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碁法の谷の庵にて

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2016年03月03日
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 雑感と書いた通りものすごく雑ですのであらかじめ。

 認知症の患者が徘徊したところ電車にひかれて当該患者はなくなり、さらにそのご遺族が監督義務者として運航を阻害した賠償を求めて提訴された件で、最高裁でその請求が退けられました。

 判決文はこちらから。
 この事件については、高裁判決の段階でこんな記事を書きましたので、こちらも参照願います。


 
 今回最高裁において請求が退けられた、ということで少なからぬ介護などを行っているご家族などはほっとしているのではないかと思います。
 認知症などで責任無能力者「本人」に発生した責任については相続放棄をすれば逃れられますが、「監督義務者としての責任」は相続放棄では逃れられません。
 従って、監督義務者にあたるとされて責任が認められたならば自分の固有財産を放り出さなければならず、最悪の場合これまで築いてきた財産を放り出して破産一直線になるしかない。
 流石に破産免責が認められない、という事態にはまずならないとしても、長期にわたって築いてきた財産などを放出することにならざるを得ず人生が台無しとなり苛酷すぎる、責任を逃れるためにはそれこそ物理的に縛り付けておくしかないのか、という見方はごもっともであると思います。

 ただし、最高裁判決も「遺族に賠償責任がない」という結論こそ一致しているものの、その理由づけを見てみると
一、遺族は監督義務者に当たらない(多数意見)
二、監督義務者には当たるが、責任は果たしていた(少数意見)
という風に分かれています。
 そして、監督義務者にあたるかどうか、責任を果たしていたかどうか、いずれも前提事実について割と詳細に判決が認定をしていること、更には「衡平の見地」という抽象的な言葉まで用いて監督義務者にあたるか否かを認定していることも見逃せません。

 つまり、
「認知症の家族が他人に大きな被害を与え、その被害者が賠償請求をしてきた。自分に責任はあるのか?」
「重篤な認知症の患者にとんでもないことをされてしまった。賠償請求したいのだが本人には請求は無理そうだ。介護者に請求できるか?」
という相談が来たと仮定すると、回答は「裁判やってみないとわかりません」になる可能性が高いと思われ、今後の判例の蓄積を待たないと相場感覚はつかみづらいということになるとも思われるのです。

 そして、監督義務者にあたるとするならば、「監督を尽くしたことについては監督義務者側に主張立証責任があります」。
 加えて、民事裁判では、裁判官は「覚えてないと言っても、記憶喚起すれば思い出すはず。覚えてないというのは都合が悪いから黙っている証拠」という感覚を持つことが多いです(私はそういう考え方は大問題だと思うのですが、主張立証責任が相手方にある場合でさえ、そういう考え方をする裁判官は後を絶ちません。)。
 そうして、結局介護者が監督義務者に認定される可能性もあり得ないとはいいかねる訳ですし、そうしたら監督していたことはこちらで立証しなければならない以上この判決が出たから安心だ、という訳にはいきません。介護などを行っている方は、できれば毎日ノートなどをつけ、診断書なども徹底的に保存しておくことをお勧めしておきたい所です。



 被害者サイドはどうでしょうか。

 この件の鉄道会社サイドも、請求が通るか通らないかは別として、こんなに社会的に注目を集める大きな裁判になってしまうとは思わなかったというのが本当の所ではないか、という感もあります。
 
 そして、被害者サイドとしてみれば、なんでそうなるの?というところでもあります。
 今回の件の場合被害者が鉄道会社で管理責任的な視点もあるためか、鉄道会社に同情的な見解はそこまで強くなく、ご遺族に同情的な見解が優勢であるように思われますが、例えば認知症患者がもし自分が何をやっているのかもよくわからないままに凶器を持ち出して振り回し、誰かに一生後遺症ものの障害を与えて被害者が訴えてきてる案件であるなんてことになった場合にもこの規範は適用されることになります。
 仮にですが、もしそんな件だったらご遺族は同情されないどころか「なぜ施設に預けなかった!!」「きちんと見ていなかったから悪いんだ」などとバッシングの対象になった可能性だって捨てきれないのです(仮に今回の世論反応が最高裁判決を動かしたとするなら、「元になった事件の性質が今後の実務の趨勢まで決めてしまう」という事態さえ想定されえるのです)。

