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テーマ:一人旅(国内)(644)
カテゴリ:北東への旅
足尾銅山。
江戸時代、幕府の直轄領で、銅を生産。 しかし幕末には、廃坑寸前だったようです。 それを、明治期古河市兵衛が、再開発に乗り出し 苦労の末、鉱脈を発見し、再び盛り上がったようです。 日本の銅生産の40%を占めたそうです。 ここでも、渋沢栄一がかんでいるようです^^ 私が栄一に聞きたいことは、^^ 書きませんが、わかりますよね?^^ さて、私の中で、足尾銅山=鉱毒事件:最初の公害問題=田中正造だったんですが^^ ここの資料館は、古河鉱業の資料館で、当然のように 田中正造のことは、申し訳程度に。。。 田中正造記念館は、約?40キロ南の舘林市にあると。。。^^(今回、行かず。。。) はあ~~^^ まあ、何も調べずに行き当たりばったりの旅ですから こういうことも珍しくない^^ 若いころの田中正造の写真もありました。 衆議院議員の田中正造が視察に訪れたときの写真です。 中央の、長いマフラーをした恰幅の良い人が 田中正造だと。 田中正造は、民権運動家で、第1回総選挙(1890年:金持ちだけが投票できる制限選挙で 有権者は、約1.1%。それでも最初の選挙。政府側の凄まじい選挙妨害の中、民党側が勝利) で、立憲改進党(大隈重信:北海道開拓使官有物払い下げ事件で政府を去る)に所属し 当選。第2回帝国議会には、鉱毒事件について政府の責任を追及しています。 その数年後、洪水が起こり、鉱毒が地域に広がると 田中正造はますます村人の窮状を救おうと立ち上がり 何度も、操業停止を訴えますが、効果なく 1901年正造は議員を辞し、天皇に直訴。 其の後も生涯を谷中村救済のために活動、73歳で病死。 古河の足尾銅山資料館の方は、親切で^^ 客も居なく、珍しかったのか? わざわざ、私ひとりのために、汽車を動かし、乗せてくれました^^ おまけに2周も^^ 当時、人々の足になっていた汽車。 よく脱線し、その時は、客がみんなで線路に乗せたとか。 これが乗せていただいた汽車。 う~ん、おじいさん一人を乗せて^^ 雨の降る中、2周も。 ありがとうございます。 この日は、朝にÐ51も見たし 汽車に出会う1日でした^^ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
May 23, 2021 05:10:05 AM
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