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カテゴリ:クリシュナムルティ(引用)
(自己の変容:p13:クリシュナムルティ:めるくまーる)より引用
『事実に対しては、顔をそむけるか直面するかしかありません。そして、言葉やシンボルは事実から顔をそむけさせるものなのです。』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
事実から顔をそむけという事は、空想の中に生きているのと同じではありませんか?それは、おもしろくない人生だと思うのですが・・・。事実は事実で認めて生きていかなければ満足できないと思います。まして、言葉は相手がいてこそ重要なので、他人に対し失礼だと・・・。クリシュナムルティの文章はこの後も続いていませんか?この文章のままでは、自分の言葉に責任は持てないともとれます。
前にあなたは、『「人生という物語」に持ちこみつつ生きるということかもしれない。』と書かれていましたよね。あなた、自身の考えを聞きたいです。 (2006年07月28日 19時24分05秒)
しじまのれいめいさんへ。
クリシュナムルティは、「今私の本を読んでいるあなたが、もし私が伝えようとしている事実を全身全霊で理解しようとせず、書かれている言葉を頭だけで読んでいるなら、あなたは事実に直面することから逃げ、事実から顔をそむけていることになります」と言っているのだと思います。 『事実に対しては、顔をそむけるか直面するかしかありません。そして、言葉やシンボルは事実から顔をそむけさせるものなのです。』というのは文章ですから、言葉の組み合わせにすぎませんが、この文章を使って、クリシュナムルティが伝えようとしている内容は、あからさまな「事実」です。 「覚醒」に直結する「事実」です。 (2006年07月29日 22時02分23秒)
せきらんうんさんへ。
「事実から顔をそむけるという事は、空想の中に生きているのと同じではありませんか?」 そう思います。クリシュナムルティも、まさにこの文章で、そう言っていると思います。 ・・・ 「それは、おもしろくない人生だと思うのですが・・・。事実は事実で認めて生きていかなければ満足できないと思います。」 もちろんそうです。僕もそう思うので、だからこそ、なんとか、たとえ少しずつであっても、「事実」に直面していこうと試みているのです。 ・・・ 「クリシュナムルティの文章はこの後も続いていませんか?」 この文章の前後を引用します。 これは、質問者の、「心は過去から自由になれるでしょうか?」という質問への、クリシュナムルティの返答です。 『誰がその質問をしていますか。数多くの葛藤、記憶、経験の集積物、それらが尋ねているのでしょうか。それとも、この質問は「心は過去である」という事実の知覚によって、自発的に生まれたものでしょうか。その質問をしているのが観察者(私)なら、それは自らの事実から逃げようとするでしょう。なぜなら、それは「私は長いあいだ、苦しみや悩みや悲しみのなかで生きてきたので、この絶え間ない苦闘を乗り越えたい」と言うからです。それがそういう動機から質問をすれば、答はある逃げ場所を与えるものになります。 事実に対しては、顔をそむけるか直面するかしかありません。そして、言葉やシンボルは事実から顔をそむけさせるものなのです。 実際のところ、この質問をすること自体が、すでに逃避の行為ではないでしょうか。この質問が逃避の行為かどうかに気づきましょう。もしそうなら、それは騒音です。そうではなく、観察者(私)がいなければ、静寂、「一切の過去の完全な不在」があります。』 (つづきあります) (2006年07月29日 22時05分41秒)
(つづきです) 「前にあなたは、『「人生という物語」に持ちこみつつ生きるということかもしれない。』と書かれていましたよね。あなた自身の考えを聞きたいです。」 前に僕は、『「瞑想状態で暮らす」というのは、いったん瞑想状態に入って、それによってもたらされる脳の静まりを「人生という物語」に持ちこみつつ生きるということかもしれない。』と書きました。 僕自身の考えとしては、クリシュナムルティが(たとえばこの文章で)伝えようとしている「事実」を知覚することが、『瞑想状態に入って、それによってもたらされる脳の静まりを「人生という物語」に持ちこみつつ生きる』のを、自然に行える(そうするしかないと腑に落ちる)ようにしてくれると、思っています。 (2006年07月29日 22時11分22秒)
gaMeさんへ
分かりやすい説明をしていただき、ありがとうございました。本当に同感です。 gaMeさんは本からの知識だけでここまで理解されているのですか?身近に理解を深める人がいるのでしょうか?自分は本だけでは行動に移す事が難しく、頭の中で自分なりにどんどん膨らむのですが、失敗ばかりで・・・。うまくかないのが現実です。 (2006年07月30日 11時11分53秒)
せきらんうんさんへ。
「本からの知識だけでここまで理解されているのですか?」 たしかに僕は本を読んでいるだけですが、「これまでの人生でずっとそうしてきたように、これからもまた、仕事をしたり勉強したり遊んだりして、人生を楽しんだり苦しんだりして、おもしろおかしく、もしくはぞっとしたり退屈したりして時を過ごし、これから先もまあ、いろんなことをするのでしょうが、何をしていようと時間は過ぎていって、そして、いつのまにやら死んでゆく、なんてのは、どうしても、どうしても嫌だ。」と本気で思っています。 だから、本に「思考を落とせ」と書いてあって、これは試みる価値がある、と判断した場合に、本気で実験できるのだと思います。 そして本気で実験した結果、なるほど、思考を落とす努力をすれば(クリシュナムルティは、努力するというのは、努力する「私」がいるからだめだ、というようなことを言っていますが、論理的にはそうかもしれませんけれど、僕自身は、努力なしで努力のない状態にもっていくのは無理だと思っています)、知覚が変化するんだなあ、と実感すれば、知識だけによるのではない、実感を伴った理解が訪れます。 それはもう、「これまでの人生」では知りえなかった理解です。 「身近に理解を深める人がいるのでしょうか?」 いません。そういう意味では、独学ですね。 (つづきあります) (2006年07月30日 16時00分52秒)
(つづきです)
「自分は本だけでは行動に移す事が難しく、頭の中で自分なりにどんどん膨らむのですが、失敗ばかりで・・・。うまくかないのが現実です。」 せきらんうんさんは、「まあ、このままでもしかたないか」という思いが、どこかにあるのだと思います。「このままではどうしても、どうしても嫌だ」というのが、頭ではなく、生理的なレベルで起これば、あとは、「行動に移す」のは難しいことではなくなると思うのですが。 クリシュナムルティは、読み方によっては、いろんな「方法」を書いてくれていますから、「行動に移す」とき、ものすごく役に立ちます。 (2006年07月30日 16時01分38秒) |
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