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カテゴリ:覚醒
「瞬間ごとの知覚/認識」は無限なので、全部(部分の全て)に気づくことはできない。
ただ、部分は全体とつながっているので、というより、部分と全体の区別なんて、じつのところないのだから、「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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>「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。
>これは、そう思うんですが、全体という概念を無限と思えば、部分で表せ無いようなきもする。 部分が無限であれば、全体も部分もないということなのか? 瞬間は、無限なのか?無限を感覚することは出来るのでしょうか? いろいろと 疑問がわきました。 (2006年10月15日 12時07分08秒)
ulandさんへ。
「全体という概念を無限と思えば、部分で表せ無いようなきもする。」 もちろん、そうです。でも、にもかかわらず、ulandさんが「ようなきもする」と言われているように、「きもする」のですが・・・ 「部分が無限であれば、全体も部分もないということなのか?」 なるほど、すごいですね、「部分が無限であれば、全体も部分もない」ですか・・・なるほど、そうですね。 「瞬間は、無限なのか? 無限を感覚することは出来るのでしょうか?」 「瞬間は、無限」・・・これまたすごいですね。 そうですね、瞬間は無限、そうですね。 「無限を感覚すること」は・・・できると思っています。ここのところは、説明するとか説明できないとか、そんなことではなく、ただただ「感覚」です。妄想と言われれば妄想です。僕は、「無限を感覚することは出来る」という「妄想」を持っているのでしょうね。 「いろいろと 疑問がわきました。」 言葉によって語られたことは、「瞬間」「無限」「部分」「全体」「概念」「無い」・・・すべてただの言葉にすぎません。 「疑問」もまた、言葉によって頭に浮かんだものにすぎません・・・ だから・・・だからどうなの?・・・うーん・・・ハハハ・・・なんか知らんけど・・・ぼくは幸福です・・・ (2006年10月15日 14時48分10秒)
ulandさんへ。
もういちど考えてみました。 僕はこの文章で、全部(部分の全て)と全体を別のものとして扱っていますね。 全部は無限だけれど、全体は無限ではなく、ひとつである。 そのとき、部分はどこにもない。 全部は部分の無限の集まりであるが、全体はひとつなので、そこには部分はない。 瞬間は「全部/無限」の側ではなく、「全体/ひとつ」の側にあり、瞬間は「永遠の今」である。 とすると、そもそも「 「瞬間ごとの知覚/認識」は無限なので、全部(部分の全て)に気づくことはできない。」というのがおかしいですね。 「瞬間ごとの知覚/認識」を無限にあるものとして捉えようとしても、全部(部分の全て)に気づくことはできないのだから、そんなことは無理である。・・・ですね。 ulandさん、ありがとうございました。 (2006年10月15日 21時19分32秒)
私は、部分と全体を、人間と宇宙、小宇宙と大宇宙と、例えて、考えてみました。
そうすると、gaMeさんの言っていることに納得したのですが、ulandさんとの会話で、少し違う方向に行ったようですね。。。 私は、最初のgaMeさんの文章。。。納得しています。☆(^^) (2006年10月16日 08時23分01秒)
ローズこころちゃんさんへ。
なるほど、言葉は魔物ですね。 で、思うのですが、ぼくは、「言葉に取り憑かれる幸福感」と「言葉からの自由による幸福感」と、どちらも得られる、と思っているのかもしれませんね。もしそうなら、脳天気でいいですね。 (2006年10月16日 12時12分37秒)
瞬間の中に留まると、内に繋がり、内は時空を越えて無限らしい(自分にはここまでの境地は得られていないけれど)と言う感覚は在りますが。この後の部分と全体については良く分かりませんです。
遅くなりましたが、リンクさせていただいています。 (2006年10月16日 12時26分09秒)
キリコタンさんへ。
僕自身、良く分かりませんです。 じつのところ、こんなふうな、言葉の遊び(もちろん真剣に取り組んではいるのですが)、みたいなのは、あまり(ほとんど?)役に立たないような気がしないでもないです。 そんなこと、今さら言わなくったって、わかってたはずじゃないか、と言われれば、それはそうなんですけれど・・・ 言葉の遊びだとしても、その遊びのおかげで、僕自身、ずいぶん救われているわけですけれども・・・ 僕が救われるのなら、「誰か」も救われると思いますけれども・・・ これだけ書いておいて、こんなこと言い出して、すみません。 でも、これからも、言葉が大好きなので、書きますけれども・・・ (2006年10月16日 14時32分05秒)
もういちど考えてみました。
『部分は全体とつながっているので、というより、部分と全体の区別なんて、じつのところないのだから、「あるひとつの知覚/認識」に気づくことは、全体に気づくことになる。』 この文章の疑問点は、「部分と全体の区別なんて、じつのところない」でしょうね。飛躍した文章ですね。 いったい何を言おうとしているのか、考えてみます。 部分というのは思考の働きによる分別にすぎず、じつのところ全体しかない。 瞬間ごと、ひとつの全体が、ひろがっている。 「全体=観察者」「部分=観察されるもの」と捉えると、「観察者=観察されるもの」なので、「部分=全体」となる。 部分が変化する瞬間、全体もまた、同時に変化する。 まあ、これでは、はっきり言って、苦しい説明ですね。 こんなふうに言葉の端々にこだわるのは、個人的な楽しみにすぎず、人には害かもしれませんね。 でも、僕にとっては、キリコタンさんの疑問に(まじめに)取り組んでみることによって、自分の思考の仕組みに気づかさせてもらった気がします。 キリコタンさん、ありがとうございました。 (2006年10月18日 06時38分06秒)
けっきょくのところ、この頃(2006年)やってたような、言葉を使う方法が、なぜうまくいかないかというと、
『言葉は私たちを幻想に導くだけで、けっして神の方向へは導きません』(「自己の変容」クリシュナムルティ著)より引用 もちろん、「神」というのも言葉なんだけど、ここでクリシュナムルティが言ってる「神」は、言葉・イメージ・シンボル等といっさい関係がない。 (2020年03月31日 11時06分42秒) |
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