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ねこログ

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2022.11.22
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フヨウ(アオイ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)

ウグイス(ウグイス科)


「ねこログ」、総目次(笑)/新・「ねこログ」、総目次(笑)/続・「スクラップ・ブック」、の、目次。
目次:「死ぬのは穢れではねぇがら」、・・・、柳美里「JR上野駅公園口」、を読む、高橋貞樹と、「転向者」に向けられる言葉たち、さらに「悪人正機」からサリンジャーまで飛び出して。/「アルジェリア独立60周年」の記事、ヨリス・イヴェンスという名前の記憶、など、また、ハイチ、ドミニカ共和国の記事から、グレアム・グリーン、アレッホ・カルペンティエール、カエタノ・ベローソ、スラヴィオイ・シジェクを思い出す/ヨリス・イヴェンス「スパニッシュ・アース」から、フランツ・ボルケナウ「スペインの戦場」・・・ウッディ・ガスリー、サリー・ルーニーから、ジェイムズ・コノリー再論、「アランフェス協奏曲」からピカソ、ダリ、ブルトン/「ラ・パッショナリア」は「情熱の花」でなく、「受難の花」、「ノ・パサラン」の、苦い思い出・・・「老トロツキスト」は、「スペイン内戦」を語り出すと止まらなくなる、シモーヌ・ヴェイユ、フリーダ・カーロ、アンドレ・ブルトン、H.M.エンツェンスベルガーなど/「藪鶯/やぶうぐいす」、というのは「冬」の「季語」なんだって!樋口一葉まで登場するが、オチはない話(笑)。/



しばらく雨が続いたからね、からりと晴れて、心浮きたち、思わず飛び出してきた、という感じ、・・・、いや、それはこちらも同じ、ってことなんだけどな。




ハクセキレイ(セキレイ科)、しばらく雨が続いたからね、からりと晴れて、心浮きたち、思わず飛び出してきた、という感じ、かく言う私が、そうだから、勝手に感情移入して、そう思ってしまうだけなんだけれども(笑)、





フヨウ(アオイ科)、しかし、こんな晴天は、長続きせず、夜にはまた雨になるのだけれども、

トックリキワタ(アオイ科、または、パンヤ科)

アオアシシギ(シギ科)、勇んで出てきたものの(笑)、干潟に到着したころには、曇天、だから、やや光が足りない、「居待」、の午後三時ごろ、だから、潮目は、とてもよい、

アオサギ(サギ科)、ヤエヤマヒルギ(ヒルギ科)

コサギ(サギ科)



キアシシギ(シギ科)

チュウシャクシギ(シギ科)

アオアシシギ(シギ科)



イソシギ(シギ科)

チュウシャクシギ(シギ科)

イソシギ(シギ科)

チュウシャクシギ(シギ科)




「JR上野駅公園口」柳美里(河出文庫)
・・・
如是我聞にょぜがもん一時佛在いちじぶつざい舍衞國しゃえこく祇樹給孤獨園ぎじゅきつこどくおん與大比丘衆よだいびくしゅ千二百五十人倶せんにひゃくごじゅうにんく皆是大阿羅漢かいぜだいあらかん衆所知識しゅしょちしき長老舍利弗ちょうろうしゃりほつ摩訶目犍連まかもつけんれん摩訶迦葉まかかしょう・・・・・・」
・・・
語り手の息子が二十一歳で亡くなった、その葬儀の場が描かれる、「阿彌陀経に集中しようとしたが、・・・」、と直後に語られているので、探してみると、この引用部分は、確かに「阿彌陀経」、の冒頭であることがわかった、書き下すと、以下のようで、それに引き続く「長老舍利弗、摩訶目犍連、摩訶迦葉」は、「千二百五十人」の優れた「比丘」、つまり僧侶、の名前であるらしい、・・・、
「是の如く、我聞く。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に在して、大比丘衆千二百五十人と倶なりき。皆是れ大阿羅漢にして衆に知識せられたり。・・・」
阿羅漢:サンスクリット語/Sanskrit/梵語、で、「arhat/アルハット」、パーリ語/Pali、で、「arahant/アラハント」に由来、仏教において最高の悟りを得た聖者
サンスクリット語/Sanskrit/梵語:インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian、インド、ネパールに、2万5千人ほどの母語としての話者が居住する
パーリ語/Pali:インド―ヨーロッパ語族Indo-Europeanインド―イラン語派Indo-Iranian、上座部仏教の経典言語、スリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジア、ラオス、ベトナム、インド、ネパール、バングラデシュに母語話者が居住する

