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雀坊の納戸~文鳥動向の備忘録~

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2010年10月25日
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 昔のテレビドラマではやったフレーズに「同情するなら、金をくれ!」というのがありました。当然一度も見ていないので、ドラマの内容は知りませんが、ずいぶん妙なことを言わせるものだと思っていました。
 貧しい人や困っている人に対しては、その人の身が立つように世話をするのが親切でしょう。しかし、それは時間的・経済的に不可能であったり、そうする義理を感じない限り実行しないのが普通です。当然ながら、相手が赤の他人なら、親身に世話を焼く方が妙です。それでも金銭的な余裕がある人なら、多少のお金くらいは施すかもしれず、もし金銭的な余裕も無ければ、せいぜい同情だけはするのではないでしょうか。そしてそれは、何も感じず無視するよりは、少しはマシ(=人間的)と言うものです。
 つまり、金がない、もしくは金をやる義理を感じないので、同情だけしている人に対して、「金をくれ!」とは、何とご無体なことかというわけです。

 さて、また小学校6年生の子供が、イジメられて自殺してしまいました。一方で、罪のない2人の人間を惨殺した中年男は、自裁もしなければ従容として死刑に服そうともしないようです。身勝手に人を殺し、今度は身勝手な反省の日々を送りたいなどと、大人のくせに、どこまで身勝手我ままなのかあきれ果ててしまいます。反省などあくまでも自分のためにするものです。ここで彼に必要なのは、身勝手で人を殺した明らかな重罪について、遺族を含めた他人にわかるように、自らがどのような罰を自らに科すのかを考えることのみのはずです。この際、不適切でも端的に言ってしまうなら、「死ねと言われたら死ね」「言われるのがわかっているなら、言いたくない人に言わせる前に死ね」です。
 死ぬべき中年男が死なず、死ぬ必要がない少女が死んでしまう、実に嫌なニュースです。そして「イジメ」があったかとか、それを学校が認識していたかとか、まったくくだらない話を、こう言っては何ですが不見識な大人たちが、また繰り返しているのを見ると、本当にウンザリしてしまいます。数年前に書いたことですが↓、イジメに客観的基準などあり得ず、本人がイジメられたと思ったら、それはイジメ以外の何ものでもないのです。イジメがあったかどうかなど、問題にする方がよほどおかしいのです。
http://plaza.rakuten.co.jp/jackbo/diary/200709300000/
 とにかく今の子供たちは、情報化でいろいろ自殺の方法を知ってしまい、なおかつ「生まれ変わる」とか「来世」だとか、『いかれた人たち』がそれが絶対的な真実のように、テレビでペラペラしゃべるのを耳にしていますから、簡単に自殺してしまうのでしょう。「死んだって、来世があるわ~」と言うわけです。そういった社会環境を許している我々大人たちは、このような事態が起こる前から改めるべきで、事後に同情だけしていても仕方がないのですが、やはり直接関わりのない一市民は、同情するしかありません。
 とりあえず、イジメと感じて悩んだら、両親や担任もしくは専門的な相談窓口に申し出るように、子供たちに徹底的に教え込み、そして親なら、現世、今現在ただ今、自分の子供として育ってくれていることの喜びをわかりやすく本人に伝えるか、それが照れくさければ、学校など嫌なら転校するなり辞めて自宅学習するように、はっきり言い聞かせておくべきだとは思っています。まじめな親御さんは学校にはしっかり行くように言ってしまうものですが、義務教育など出席日数が少なくても卒業できます。自宅学習で課題を提出させるなど面倒この上ないので、緊張感のない学校ほどそれを勧めないでしょうが、そういった当事者意識の欠如した学校など頼らずに、まずは親の権限で出席を止めて欲しいです。「命捨てるな、学校捨てろ」(さだまさし氏のお言葉でしたか?)です。
 ついでにもうひとつ、前世だ来世を何だのに対し、道元禅師の言葉を紹介しましょう。いわく「薪灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人の死ぬるのちさらに生とならず」。よろしいですか?燃えてしまって灰になったら元の形には戻りませんね、人も死んでしまえば同じ人生を送れませんよ。前世があったとして、今のあなたはその時の『自分』をはっきり覚えていて、それと今が同じですか?来世があったとしても、あなたの今の意識は持ち越せませんから、それは別の一生ではないでしょうか?千年万年生きるわけではないですから、自殺など先延ばしで構わないではありませんか。死ぬべき人も死なない世の中で、何も先駆けて死んでしまうことはないです。

