これからもよ・ろ・し・く・ね~~
愛読書より・・・・この記事を読んで、人の功績を凄く評価していることに新鮮な驚きでした。ま~顕正会なら、このようなことは言わないからな~ 妙教11月号より仏教入門【粉骨砕身】自分の出せる力の限り努力することを「粉骨砕身」と表現しますが、具体的には、身を粉にして働き骨が砕かれるような苦労をすることを譬えて言います。よく政治家が選挙の時の演説で「自分が当選したときには、国のため皆様のために"粉骨砕身"、力の及ぶ限り尽くして参ります」等と聞いたりします。同じような言葉として、こつこつと努力を重ね苦労することを「粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)」。非常に苦しみ辛い状況や困難な場面に遭遇し、悩むくらい大変な苦労をする「艱難辛苦(かんなんしんく)」等があります。ことわざの「艱難汝を玉にす」は、人は苦労して立派になると言うことから、座右の銘として好む人がいます。 本来「粉骨砕身」とは、仏道修行を修めるにあたって様々な苦労があるけれども、自分のことはどのようになろうとも顧みず、心身共に惜しみなく仏様に尽くすことを指して言われた言葉です。釈尊は、十九出家・三十成道・八十入涅槃の御生涯と言われます。仏道を極めるためには、難行苦行をして辛労に堪え忍ぶことはとても必要なことだったのです。釈尊の出家の動機は、生老病死の世相を目の当たりにし、世の中の苦しみと無常を感じられたことといわれ、自ら髪をそり落として出家を決意したと伝えられています。(四門出遊・・しもんしゅつゆう)出家した釈尊は、悟りを得るために断食などの難行苦行に徹しました。その姿は人間が生きていくことの最低限度の生活で、極限状態まで自分を追い込みました。次第に釈尊の姿は骨と皮だけでやせ衰えていきました。しかし、釈尊は、どのように難行苦行に徹しても、全く悟りを得られないことを知りました。身体が衰弱するのみで心も荒んでいきます。ついに釈尊は難行苦行をやめる決心をします。沐浴して身を清め、牧女から乳粥を受け体力を付けていきました。体力を回復した釈尊は、四十九日間の沈思黙考を経て、菩提樹下において成道を果たし、この後五十年間にわたって様々な経教を説かれていくこととなります。 現代の世の中においても、艱難辛苦は付きものでありましょう。人が人として立派に生き抜いていくためには、乗り越えていかなければならない悩みや苦しみが起きます。この悩み苦しみから逃げていたのでは「一人前」とはなりません。一人前の人となり大成するためには「玉磨かざれば光なし」「玉磨かざれば器とならず」と言われる如く、どのような素晴らしい素質を持っていても苦労して勉強し、修養を積まなければ光り輝く人生を送ることはできないのであります。これとは反対のことわざに「難行苦行虚仮(こけ)の行」とあります。これは、様々な苦しい思いをし、やせ我慢して身を責め修行することは愚かでありつまらないことであるいう意味です。兎角世の中は正直者がバカを見がちなのだから、適当に過ごしていればよいという考えで、これでは自分の境涯の向上にはなりません。逆に「難行苦行は道のため」とあります。確かな目的があり実体の伴った試練の道を歩まなければならない時もあります。歩みを進めてどんなことでも切り開いていき、意義ある人生を送り境界の向上となるのであれば、我が人生に悔い無しと言うことになりましょう。 幕末・明治の政治家で「日本近代郵便の父」とよばれる前島密(ひそか)は、国字改良論者としても有名ですが、日本で初めて「葉書・郵便・切手」の名称を定めました。前島は、現在の新潟県上越市で誕生します。小さい頃は非常に苦労をして家の手伝いや医者を目指して勉学に励みます。十八歳の頃、黒船が来航し日本の国防力の非力を痛感し、二十歳の頃には英語を習い、世界に目を開いて行きます。三十一歳になった慶応二年(1866)前島家の養子となります。この年に将軍徳川慶喜に対し「漢字御廃止之議」の建白書を提出しています。更には大久保利通が提唱した「大阪遷都」に対して「東京遷都」を唱え、結局前島の建言が通り天皇が東京に移られます。明治四年(1871)には郵便制度の基礎を確立します。前島はこの郵便以外でも海運事業、電信・電話の開始、鉄道敷設、教育専門学校の創設、保険業など、その功績は八十四歳で亡くなるまで多岐にわたります。「縁の下の力持ちになることを厭うな。人のためによかれと願う心を常に持てよ」という信条通り、前島の提唱は近代日本史の文化が進んでいく上で、様々な抵抗や苦心をしながらも、自分の信念を貫き、陰ながらよりよい日本を創るための方法を提案し続けました。この「葉書」という言葉は、もともと仏教から来ていると言われます。古代インドにおいて、ある木の葉に傷を付けて文字を書くと字がそのまま残るそうです。このことから、この木の葉を利用して経文を書き写し紐で綴じて経典にしました。前島は郵便物に「はがき」と名付けました。元々仏教の言葉と知っていたかは解りませんが、生誕地上越には、同じように木の葉で文章の交換を行う習慣のあることが知られています。これも不思議な因縁でしょう。 更に、江戸の幕末から明治に活躍した政治家で、勝海舟という人物がいます。西郷隆盛と会談し江戸城を無血開城に導いた人物です。歯に衣着せぬ物言いで周りの人達を驚かせますが、海舟の人なりを現す言葉に「一旦軍名が下れば粉骨砕身するものである」とあります。「自分のことは自分で決めろ」「なるようにしかならない」「敵は多ければ多いほど面白い」等の言葉も残されていますが、西郷隆盛や坂本龍馬などからは高い評価を得ていました。逆に福沢諭吉などからは無血開城に対して一定の評価はありつつも「幕臣として節操がない」と非難されます。しかし海舟は「どこに行こうが出ようが自分の勝手であって、それを褒めてくれようとも批判しようとも、それは他人が勝手にすることであって、自分には関係ないこと」と言い放っています。勝海舟の人物評には好悪ともどもあったでしょうが、明治政府の中で、新たな日本が作られていく激動の中、夫々の立場の人が様々な考えを持って行動していた時代です。人間的に好き嫌いはあったのでしょうが、日本の新しい夜明けに向かって難関があり、苦しい選択を強いられた時でした。先達の作り上げてきた土台があったからこそ、今の日本があります。人がこの世に生まれてくることは偶然ではありません。意味があって生まれてきます。勝海舟は「自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねぇよ」と言い残しています。今年も残りわずかです。文字通り「粉骨砕身」して唱題に励み折伏をやり切っていくことが大事なことです。魔の働きがあり、苦しい時や難しい局面に立たされることもあるでしょうが、前進に前進を重ねて立ち止まらないことが大切です。