難しいことはわかりませ~~~ん<m(__)m>
日蓮仏法研究者さんからのコメントです。【法華経を持つ とは 法華経は文底では南無妙法蓮華経でありまして、「南無妙法蓮華経を持つ」と読みます。「南無妙法蓮華経を持つ」とは信心の事であり、信心を以ってして唱題する胸中の肉団に御本尊が有るという事になります。(2009年11月21日 09時27分49秒)】 コメントにお返事をしなければならないのですが・・・・・教学のない、一在家の浅はかなブログです。難しい事はわかりません。私は研究はしていなくて、実践者ですので、お応えできる事がありません。お役にたてるコメントではなくてすいません。<m(__)m> 参考資料★【11 学会では「本尊は我々の胸中の肉団にある」といいますが、本当でしょうか。 】 ★日蓮正宗公式HP ★日蓮大聖人様は『草木成仏口決』に、一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。(新編御書523・全集1339・編年体412) ★日蓮大聖人様は『立正観抄』に、当世の学者は血脈相承を習ひ失ふ故に之を知らず。相構へ相構へて秘すべく秘すべき法門なり。(新編御書770・全集530・編年体632) ★大白法・平成20年6月16日刊(第743号より転載)教学用語解説(125) 【十(じゅう) 四(し) 誹(ひ) 謗(ぼう) 】 十四誹謗とは、法華経『譬(ひ)喩(ゆ)品(ほん)第三』の偈(げ)文を妙楽大師が法華文句記に釈(しゃく)されたもので、正法に対する十四種の誹(そし)りをいいます。 釈(しゃく)尊(そん)は『譬喩品』において、舎(しゃ)利(り)弗(ほつ)に対し法華経は深い智慧(ちえ)のある者のために説くのであり、浅い智慧の者はこれを聞いても迷って理解することができないと説かれました。 そして、智慧第一の舎利弗でさえ、法華経をただ信ずることによって悟(さと)りを得た(以(い)信(しん)得(とく)入(にゅう))のであり、自分の智慧で法華経を悟るのではないと、信の大事を示されました。 十四誹謗の依(い)拠(きょ) そしてさらに、 「又舎利弗 きょう慢(まん)懈(け)怠(だい) 我見を計(け)する者には 此(こ)の経を説くこと莫(なか)れ凡(ぼん)夫(ぷ)の浅識(せんしき) 深く五欲に著(じゃく)せるは 聞くとも解(げ)すること能(あた)わじ 亦為(またため)に説くこと勿(なか)れ 若(も)し人信ぜずして 此の経を毀(き)謗(ほう)せば 則(すなわ)ち一切 世間の仏種を断ぜん 或(あるい)は復(また)ひん蹙(じゅく)して疑惑を懐(いだ)かん 汝(なんじ)当(まさ)に 此の人の罪報を説くを聴(き)くべし 若しは仏の在世 若しは滅(めつ)度(ど)の後に 其(そ)れ斯(かく)の如(ごと)き経(きょう)典(でん)を 誹(ひ)謗(ぼう)すること有らん経を読誦(どくじゅ)し 書持すること有らん者を見て 軽(きょう)賤(せん)憎(ぞう)嫉(しつ)して 而(しか)も結恨(けっこん)を懐かん 此の人の罪報を 汝今復聴け 其の人命(みょう)終(じゅう)して 阿(あ)鼻(び)獄(ごく)に入らん」(法華経一七五頁)と説かれ、慢心があり、怠(たい)惰(だ)で我見に執(しゅう)する者は、智慧が浅はかで欲望に満ちているため、法華経を説示しても理解できず、信じることもできず、誹謗してしまうこと等によって、かえって地獄に堕(お)ちてしまうのであり、慈悲(じひ)の上から、このような無智の者たちには法華経を説くべきではないと示されました。 妙楽大師は、この堕獄の悪因を十四種の謗法として法華文句記に釈されたのです。 