 さてさて、小学生のイジメと聞いて、先日小学校の頃の担任を思い出していた私は、ある知人の顔を思い浮かべたのでした。E塚さんという女の子で、小学校3、4年生で同じクラスでした。その後中学校も同じだったもののクラスは別で、ただ、小学校の高学年から中学生の3年間にわたって同じ町塾に通ってはいました。したがって、友達と言えば友達ですが、じっくり話した記憶がないので、知人といった方が良いかもしれません。
 この人は勉強が良くできて、クラス委員などを積極的に行うとても「良い子」でした。塾では漢字コンクールと言うのがあり、3位くらいまで盾だかメダルだかをくれるのですが、私はかないませんでしたね。たいてい彼女が1位だったでしょう。
 それで、私の解釈では、まだ塾に行く前の小学校4年生の時、先日暗殺計画があったと書いた産休補助の婆さんが担任になったのが、彼女にとって後々の不幸に繋がってきます。この婆さん、クラスメートのほぼ全員から嫌われていましたが、「良い子」であるところのE塚さんはそういった先生にも従順なので、大変なお気に入りとなっており、結果、クラスメートの圧倒的多数から、陰で「いい子ぶりっ子」と嫌われるようになってしまいました。
 小学校4年生当時の私はと言えば、「ぶりっ子」ではなく本当に「良い子」なのかも知れず、とりあえず害はないので毛嫌いするのも変だといった判断をしていたように思います(嫌な奴にかわいがられているのは事実なので、好意はもてない)。と言うのも、先生などまったく見ていない場所でも、E塚さんが先生に言いつけられた以上に掃除をしているのに気づいていたので、先生の前で良い子のふりをしているだけではないと考えていたのです(私も真面目な子でしたが、言われただけのことしかする気はない)。今思えば、「偽善も善のうち」と見てとったのでしょうね。当時のE塚さんが、子供ながらに「良い子」の自分に自己満足していたにせよ、一所懸命掃除するなら、それは褒められるべきでしょう。良い事をするのに、動機など何でも良いです。
 強烈な個性の担任に対しても、彼女としてはいつもどおりに先生に従順だっただけではないかと私は思っていたわけですが、この1年未満でE塚さん=「ぶりっ子」というレッテルがべったりと貼られ、その後も、E塚さんと同じクラスの人たちの陰口を、たびたび耳にすることになります。「また、クラス委員に立候補したんだよ、あの人」みたいなものですね。また、例えば合唱大会のような場では、一所懸命クラスメートを指揮しながら一所懸命唄っているE塚さんを見かけ、相変わらず「良い子」を続けていて、それが周囲に嫌悪されているのに気づかないのだろうな、と他人事に思っていました。
 やはりE塚さんは成績も良かったし私立の中学校に行くべきでしたね。小学校の同級生がたくさんいる小学校の隣にある公立中学校でも、当然ながら「良い子」を続けてしまったようです。それでも、普通ならさほど問題はなかったはずですが、我が母校、3年次に荒れに荒れまして、新聞の表現によれば「番長グループ」が職員室に乱入し副校長を殴る、などといった事態まで起き、もはや学校側の統制などまるで利かない無法状態となってしまったのでした。東大出の担任などは、バケツで水を掛けられるは、顔にマジックで落書きされるは、もうどうしようもない状態になっていたのです(あの担任にもそうされるだけの理由があったと思うのですが・・・【2年次まで竹刀片手に威張っていたのですよこの人は】。なお、暴れていた連中の大半は私の小学生時の友だちではありますが、何となく過ぎている人生の分かれ道で私は真面目な子になっていました。どれほどかと言えば、卒業年次には1組の出席番号1番にさせられるような子です。行事で散々いろいろ練習させらるので、1組1番はおとなしくて真面目な子が据えられるポジションなのです)。
