ってましたとかと言うのは秘密漏えいの問題ではないのですが、さて、「返答できない」裁判官に返答を迫り、返答しないと言っては晒し者にするやり口は、自分勝手な正義感の満足には資するかもしれませんが、どれほどの役に立つのでしょうか?そんな事をしなければ喚起できない公論などいらない、と言うのは私の勝手なロマンチシズムでしょうか? 特に、裁判員にそういう要求をして、裁判員に評議の秘密を洩らさせたりしたらもう最悪です。裁判官に対して、このような取材をする人間が、裁判員だからそれをしないという保証がどこにありましょうか。何らかの原因で誤判が起こり、しかもその件で何らかの理由でその事件の裁判員の素性がばれ、そんな「正義の追及」に裁判員が耐えかねて勝手なことを言ったら、裁判員が処罰されてしまいます。 人の立場に立って考えられる人なら、自分が裁判員になること、その際に誤った判決を出すかもしれないこと、更にその際、裁判員としては秘密も漏らせないし個人的な所感だって簡単には漏らせないことに思い至るはずなのですが、そうではない人も少なくないようです。 そんなわけで、誤判などがあった時に、正義漢気取って裁判官を返答不能に追い込み、さらに返答しない(できない)裁判官に対して謝罪要求をしたり、軽蔑的な言葉を向けるような行為は、私には嫌悪感しか抱けないのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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