末法の修行における十四誹謗 日蓮大聖人は『松野殿御返事』の中に、 「有る人此を分かって云(い)はく、先に悪因を列(つら)ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一にきょう慢(まん)・二に懈(け)怠(だい)・三に計我(けが)・四に浅識(せんしき)・五に著(じゃく)欲(よく)・六に不解(ふげ)・七に不信・八に顰(ひん)蹙(じゅく)・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽(きょう)善(ぜん)・十二に憎善(ぞうぜん)・十三に嫉善(しつぜん)・十四に恨善(こんぜん)なり」(御書一〇四六頁)と、妙楽大師の釈を引いて十四誹謗の名目を挙(あ)げられ、私たち末法の衆生が法華経を修行するに当たって誡(いまし)めるべき謗法を示されました。 大聖人は、松野殿から、大聖人の唱える題目と凡夫が唱える題目の功(く)徳(どく)の勝(しょう)劣(れつ)を問われた答えとして、「其の差別なきなり」と、その功徳に勝劣はないと述べられた後、しかし、「此の経(法華経)の心に背(そむ)」いて唱えるならば、そこに差別はあると示されました。 そして、法華経の心に背く、具体的な正法誹謗の姿として、妙楽の釈を引用し、訓(くん)誡(かい)を示されたのです。 十四誹謗を略説すると、一にきょう慢とは、正法に対して驕(おご)りあなどること。二に懈怠とは、仏道修行を怠(おこた)ること。三に計我とは、正法を自己の考えで推(お)し量(はか)り我見に執着すること。四に浅識とは、正法を自己の浅い知識で判断し、より深く求めないこと。五に著欲とは、欲望に執着して正法を求めないこと。六に不解とは、正法を理解しようとしないこと。七に不信とは正法を信じないこと。八に顰蹙とは正法に対して顔をしかめ非難すること。九に疑惑とは、正法を疑い惑(まど)うこと。十に誹謗とは、正法を誹ること。十一に軽善とは、正法を信受する者を軽蔑(けいべつ)すること。十二に憎善とは、正法を信受する者を憎(にく)むこと。十三に嫉善とは、正法を信受する者を嫉(ねた)むこと。十四に恨善とは、正法を信受する者を恨(うら)むことをいいます。 この十四誹謗を犯した者の罪報は、『譬喩品』に、 「常に地獄に処(しょ)すること 園観(おんかん)に遊ぶが如(ごと)く 余の悪道に在(あ)ること 己(おの)が舎宅(しゃたく)の如(ごと)く」(法華経一八〇頁)とあるように、常に地獄等の悪道の罪報を受けることになり、仮に人間界に生命を受けたとしても、物質的困(こん)窮(きゅう)、病気などの報いを受け、永く不幸を招(まね)くことが説かれています。 また、大聖人は先の『松野殿御返事』に、 「此の十四誹謗は在家出家に亘(わた)るべし、恐るべし恐るべし」(御書一〇四六頁)と、十四誹謗は僧俗共に通じる謗法であると厳(きび)しく誡められ、さらに過去の不(ふ)軽(きょう)菩(ぼ)薩(さつ)の礼(らい)拝(はい)行(ぎょう)を挙げられて、法華経(三大秘法の御本尊)を持(たも)つ者をお互いに謗(そし)ってはいけない。その理由は、法華経(御本尊)を持つ者は皆、本来、仏である。その仏を謗れば罪を得る。このように心得て唱える題目の功徳は仏の唱える題目と等しいと御指南されたのです。 僧侶と信徒、またはそれぞれの間で、ややもするとお互いの悪口を言ったり、軽蔑したり、時には恨んだりしてしまうことがあるかもしれません。もし、十四誹謗の心があるならば、御本尊の功徳を自ら破るばかりか、この悪因によって、破(は)和(わ)合(ごう)僧(そう)が生じ、ひいては広(こう)宣(せん)流(る)布(ふ)の妨(さまた)げともなってしまうのです。 特に『念仏無間地獄抄』に、 「譬喩品十四誹謗も不信を以て体と為せり」(同 三九頁)とあるように、不信謗法こそ十四誹謗の根本です。即(すなわ)ち、御本尊を心底から信ずるならば、自らの十四誹謗を打ち破り、他に紛動(ふんどう)されない成仏の境界を開くことができます。 ま と め 私たちは本門戒壇の大御本尊が、唯一絶対の正法であると深く信じ、大聖人の弟子檀那としてお互いを心から尊敬し合い、誰もが御本尊のもとに、成仏を遂げていく尊い命を持った同志であることを確信し、常に十四誹謗を誡めて正直に信心に励み、広宣流布に向かって異体同心していくことが肝要なのです。