:パーリ語仏典を用いる上座部仏教、Southern Buddism/Theravada
:漢訳仏典を用いる大乗仏教、Eastern Buddism/East Asian Mahayana
:チベット語仏典を用いる大乗仏教、Northern Buddism/Indo-Tibetan, Newari & Azhalism
は、上記3つの混淆
:Dalit Buddism/Navayana
チベット語Tibetan:シノ―チベタン語族Sino-Tibetanチベット―ビルマ語派Tibeto-Burman
ネパール・バサ語/ネワール語Newari:シノ―チベタン語族Sino-Tibetanチベット―ビルマ語派Tibeto-Burman
阿吒力教Azhalism:密教/Tantric Buddhism/Vajrayanaの一派、中国雲南省白族Bai people、シノ―チベタン語族Sino-Tibetanに属するペー語Bai話者の間で実践される
Dalit Buddism/Navayana:「不可触民untouchables」とされる再下層カースト、ダリットDalitの間に興隆した「新仏教運動」、ダリット出身の法律家、ジャワハルラル・ネルー政権(1947-1952)で、法務大臣をつとめた、ビームラーオ・アンベードカルB. R. Ambedkar(1891-1956)、が開始した
・・・
弘誓ぐせいノチカラヲカフラズバ
イヅレノトキニカ娑婆しゃばヲイデン
佛恩ぶつおんフカクオモヒツツ、
ツネニ彌陀みだねんズベシ
娑婆しゃば永劫ようごうヲステテ
淨土无為じょうどむいスルコト
本師釋迦ほんししゃかノチカラナリ
長時じょうじ慈恩じおんほうズベシ」
・・・
「・・・和讃わさんを称えるために口を動かしてみた」、の直後にこの引用文が続く、・・・、
「和讃」:和語を用いた讃歌、七五調をとるものが多い、サンスクリット語による「梵讃」、漢語による「漢讃」に対応する
「三帖和讃」/親鸞(1173-1263):「浄土和讃」、「高僧和讃」、「正像末和讃」の総称
引用部分は、「高僧和讃/善導大師二十五、二十六」、であることがわかった、・・・、
主人公は、福島県相馬の出身で、彼の家族を含め、付近一帯の人々が、「浄土真宗」の門徒であること、その由来が語られる、・・・、「阿弥陀経」が真宗の重要な経典であることは、少し以前、井伏鱒二「黒い雨」を読み直して、初めて知った、いや、柳宗悦「南無阿弥陀仏」にも、ちゃんと書いてあったのだが、読み飛ばしていたのだろう、下の記事参照↓、原爆被爆直後の広島、勤務先の工場では、次々に死者が運び込まれるのに、葬儀が追い付かない、僧侶の数も足りないので、主人公は、工場長の命令で、近くの「真宗」寺院におもむき、葬儀に必要な経文などを筆写させてもらい、暗記することになるのだ、・・・、和文で書かれた、蓮如の「白骨の御文章」は、とりわけ美しく、多くの葬儀参列者に感銘を与えた、・・・、中学生の頃この小説を初めて読んだとき、「白骨」などという、子供にとっては、おどろおどろしい筈の言葉と、その醸し出す静謐な諦観の雰囲気とのコントラストに、強烈な印象を受けたことを、何十年ぶりかで思い出したのだった、・・・、「白骨の御文章(ごぶんしょう)」と呼ぶのは「浄土真宗/西本願寺」であり、「真宗大谷派/東本願寺」では、同じ文書を「白骨の御文(おふみ)」という、爆心地のすぐ西側に「西本願寺」の本山もあって、この広島、安芸地方は、「真宗」といえば、もっぱら「西」派を指すようであることもわかった、・・・、
「死者の無念がこの地に残らぬよう、死にゆくすべてのものたちに今生の極楽を見せなさい」、・・・、井伏鱒二「黒い雨」、を読む、そして、柳宗悦、田口ランディ、高橋源一郎、など

