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カテゴリ:本
生まれときから聞いていたのは神様の話で、物心ついた時には日曜日は教会の長椅子に立って賛美歌をうたっていた。家族そろってごはんを食べる時にはまずはお祈りからだったし、寝る前には一日に感謝しないままでは安心して眠れなかった。
祖父母の代からクリスチャンだったから、それが当然の暮らしだった。私はお寺の教えを歴史の勉強で学んだ以外に知らず、神道についてはそれ以上に知らない。 生粋のクリスチャンというのは感謝ではあるけれども、苦しみから救われて光を見出した人の信仰には足らないことは自覚していて、今は家で祈りこそすれ教会には行かない身となってしまった。 数年前に亡くなった祖父は、幼くして両親と死別し青年期に哀しみの淵で神様に出会い、それから救われてキリスト者になったというだけあってかなりヘビーなクリスチャンだった。半世紀以上を信じ抜いた人で、読書といえば聖書。酒もお祝いの席でたしなむ程度、たばこも遊びも無関係に、ただ真面目に生き抜いた人だった。 そんな人が身近にいたので、私にとって聖書や神様の話はずっとすりこまれたようにカラダにあって、他の宗教も拒絶していたのかもしれない。 神社でお賽銭を投げることもなく、神社への初詣というものもかなり大人になって初体験した。お寺も庭や建造物を眺める場所という以外にこれといった信仰心は起きず、ただサイババが登場した時だけは、本当に彼がキリストの再来だったらすごいのに!!とちょっとは期待した(笑)。ま、彼のはマジックであったとしても、それで病院つくったり教育機関を充実させてその国のために役立っているようだから、なんか許せちゃうのだけど。 とまあ、こんなんのだから霊能者とかそういう類のはうさんくさくて、おもしろがっては見るけど、なんでああいうの信じちゃうんだろうか?と不思議で仕方なかった。何人かのは本を読んだりもしたのだ。でもどこかで納得できなくて、今年「大殺界」の私はあのオバチャンの態度が大嫌いだったりする。 ところがところが。何年か前から、この人の言うことって宗教とか超えていいんじゃないの?という人が現れた。江原ちゃんだ。 江原ちゃんは人を怖がらせたりしない。神主さんだった時期もあるけれど、その宗教に固執しているのではなくて、ある時は数珠を付けある時は十字架のペンダントを付けと、なんだか宗教なんて無関係に正しいことを正しく導こうとする姿勢が私には好感が持てちゃうのだ。 今、彼の本を読んでいる。 『スピリチュアルな人生に目覚めるために』という文庫本。以前にも別のを2冊ほど読んだが、読むほどにナルホドナと思う。人にイジワルされてもそれを恨むんじゃなくて、そのことによっていろんなことを気づかせてくれることに感謝しなさいというようなことや、なんでも許される人生をラッキーとばかりに狡く生きるのは死後にも世界があるというのを知らなすぎるということ。 私はキリスト教の教義しか、それもほんのカケラしか知らないけれども、どこかそういうのとつながるようなことを言っていてわかりやすいのだ。 できるだけ、誰に対しても腹を立てず、人をうらやまずに生きられたらと思う。 私がなんのために生まれてきたのかは40年間わからないままだけど、その理由があるのだとしたらそろそろ気づく努力をしてもいいんじゃないかなとも思ったわ。 ふぅー、なんだかね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年05月29日 23時07分55秒
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