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まいかのあーだこーだ

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2023.02.20
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NHK「雪国 -SNOW COUNTRY-」を見ました。

川端康成の没後50年にちなんで、
去年の3月にBS4Kで放送されたドラマ。

脚本は「カムカム」の藤本有紀。
演出は「岸辺露伴」の渡辺一貴。
音楽は「ピナ・バウシュ」の三宅純。

今回の作品が、
映像化された「雪国」の決定版だとは思わないけれど、
ひとつの面白い試みではあったと思うし、
今後の映像化を考える上での問題点も浮かび上がったと思います。



物語の舞台は、
昭和10年前後の新潟県~越後湯沢とされています。
昭和6年に上越線の清水トンネルが開通して間もない頃です。

戦前の日本ですね。
昭和12年からは日中戦争が、
昭和16年からは太平洋戦争がはじまりますが、

まだ敵性文化への抑圧などはなく、
主人公は、西洋舞踊(バレエ)の評論を執筆しながら、
無為徒食に生きているという設定です。



文頭に出てくる「国境」を、
《こっきょう》と読むか、それとも《くにざかい》と読むか、
といった問題もありますが…

より重要なのは以下の3点です。


1.サスペンスと叙情美のバランス

公式ページにも、
《原作の行間に隠された真実を、ミステリー要素も交えながらときほぐす》
とあるように、
このドラマはサスペンス仕立てで作られています。

幾重にも降り積もった雪の層によって、
過去の記憶と心の機微の真実が覆い隠されている。

高橋一生と奈緒のセリフ回しは、
どこかしら不自然でぎこちないのですが、
それはサスペンス的な演出として意図されたものにも見えます。
つまり、人物の内面と言動には齟齬があるのです。

これは、ミステリードラマなどで、
登場人物の全員がどことなく嘘を言っている感じにも近い。
視聴者は、そこに一種の違和感を覚えながら、
しだいに物語の謎に興味をそそられていくのです。



ただし、このような演出は、
文芸作品としての叙情性を損ねている気もするし、

川端文学の耽美的な世界を味わいたい原作ファンにとっては、
こうしたサスペンスタッチの手法は、
かえって邪魔に感じられるかもしれません。


2.日本の近代の問題

冒頭のシーンでは、
高橋一生がトンネルの中を歩いています。
この映像は、何らかの象徴とか心象なのかもしれません。

しかし、
原作でトンネルを抜けるのは、
いうまでもなく上越線の列車であって、歩く主人公ではありません。

清水トンネルは全長が9702mで、
当時は東洋一の長さを誇っていました。
そう考えると、やはりトンネルを抜けるのは列車でなければならない。

この物語が、
「都市の富裕な男の徒労」と「地方の貧しい女の気違い」との交わり、
あるいは、その対比から生まれるのだとすれば、
それを可能にしたのは《鉄道とトンネル》という近代の技術です。

さらに、原作では、
その車窓の外に見える灯火が、
同じ窓に反射した女(葉子)の鏡像に重なる仕掛けになっていて、
ドラマのように女自身が車内で火を灯すのではありません。
そもそも明かりのついた車内で火を灯す必要はないからです。

川端は、主人公の島村について、
島村は私ではありません。
男としての存在ですらないやうで、
ただ駒子をうつす鏡のやうなもの、でせうか

…と述べていますが、

この原作において、
車外の実景と車内の鏡像を重ね映す列車の窓は重要なメタファーです。
それをとおしてのみ、
抑圧されて破綻する地方の貧しい女たちの精神が、
都市の富裕な男の虚無的な視線に映る、という構造だからです。


3.なぜ「女の気が違う」か

この物語は、
「なぜ女の気が違ってしまうのか」
という不可解な謎をめぐるサスペンスです。

なので、
その主題は「男の徒労」と「女の気違い」と言ってもいい。

これは、
たんに男女の感情の機微の問題ではなく、
その背景には、
「富裕層と貧困層」「都市と地方」「男と女」…
といった近代日本の社会構造の問題があります。
それは端的に言えば「買う側と売る側」の問題です。

ドラマの終盤では、
駒子が「貧乏はいや、貧乏はいや」と何度も日記に書きつけます。



越後湯沢は、もともとリゾート地です。

その後の越後湯沢は、
1960年代に堤義明が一大リゾート地を買い取り、
1980年代からはユーミンの冬のコンサートがおこなわれ、
1990年代以降はフジロックフェスが開催されるようになる…。

植民地やリゾート地を舞台にした小説は、
世界中に数知れずありますが、
川端康成の「雪国」や「伊豆の踊子」も、
そうしたリゾート文学のひとつだといえます。



作品の核心的なテーマが「女の気違い」である以上、
映像化するうえでも、この単語を避けられない事情があります。

たとえば、
「気違い」という名詞を、
「気が違う」という動詞で代用すれば、
現在の放送コードにも触れないのかもしれませんが、

いずれにしても、
その単語の使用を避けるという理由だけで、
このノーベル文学作品の映像化が躊躇われてきたのだとしたら、
それは何としても克服されなければなりません。



川端康成の「雪国」は、
ノーベル賞を獲得した日本文学の金字塔でありながら、
じつは日本の中でそれほどきちんと咀嚼されていない。

なぜこれが世界的に評価されているのかを、
日本人はかならずしも理解していないし、
まして日本人なりの解釈というものを世界に提示できていない。

むしろ、日本で話題になってきたのは、
ノーベル文学賞にかんして、
「なぜ谷崎でも三島でもなく川端だったのか」とか、
「なぜ三島の死の数年後に川端も死んだのか」とか、
そういった問題だったわけですね。

同じ川端作品でも、
清純な恋を描いた「伊豆の踊子」にくらべると、
幾層にも複雑な謎が重なった「雪国」は難解だといえます。

1960年代には映画化やドラマ化もされていますが、
今回のNHKドラマは、じつに数十年ぶりの映像化だったと思います。


日仏女性劇団セラフ「川端の女たち」千羽鶴/浅草紅団/雪国



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最終更新日  2024.05.17 01:41:19


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