「黒い雨」井伏鱒二(新潮文庫)/「南無阿弥陀仏」柳宗悦(岩波文庫)
・・・
うちは元から相馬にいたわけでねぇ、江戸後期の文化三年、今から二百年くれぇ前に、血ぃ滲むような苦労さして、はるばる加賀越中からこっちさ来たんだ。
加賀越中って言うど今の富山県だな、ほんでまず、礪波郡野尻庄字二日町さあった普願寺の住職の浄慶の次男の光林が、原町に常福寺、三男の林能が相馬に正西寺、四男の法専が双葉に正福寺を開いで、「草分け三カ寺」になったわけだ。
ほの頃、もう一人の越中僧が相馬さへえって、その御方こそ、鹿島で勝縁寺を開いた、礪波郡麻生村の西園寺の住職・円諦の次男、廓然だべ。
自分で鍬や鋤持って畑耕して、塩田開いて、利潤米あげて、越中にけえっては毎年十戸ずつ移民ごど連れてきて、身元引受人さなったから、「草鞋脱ぎ僧」と呼ばっちたんだ。
七代前の御先祖様のふるさとも、廓然和尚とおんなじ礪波郡麻生村、富山県だ。
ほの頃は、電車どがバスなんてもんはねっがたがら、歩いてな、越後から会津にへえって、二本松がら川俣さ出て、八木沢峠越えてようやく相馬さ来たんだ。六十日ぐれぇかかったそうだ。
・・・
御先祖様は、荒れ地を開拓したんだど。一等地の農地は手に入いんねがったがら、塩害の強いうみぱたが、獣の害の多い山っ端にしか入植できねがったんだ。
相馬は真言宗と天台宗と曹洞宗の寺が多いべ。
ほんで、相馬は土葬、真宗は火葬。相馬だと、亡ぐなったら六文銭、杖、草鞋どがをお棺さ入れで、経帷子着せて冥土の旅支度をさせっけど、真宗だと、亡ぐなっと同時にお浄土に往生して仏様になっから白衣を着せるだけだ。
真宗だと、大安や友引や仏滅なんかの日ぃ選んだり避げだりしねぇで葬式どが祝言をあげっぺ。死ぬのは穢れではねぇがら、忌中の札も貼んねぇし、お清めの塩も使わねぇ。
相馬の仏壇は小せえげんちょ、真宗では二百代から四百代の立派な仏壇を持ってて、仏壇が暮らしの中心になる。
相馬は仏壇に位牌を置くげんちょ、真宗では法名や過去帳を置ぐだけだ。
相馬の家には神棚のほかに大黒棚とか荒神棚どががあって、門口、茶の間、厩、台所、井戸、便所あだりまで紙札さ貼っげんちょ、真宗の家には神棚はねぇ。
相馬では神仏の祭日どが忌日を大事に守ってっけど、真宗はほういうことには気ぃ遣わねぇから、正月に門松を立てねぇ。盆にも盆棚造ったり、迎え火焚いたりとかしねぇ。迎え火焚いて、これがおらん家の目印だって、え?仏様に生まれ変わって悟りを開かれた御方が、火い焚いて目印にしねぇと帰ってこらんに?ほだ馬鹿な話ねぇべよ。
きゅうりとなすに麻幹おがばら挿して四つ足にして盆棚さ飾んだげんちょも、きゅうりは馬で速いがら先祖の霊が一刻も早ぐ家さ帰ってくっ時の乗り物で、なすは牛で遅いがらゆっくり帰ってもらうための乗り物だって――、うちの御先祖様はほんな馬鹿でねぇど。ほんな一年に一回しか帰ってこねぇような仏様じゃねぇど。亡くなっと同時に仏様に生まれ変わって、お浄土がらおらたちんどこさ帰ってきて、三百六十五日、四六時中おらたちを守りつづけてくれてる。お盆の一週間しか帰ってこねぇなんて、ほだ馬鹿なごどねぇべ。