 早々に何人もが少年院だか家裁審判だかで留守になりましたが、それでも授業中に何故かバールを持ってうろつく奴がいたり、後ろでヌンチャクを振り回していたり、シンナーの臭いを漂わせわめいていたり、思い出せば冗談のようですが、それが現実だったわけです。はっきり言って、それを許してしまった教職員たちがすべて悪いのですが(個人個人としては良い先生もいたのですが、あの状態になっては教職員一体で取り組まねばどうにもならず、校長が無能だったようで、その団結力がなかったように思います)、とにかく哀れなのは、先生と言う後ろ盾を失った「良い子」です。今まで「ぶりっ子」などと陰口で言われていたことが、一気に表面化し、露骨なイジメを受けるようになったようでした。
 ようでした、と言うのは、やはり私はクラスが違うので、具体的な内容はわからなかったのです。ただ、教室移動の際に音楽室の前を通ると、なぜかE塚さんだけが後ろで正座しているので、異常事態であることはわかりました。その時の音楽の教師は、また癖のある馬鹿ジジイでしたが(この人も2年次まで生徒に肩をもませて威張っていましたね。そのようなことをするのは気色が悪いので、真面目なのに私はしませんでしたが・・・。このジジイが卒業式の時に指揮棒振って泣いていたのには、心底白けました)、合唱か何かやっていたE塚さんにとっては、本来最大の後ろ盾のはずでしたから、恐ろしく象徴的なシーンに思えたのです。また、それが真面目な彼女なりの身の処し方だったのかもしれませんが、制服のブレザーの袖口を折って着るようになり、塾での成績の方は急降下してしまったのです。
 具体的な内容は不明で、他人に尋ねる気もありませんでしたが、当時も同情はしていましたね。尋ねなかった理由は、意識的には無かったと思いますが、おそらく他人のことなど考えられる精神的な状況になかったのが大きかったでしょう(私は私で修学旅行の際に教師部屋を占拠した連中【ほぼみな知り合い】に呼び出しを受けて、身の危険を大いに感じるようなことがありました。あの時、間にたつ子【これも知り合いでお寺の息子】がいなければ、かなり痛い目にあっていたかもしれません・・・腕を組んでいただけですよ、まったく無茶苦茶だったのです)。同情、むしろ腹立たしく感じていたかもしれません。嫌らしいではないですか、学校に統治能力が失われた隙に、今までの鬱憤を晴らすとは。それも、くだらないただの妬みです。それほどうらやましいと思っていたのなら、自分も教師に尻尾振っていれば良かっただけで、意識的なのか無意識なのか知りませんが、そうしていた人を責めて良いはずがないです。

 このように、同情だけしか出来ないこともあり、しないよりした方が少しはマシだと信じています。確かに、当時のE塚さんの助けには何もなっていません。しかし、その原因や状況に対する推測が正しいか正しくないかも別にして、何か困った様子の人に対して、同情、難しく言うなら惻隠の情を抱く他人は、当時の私のように結構存在するものではないでしょうか。
 個人的には、さらに一歩進んで、口先だけでも少しは助けになれるように心掛けたいものではありますが、実際問題として難しいことがあるのも現実です。そこで逆に自分が苦境に立った時に、同情してくれる人もたぶん少しはいるだろうと思えれば、わずかでも気は楽になると考えるようにしています。したがって、私も、せめて同情だけは致します。






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Last updated  2010年10月26日 16時21分11秒
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