のんびりしすぎで、ど~もすいませ~ん。
あねささ~んコメント、ありがとうございましたぁ~『金か・・』って、失礼なやつでしょ。『治療費が頂きたいわけではありません、非を認めてもらいたい』と言いましたが、『悪いことなどしてない』と言われて、決裂でしたね。 こんな姿のどこに日蓮大聖人様の【現世安穏】の姿が出てると言えるんでしょうね。 振り返ると、悔しいような、切ないような、何とも言えない気分になりますね。後ろを見てはいけないし、前向きでないといけないんですけれど・・・・ ふっと思い出したりするときってありますものね。 >次女、長男が不登校になってしまった事を思い出しました。 あねささんには3人のお子さんがいらしたんですかぁ~勝手なイメージで、すご~く御若い(20代の半ば)と思ってましたので、びっくり! 正法に帰依されたことは、へその緒でつながっていた子どもに正しく回向されない訳はありませんから、どこにいようと御守護は働いてますよ。 >他宗の人から自分の先祖のお墓まいりはしてもいいのか?と聞かれました。 ウチは念仏で、敷地には寺はなく、先祖代々の墓には念仏が彫られているのですが、正宗ではどんな考え、見方、ですか? 第9世日有上人様が【化儀抄】と言うのを残してくださっていまして、その一つ 【086】一、他宗他門等の人死せば知人ならば訪(とぶ)ろうべし、但し他宗他門の本尊・神座に向って題目を唱へ経を読まず、死去の亡者に向って之(こ)れを読むべし。惣(そう)じて法界の衆生の死去の由(よし)を聞き受けては之れを訪ろうべし云云。 [日達上人略解] 他宗の人が死亡した時、もしその人が知人であるならば弔うべきであります。但し他宗謗法の本尊や位牌に向って、読経唱題してはいけません、直接に死んだ人に向って読経唱題するのであります。惣じて世の中の人々が死んだと聞いたならば一往は弔うべきであるとの慈悲の心構えは持つべきであります。 墓石に彫られてる念仏を本尊や位牌ととるかどうかですね。これは、どうなんだろ~ 墓石は墓石だと思うけど~ ここだけは、ご住職様にお聞きくださいね。 でも、基本は、慈悲です。 弔う心構えは持たないといけないんですよね。 顕正会では、葬儀に出ることが謗法だと禁止してましたよね。 私も夫の母の学会葬に参列しません!と言って、大変なことになりました。夫がすべての文句を聞いてくれて、私には直接はなかったんですけれど・・・・ お姑さんの葬儀に出ないなんて・・・やっぱり、人としてどうかですよねぇ~ あと、顕正会では考えられないようなことがいくつもあるんですが、私の印象に残ってるものを少し載せておきますね。 【026】一、絵師(えし)、仏師(ぶつし)、或(あるい)は鍛冶(かじ)、番匠(ばんしょう)等の他宗なるをつかう事は、御堂(みどう)、坊(ぼう)等にも苦しからず、作料(さりょう)を沙汰(さた)するが故(ゆえ)なり。 [日達上人略解] 番匠とは大工のこと。本堂や庫裡(くり)、僧の住居等を建立する時に用する絵師、仏師、鍛冶屋、大工、左官等は、必ずしも信者でなくともよろしい。それは相当な賃金を支払って使用するのだから、謗施(ぼうせ)ではありません。また、これと逆に、謗法の所の仕事をしても、相当の賃金を受けて仕事をするならば、謗法になりません。 【028】一、経(きょう)を持(たも)つ人の事、今日持って明日退(たい)するとも、無二の志にて持つ時は然(しか)る可(べ)し、何(いず)れの年、何れの月とも時節(じせつ)を定めて持つ事、爾(しか)るべからず云云。 [日達上人略解] 本宗の信心をする人が、今日入信し、明日退転したとしても、その間、真に一心の信心であったならば、その日の信心は結構であり、何かの理由で退転したのだから問題ではないが、しかし、始めから、何カ年間とか、何カ月間とかと、あらかじめ年限を区切って、信心するがごときは、たとい、それが永くて、一代法華であっても、真の信心ということにならないからだめであり、また真の利益も得られないのであります。 【047】一、学問修行の時、念頃(ねんごろ)に一字一句をも習い候う人、死去なんどの後は、経をも読み仏をも立てて霊供なんどをも備えて、名をも付け訪(とむら)わん事、子細に能(あた)わず。其の謗法の執情(しゅうじょう)をこそ同ぜざれ。死去の後、執情に同せずして訪わん事、子細なきか。縦(たと)い存生たりと云うとも其の謗法の執情に同せずして祈祷をもなさん事子細なきか。 [日達上人略解] 自分が修業中に、たとい一字一句でも教えて呉れた人が死んだ時は、戒名を付け、後々までも塔婆を立てて、御霊膳なども供え、読経唱題して弔うことは、報恩のため結構なことでもあリます。ただし、その死者が、謗法の執情である人であったら、その謗法に同じてはいけません。 その人が死んだのち、謗法に同ぜずして、正法をもって弔って上げることは差支えありません。また、その人がまだ生きておって、現世安穏の祈念を願われたならば、謗法を認めず、単純に正法をもって祈念してあげることは差支えありません。皆、昔の恩に酬(むくい)るためであります。 【075】一、他宗の神社に参詣し、一礼もなし、散供(さんぐ)をも参らする時は、謗法の人の勧請(かんじょう)に同ずるが故に謗法の人なり、就中(なかんずく)正直の頭(こうべ)を栖(すみか)と思(おぼ)し召(め)さん垂迹(すいじゃく)の、謗法の人の勧請の所には垂迹有るべからず、還って諸神の本意に背くべきなり云云。但し見物遊山(ものみゆさん)なんどには神社へ参せん事禁ずべからず。誠に信を取らば謗法の人に与同する失あり云云。 [日達上人略解] 他宗の神社とは、このころは寺と神社が一所に共立しておって、主として寺が神社を守護経営しておったが故に、このように申されたのであります。 勧請とは、神を分霊して祀ること。他宗謗法の神社に参詣して拝礼をなし、賽銭(散供とは当時は銭が僅少であったので米を散じて供えたので散供という)を献ずる時は、謗法の人の祀る行事に参与することになるから、謗法の人となります。 まして神は正直の頭を栖とすると八幡の御神託にあるごとく、正しき垂迹の神は謗法の人の祀る神社に栖まれることはありません。謗法は神々の本意に背くから、天上に還られているのであります。但し、見物遊覧のため神社を見て廻っても、それを禁止する必要はありません。 (注・・・日興上人は、遺戒置文に「一見と称して謗法を致せる悪鬼乱入の寺社に詣ずべけんや」と厳重に謗法の寺や、神社を見物することすら止められている。これは未だ宗派の草創時代であったから、他との異を明らかに一線をもって制したのであり、日有上人の時は、すでに一宗が確立したから、見物ぐらいで信徒の心がぐらつかなくなっているからであります。) しかし信心の心で詣って礼拝しては、謗法の人に同ずることになって与同罪をこうむるのであります。 まさに、現世の世法の中に脈々と息づいている正法の余裕ですよね。