「南無阿彌陀佛をとなふれば 十方無量じつほうむりょう諸佛しょぶつ百重千重囲繞ひゃくじゅうせんじゅういにようして よころびまもりたまふなり」ってこの真宗勤行集に書いである。お念仏を称えだら、亡くなって仏様になった人たちが百重にも千重にもおらたちを取り囲んでくださって、喜んで守ってくださる、と。ほら、ここ、「よるひるつねにまもりなり」「よるひるつねにまもりつつ」と、何回も繰り返してっぺ。
相馬藩の氏神は妙見大権現で、相馬中村神社、原町太田神社、相馬小高神社の三妙見だ。毎年七月二十三日、二十四日、二十五日の三日間「野馬追」が行なわれっけど、真宗門徒はほの間も田畑の草取りを休まねがった。ほんで怒った「土着様」が、野馬追の間、草取り道具を取り上げっちまうことあったそうだ。
おらたちは相馬の人らのごどを「土着様」って呼ばって、相馬の人らはおらたちのごどを「加賀者」って呼ばって、「門徒もの知らず」と蔑んだんだ。
かなりこっぴどく痛めつけられたのは間違いねぇんだ。相馬藩の殿様から土地もらって、開墾すれば、開墾した土地はおめえのものにすっから働けって言わっち、一所懸命開墾して田畑を作ったのはいいんだげんちょ、水利権はもらえねがったんだ。
なんぼ田畑作っても、ほごさ水引ぐごどできねがったがら苦労したんだ。「土着様」と話しすっぺど思っても、「加賀者」はそごさ座ってろ、って言わっち土間までしか入れてくんねぇだ。しょうがねえから、門徒たちで集まって溜池さ作って、ほの新しい溜池がら水路さ引いて、やっとこさ田畑さ水引ぐごどができたんだど。
「土着様」は、おらたち真宗門徒が朝夕称える「正信偈」の南無阿彌陀佛の声を遠くから聞いて、ふるさとの加賀に帰りてえって泣いてんだと勘違いして、「加賀泣き」と馬鹿にしただ。
かなり悔しい思いどがしたんだべ。親鸞聖人は「念仏者は無碍の一道なり」とおっしゃった。加賀泣きどが言わっちゃぐらい虐めらっち、荒れた土地ごど耕してきた御先祖様のごど思えば、苦しみどが悲しみさ行く道を邪魔さいるごどはねぇ、我が身に起きたごどを真っ直ぐ受け止めて生きていがいる――。
「JR上野駅公園口」柳美里(河出文庫)
・・・
「妙見菩薩」:北極星または北斗七星を神格化した仏教の天部の一つ、妙見信仰は、インドで発祥した菩薩信仰が、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と習合し、仏教の天部の一つとして日本に伝来したもの
「正信念仏偈」:親鸞の著書「教行信証」の「行巻」の末尾に所収の偈文、真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたもの、本願寺第8世蓮如によって、僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定された
「念仏者は無碍の一道なり」:「歎異抄/第7章」
念仏者ねんぶつしゃ無礙むげ一道いちどうなり。そのいはれいかんとならば、信心しんじん行者ぎょうじゃには、天神てんじん地祇じぎ敬伏きょうぶくし、魔界まかい外道げどう障礙しょうげすることなし。罪悪ざいあく業報ごうほうかんずることあたはず、諸善しょぜんもおよぶことなきゆゑなりと云々うんぬん