 責任無能力者本人に対しては賠償請求できない。
 例え無能力者がぴんぴんしていたころに何億も貯金をため込んでおり、賠償金なんてはした金だよ、というケースだったとしても請求できない。
 介護などをしていたご家族に対しても、請求できない。
 そうすると、泣き寝入りしろというのか、という価値判断はこれはこれでごもっともです。
 というより、「どの結論を取ったとしても誰かに泣き寝入りを強いざるを得ない件」が今回の件であると言えます。
 
 もちろん、里に下りてきたクマにでも襲われたように、誰にも過失がないのだから被害者の泣き寝入りやむなし、なんてことはごく当然にあり得る話ですが、監督義務者にあたるならば、「わずかでもミスがあったならばそれは監督義務者の保護が何の落ち度も義務もない被害者の保護に劣後するのは当たり前だ。例え0.1gしかなくたって反対側の皿が0gなら天秤は0.1gの皿が下に届く。それこそが衡平である」という価値判断があればこそ、ほんの僅かなミスをとらえて責任を認めるような対応を二審はとり、被害者の落ち度も過失相殺という形で代わりに厳しく取っていくことで全体のバランスをとる、という感覚になってきたのだろう、と思います。
 法解釈としての正当性を捨象して考えると、鉄道会社とご家族の責任負担として、鉄道会社の立場などを追及して5割の減額を認めた高裁判決はその意味では被害者救済とのバランスをとろうとした苦心の産物なんだろうな、というのは理解できるところです(地裁判決はその辺をまともに検討していない点で不適切すぎる判決であったという感覚でいます)。

 そして、介護してるから、配偶者だから、親族だからといって監督義務者にあたるとは限らないという最高裁判決の規範が広く使われる、あるいは僅かな過失を捉えて責任ありとはされないなら、「新しくバランスある解決策」が必要になってくるとも考えられます。


 今の枠組みの中で考えるならば、そもそも責任能力がない、という認定自体を旧来より厳しくする(本人に能力があれば監督義務も何もない。相続にあたってもご遺族は相続放棄できる)。
 本件のような無能力者が死亡した事案でご遺族が軒並み相続放棄している場合、特別縁故者(相続人がいない場合に一定の縁ある者に財産の一部または全部を相続させる)の規定を柔軟に使うことで、財産のある無能力者が死亡した場合にはその財産から補償を得させることができないか、などとも考えています(現行法の解釈として無理があるような気はしますが)。

 立法的に解決するならば、何らかの立法によって、不法行為とも異なる特殊な責任形態を考案した上、無能力者に無過失責任に近い形で負担させる
 あるいは、一定の補償制度を設けることで、国民全体による負担とする
 そういった制度全体に渡る新しいバランスが必要になってくると思います。
 
 もちろん、こういったバランス論の中には、「責任能力のない者による加害行為」以外にも、「お金のない加害者による加害行為」「天災被害」などが参加してくることも考えられてきます。
 「何で責任無能力者の被害者ばかり保護されるんだ?お金のない加害者の件はどうなるの」というツッコミに対して説得的な答えは残念ながら私は用意できておらず、このバランス論は不法行為からの被害者救済全体に波及する・・・というのもあり得ないとも言いかねます。

 被害者救済という視点からも、どういう被害を公的に補償し、どういう被害を監督義務者や本人負担とするのか、どういう被害については泣き寝入りしてもらうのか、しっかり考えていくべきでしょう。

 なお、一部の刑事事件で湧き上がるような「加害者が悪い!!」の大合唱は、ここでは何の役にも立たないことを付言しておきます。それで何とかなる件ならこの件がこんなに注目を集める裁判にはなっていないのですから…





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最終更新日  2016年03月03日 16時56分35秒
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