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4日間かけて、瀬戸内国際芸術祭 の下見のため、岡山から直島、高松、小豆島に大島、それから犬島をめぐってきた。
「海の復権」というテーマを、これまで私はよく理解していなかった。 今回の旅の中で、初めて見る穏やかな海とかわいらしい島々に出会い、最近よく使われるようになった「里山」という表現を思い出した。 人のいとなみの傍らにある山々。 里海、という言い方もあるらしい。 それが表現としてあまり美しいとは思えないけれど(だって里は陸でしょう?という気がして)、瀬戸内の海はそういったニュアンスをたたえていた。 海はかつて交易の場であり、人や文化の出会う場所であり、海の上でさまざまなものが生まれた。 「生み」であったはずの「海」は、いつからか人が住む陸と陸を隔てる邪魔者のように捉えられるようになり、海をいかに超えるか、ジャンプするかといった思想が一般化してしまった。 飛行機が丸いGLOBEに沿ってひゅんひゅんと飛び交う中、海の存在は「距離」でしかなくなったりする。 もちろん、海は美しく大きな存在として我々の中にあるけれども、島々や沿岸で海と人生をともにしている人々を除けば、海をいとなみの場として捉えている人は随分少ないだろう。 そんなわけで、「海の復権」、である。 海を再び我々の思考と行動の中に組み入れ、海とともに生きることをやろう、それが原点に戻ることだ、という思想である。(と、私は理解した。) 大島に行った。 「風の舞」という映画をご存じだろうか。 2003年の映画である。 運のいいことに、私は見ていた。 前職の新聞社事業局にいた時分、たまたま外部から持ち込まれた企画であった。 そういった小さな試写会の仕事などは正直面倒なだけで、やれやれという気持ちだった。 地味でメッセージ性が強そうな、苦手なタイプの映画かなと。 ところが、実際に見た映画は私のそんな貧相な発想をぶちのめした。 瀬戸内にある、大島という島。 この島でいったい行われてきたことは、かつてらい病と呼ばれた、今ではハンセン病という名で知られる病気の蔓延を「防ぐために」、当時の患者たちを病気の発覚とともに家族から引きはがし、ある時代までは有刺鉄線が張られて徹底的に隔離されたのだ。 ハンセン病の伝染性は極めて低く、早期に発見して治療していけば重症化せずに済むことなど、そういったことが知られないまま病状の与える恐怖感だけで元患者たちの一生をこのような形で運命づけてしまったのである。 それから何年もたち、大島にある「風の舞」の碑は、映像の中だけでなく私の瞼の裏に鮮烈に焼きつけられていた。 とはいえ、そこを実際に訪れることなど一生ないだろうと思っていた。 それが、瀬戸内国際芸術祭という機会をもらって、大島を訪れることになったのだ。 はたして、大島の静かな景色の中に自分は入って行った。 人がいるはずなのに、いると思えば尚更に、その静けさは私を押してきた。 入所者自治会の会長さんにお会いしたり、思いのほか楽しい会話が弾んだ後、外に出た。 風に乗って、そこここに設置されたスピーカーから自動で音楽が流れている。 その音楽はなぜ必要なのだろうかと、自問する。 戦時下に入所者が自ら掘ったという防空壕が目に入った。 誰かが守ってくれるわけでなく、不自由な体でどんな思いで皆は掘ったのだろうか。 「風の舞」が視界に入ってきた。 ここにあるのは目に焼き付けられた映像と写真そのものとしか思えず、映像の中に自分が入り込んだような感覚であった。 目の前にある現実の風景と映画と。 どちらもが現実。 この大島で、瀬戸内国際芸術祭の間、いくつかのコンサートとアートが展開される。 それを現実まで持っていったのは勿論私ではなく、根気強く語り合ってきた実行委員会のスタッフと大島の方々。 ほとんど奇跡的に思える事業である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009年12月10日 18時20分08秒
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