「歎異抄」(本願寺出版社)・第七条
/ガイ、ゲ、さまた(げる)

「西暦・干支・元号」対応表、1600~2022
「浄土真宗/西本願寺」と「真宗大谷派/東本願寺」の分裂のいきさつについては、上の「黒い雨」の記事にも述べたが、再録しておくと、・・・、
・・・、「本願寺」の「東西分裂」は、後に大阪城となる場所にあった「石山本願寺」が、「一向一揆」勢力を根絶しようとする織田信長によって徹底的な弾圧を受けた後の、江戸時代のことで、その「石山本願寺」での戦闘の際、徹底抗戦を掲げた強硬派の「教如」と、穏健派を代表するその父「顕如」との対立に由来する、という、・・・、「顕如」派が「准如」を宗主に立て、豊臣秀吉の支持をとりつけて、「本願寺」、つまり、現在の「西本願寺」を根拠地に成立した教団が、「浄土真宗本願寺派」となり、これに対して、「教如」を宗主とする派が、新たに「東本願寺」を開き、こちらは、徳川家康の影響下に、やがて「真宗大谷派」という別教団へと分裂する、という事情のようであるから、・・・、
1592年/天正20年、「本願寺」、のちの「西本願寺(京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町)」、建立
1603年/慶長8年、「東本願寺(京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町)」、開かれる
・・・
この小説の中で、筆者が、これほど長々と、経文を引用しているくらいだから、それは、重要な意味を担っているに違いないのだが、一見したところ、「本筋」とは、それほどかかわりない部分にも見える、これらの記述に、非常に、注意をひかれてしまったのは、まったくの「プライベート」な動機なのであって、これも、上の「黒い雨」の話のところで長々と書いたが、私の両親は、ともに、北陸地方の「真宗大谷派/東本願寺」の寺で生まれたのだ、下に地図を掲げたが、父親は、石川県小松市、母親の方が、まさに、ここに登場する、「礪波郡」、明治維新後に、「西礪波郡」と「東礪波郡」に分れたらしいが、その「東礪波郡」、地図を見ると、いまは、南砺市という名称になっているみたいだが、そう、鉄道路線の名前としては残っているみたい、高岡から、飛騨との国境の山地の方へ向かって南下する「城端(じょうはな)線」というのがあるだろう、その終点が、「城端」で、その町にある、・・・、少なくとも、阪神間の住宅都市の「社宅」住まいだった私にとっては、広大な敷地を擁する大きな寺院に思えた、であって、夏休みともなれば、毎年のように、北陸線の急行「立山」号で高岡まで、高岡で乗り換えて、確か、一時間か二時間に一本、二両編成のディーゼルカーだった、に揺られて、延々と続く稲田の間を縫って、やはり一時間ばかりかけてようやくたどり着くその終点の駅からは、徒歩で20分ばかりだったろうか、その寺で、過ごしたものだった、・・・、引用部分にある「礪波郡野尻庄」、これは、