カテゴリ:北斎と葛飾応為の画風。
NHK「皇室が守り続けた“いのちの美”」を見ました。
伊藤若冲と円山応挙のことが取り上げられていました。 正月時代劇の「ライジング若冲」を見たとき、 中川大志の演じた円山応挙は、 ただ"語り部"として登場しているだけかと思ったけど、 あらためて考えてみると、 あれって応挙の物語として見ることもできますね。 ◇ 円山応挙は、 農家の出でありながら、 若くして狩野派に学び、 やがては天皇の御所造営に食い込むまでになり、 現在につづく「円山派」の基礎を築きました。 かなりの出世を果たした「やり手」です。 しかし、 彼の経歴のなかでいちばん重要なのは、 狩野派に学んだ後、 絵師のとして大成するまでの、 独自の修行と幅広い交遊の期間なのですよね。 まさに、あのドラマでは、 その時期の応挙の姿を描いていました。 彼は、狩野派の保守性に飽き足らず、 当時の町人文化に交わって庶民的な画風を吸収し、 その一方、 西洋玩具屋に働いては、異国の近代文明にも接し、 いわゆる「眼鏡絵」を作ったりしながら、 遠近画法や写実画法にも取り組みました。 京都に生きた応挙は、 江戸の北斎より二回りほど年上ですが、 やはり西洋近代の息吹を浴びていたと思います。 応挙が売茶翁のオープンカフェに出入りしてたのも事実で、 「蓬莱山図」「竹林七賢図」など道教っぽい作品も多いし、 仙嶺だの、洛陽仙人だのと名乗ったりもしている。 大典顕常が応挙の絵を誉めることもあったようです。 ちなみに、 若冲のパトロンは大典顕常でしたが、 応挙には円満院祐常や三井家のような大パトロンがつきました。 ◇ 円山応挙や伊藤若冲は、 それまでの伝統的な様式美が覆い隠していたものを、 近代的な写実主義によって剥ぎ取ってしまったわけですが、 応挙の場合は、若冲ほどには過激ではありません。 若冲の写実性は、 ある種のポルノグラフィに近いところがあります。 世俗的な欲動と、近代的な力動にまかせて、 ちょっとグロテスクなものまでが露わになっている。 下品で、暴力的で、悪趣味。 かりに狩野派が、能のわびさびであるならば、 若冲の絵は、歌舞伎のどぎつさにも似ています。 ◇ これに対して、円山応挙の場合は、 伝統から革新までの技法に学んだ集大成的な様式によって、 パトロンの需要と、時代の要請に、 わりと穏当なかたちで順応したのかなと思う。 若冲が内的衝動の人だったとすれば、 応挙はあくなき技法の探究者だった、ともいえます。 ドラマでも、そのように描かれていました。 名前を変えるたびに技法も変えていたのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.02.13 11:30:06
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