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カテゴリ:覚醒
どうしたら幸福感がやってくるか?
幸福感は感じであって、理屈ではない。 幸福感は「知覚」であって、「認識」ではない。 「認識」はその根に「知覚」がある。 「認識」が単独で存在することはない。 【私=瞬間ごとの知覚/認識】 「認識」に気づくことによって、「認識」が、その根である「知覚」へと置き換えられてゆく。 【私=瞬間ごとの知覚】 そのとき、ふいに、幸福感がひろがっている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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クリシュナムルティは、こころで幸せを感じたときには、もうすでに幸せではないと言っている。。。
自分もそうなんだろうと思っています。☆(^^) (2006年10月14日 09時25分24秒)
gaMeさんは『瞬間事の知覚・認識』だよね。
私も思いついたよ。私もひらめいた。 『かけがえない冒険と生命への感動』 《理由》 生きるって事は冒険でしょ。人生なんて失敗なんてないと思うの!すべてがいい経験なんだからね。それに全ての生き物と自分が一つになった時に感動があるんじゃないかなと思ってね。でも、gaMeさんは『そんなの当たり前』と鼻で笑うかな?面白くもないですか?gaMeさんにはなかなか受け入れてもらえないかな? (2006年10月15日 00時12分23秒)
ローズこころちゃんさんへ。
「幸せを感じたとき」と「こころ」が認識するのは、「感じたとき」という「過去の記憶」なので、「もうすでに幸せではない」のでしょう。それはそうだと思います。 ところで、僕の今の方法は、「こころで幸せを感じたときには、もうすでに幸せではない」と思う瞬間、「こころで幸せを感じたときには、もうすでに幸せではない、という思い=自分」であって、それよりほかに、「そう思っている自分」はいない。そして、「こころで幸せを感じたときには、もうすでに幸せではない、という思い=自分」と気づけば、「こころで幸せを感じたときには、もうすでに幸せではない、という思い」は消えてゆき、なんと、驚いたことに、そこには幸福感がひろがっている・・・です。 まあ、ほとんど、言葉(理屈)にすると、ばかげた表現にも見えますが、ようするに、幸福感はあくまで「感」であって「幸福についての思い」ではありません。いつでもどこでも(あなたに)幸福感/光は降りそそいでいる、あなたが気づかないだけだ、というところでしょうか。 (2006年10月15日 05時53分38秒)
天使さんへ。
『かけがえない冒険と生命への感動』はすばらしいとは思いますが、僕にとっては、抽象的で実感がわかないのです。 「全ての生き物と自分が一つになった時」っていうのは、すごいですね。すごいですよ。 (2006年10月15日 06時03分56秒)
抽象的?そんなの言ったらgaMeさんのだってそうだと思います。
生きるという事は旅というか冒険にでかけていると私は思ってます。だから乗り切る事もできるのです。また、瞑想によっても消えないですよね。それは、事実として受け入れなきゃね。でも、いくら話してもgaMeさんには理解してもらえないですね。でも、理解しようと思いにせめてなって欲しかったです。 (2006年10月15日 10時36分54秒)
天使さんへ。
ぼく(もしくは天使さん)が「抽象的」と感じればそれは「抽象的」で、ぼく(もしくは天使さん)が「具体的」と感じればそれは「具体的」で、それはもう、個人的な出来事だと思うのですが・・・ (2006年10月15日 15時00分39秒)
この頃(2006年)書いてた、【私=瞬間ごとの知覚/認識】 なんてのは、今(2020年)ふりかえると、なんというか、言葉を使って言葉から離れようともがいてた時期ですね。
(なつかしいな) 言葉を使って言葉から離れようとしたって、まあ、あたりまえといえばあたりまえなのですけど、かならず、使った言葉、たとえば【私=瞬間ごとの知覚/認識】 によって、言葉から離れられなくなってしまうのでした。 (2020年03月27日 10時53分50秒) |
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