その城端線の途中に、「野尻」という駅があったのを、何十年ぶりかで思い出した、多分、そこであろう、「礪波郡麻生村」の方は、ちょっとはっきりしないが、旧「礪波郡」の北側に隣接する高岡市の南部に、そういう地名があることはわかった、・・・、で、ここでの「真宗」門徒の、福島県の、いわゆる「浜通り」一帯への「入植」が始まる「江戸後期の文化三年」は、すでに、「本願寺」の「東西分裂」後なのだ、さて、「東/西」どっちなんだろうか?前の、「黒い雨」の場面では、上にも述べたように、安芸地方はどうやら「西」の勢力が強いらしいことと、「白骨の御文章」と呼ぶのは、「西」で、「大谷派」は、「白骨の御文」と呼ぶらしい、などということから、判明したわけだが、今回は、それほどはっきりした手掛かりは得られないのだが、自分でもちょっと不思議だが、あんた、「マルクス・レーニン主義者」なんだろ(笑)?それなのに、何となく「東本願寺」に対して、「身贔屓」してしまっていることを発見して、苦笑を禁じ得ない、そんなわけで、全く部外者の印象にすぎないけれど、北陸地方は、あるいは、「大谷派」の勢力の方が、強かったのではないか?だったら、この「相馬」地方に「入植」した人々も、そうだったのでは、と、身勝手に想像してみることにする、・・・、
・・・
彼らは、「真宗」、おそらくは「大谷派」という教団の信徒として、集団的に「入植」した人々だったのだね、そんなにはるばる遠くまでやって来た「動機」はなんだったのだろう?素人の憶測でしかないが、やはり「喰えなかった」からではなかったのかな、越中は、ずっと後の時代の「米騒動」の発祥の地でもあるけれど、それこそ、子供の頃車窓から見た風景を思い浮かべても、有数の穀倉地帯だったはずだ、「門徒」たちは、土地をもたない零細な農民たちだったのだろうか?これに先立つ時代の「一向一揆」が、織豊政権の厳しい弾圧にもかかわらず、地方権力を長期にわたって維持できたのは、この教団組織が、高度な治水技術、高い生産力を有していたからだ、とも言われているようである、・・・、弾圧によって、再び貧困に転落した、ということだったのだろうか、・・・、憶測で語るのはほどほどにしなければならないが、最初に移住したのが、僧職者であったとしても、「教線の拡大」といったこと以上に、故郷の貧困者を救済する、という情熱に支えられていたのではなかろうか、という気がするのだが、・・・、あるいは、ここで言われる「相馬藩の殿様」のように、「開墾」のための労働力の移入を、奨励する、という政策もあったのかもしれない、・・・、「加賀者」たちの「真宗」的な、ある種の「合理主義」に、読みながら思わず喝采を送っている(笑)、自分を発見して、またしても驚くのであるが、この「贔屓の引き倒し」ともいうべき賞賛も、「入植」先の地元民「土着様」たちから、受けた「差別」の経験に対する苦々しい思いの、裏返し、と読むべきなんだろう、・・・、まとまりのない話になったが、一応、ここまでにしておく、

福島、浜通り

加賀、越中
・・・
穢●多●に対する極端なる賤視は、その穢物に触れ、あるいは殺生、肉食にくじきを行なった点から、仏者ならびに両部神道りょうぶしんとう家の忌む所となったのに因する。穢●多●を侮蔑する感情を扇動して一つの社会的規範たらしめたのは、悉く仏教の罪である。一方に武家が穢●多●に祇園御霊会の神輿しんよかしめ、堂上家が飲料の井戸を掘らしめて敢えて異としなかったときにあって、五山の僧侶は口を極めてこれを罵った。・・・
・・・
屠畜といっても、当時は生きたものではなくて、死牛馬を屠ったのであった。牛馬は人を助け、世を益するものであるとされ、これを屠殺することは禁ぜられ、使役に堪えざる老牛馬といえどもこれを殺すことはできなかった。牛馬はその斃死するを待って穢●多●の手に渡し、その皮を剥いで皮革の原料とした。僧侶は生きた猪・鹿を殺して喰うものを責めずして、死牛馬の肉を喰った穢●多●を罵ったのであった。要するに穢●多●のとくに卑しまれるに至ったのは、仏徒の偏見と傲慢なる支配感情とからきたったものである。自己の世俗的栄誉のためには、いかに被支配階級を虐げるも敢えて意としないのが当時の仏徒であった。鎌倉時代に至って興隆した新仏教のほとんどすべてが、かような態度をとった。仏教が社会全般に普及しなかった時代には、穢●多●を卑しむ念はまだ少なかった。下って徳川時代となり切支丹宗を禁ずる方便として、天下の民をすべて仏教に帰依せしめ、必ず何かの寺院の檀徒たるを要とするに至り、穢●多●蔑視の念は一般に普及した。そして、穢●多●自らも卑屈になっていったのである。
・・・
穢●多●賤視の観念は、全く仏徒が扇動したものであった。古代奴婢を罵倒蔑視したのは仏徒であった。仏徒は、穢●多●を社会の最下層にたたき落としたことに対して責任を有する。部落民は、仏徒にとって縁なき衆生であった。仏徒と部落民とはきわめて縁が遠く、敵味方の関係である。鎌倉時代以前の仏教は、穢●多●に近づくのをもって仏の戒律に背くものとまで解していた。細川氏が阿波を領せる頃、堅久寺という真言寺が青屋を檀家に持って他の寺から仲間つきあいを止められ、青屋を檀家から放して交わりを続ける事になったことがある。神道家の方でも穢●多●を嫌うこと甚だしく、・・・
・・・
かかる時に、平民仏教を標榜する一向宗、すなわち浄土真宗は、敢然として特殊●部落に伝導を試みるに至った。宗祖親鸞上人が、京の建仁寺辺のくつ作り、つる作りの非人、すなわち祇園の犬神人いぬじにんの群を教化したことは今も語り伝えられている。「御開山」親鸞は、黒衣や俗衣で石を枕に血と涙との苦行をし、定まった住家もなく諸所を放浪して、御同行御同胞と賤民の手を握り抱擁き合って布教に従事した。墨染の衣すら剥ぎ取られ、罪人として京の町を追放されても、罪るされて帰りきたり、老衰の身をわびしく同行の家にのたれ死にするまでも、念仏称名のうちに賤しいもの穢れたものとあなどれた沓作りも非人も差別なく、これが教化に腐心した。社会の圧迫侮蔑を堪えがたきまで受け、現実生活には絶望のほか何ものをも持たぬ部落民が、肉食妻帯を許し、共に弥陀を信ずることを許す真宗に帰依するに至るのは当然である。その後蓮如上人は、昔日の宗制を唱破し、「猟漁もせよ、奉公もせよ」と一宗の憲法を改定した。そしてこの蓮如上人の母は部落の出身であった。年とともに部落民が真宗を信ずることは深くなり、一心に極楽浄土を希求する至情はますます熱烈となった。真宗の教理が解しやすく平民的であることは、ことにその伝播を早からしめた。徳川時代の中葉に至って布教は完成し、真宗寺院は盛んに建てられた。この頃は真宗の全盛時代であった。各部落に壮大な真宗寺院が営まれ、一部落に八寺院を有するに至ったものもある。いかに零落するとも、いかに飢えても、部落民は本山への志納金は忘れなかった。
しかるにこの真宗も、後には部落民に対して嫌悪の念を持つに至った。本願寺は、募財に名をかりて、部落民の搾取を事とするに至った。部落の寺院も穢●多●寺として近隣の寺院から忌まれ、本願寺もまたこれを嫌った。身を挺して穢●多●の群に入った勇敢な宗教的戦士たる穢●多●寺の住職たちは、在来の部落民と同様賤視され、縁組なども穢●多●仲間との間に取り結ばせられた。・・・平民宗教の旗幟を翻し、賤民と称せられたものをも捨てなかった真宗の人々までが、殉教者の子孫を蔑視疎外し、部落民を蹂躙して経済的搾取に汲々たるに至った。本願寺は全然特権階級の走狗となり、全く偶像化してしまった。
「被差別部落一千年史」高橋貞樹(岩波文庫)
・・・
両部神道:仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想、・・・、密教において宇宙は大日如来の顕現、その大日如来を中心に金剛界曼陀羅と胎蔵曼陀羅とに描かれる、仏菩薩を本地とし、日本の神々を、その垂迹とみなすことで解釈した、・・・、伊勢内宮の祭神、天照大神を胎蔵界の大日如来、光明大梵天王、日天子に、伊勢外宮の豊受大神を金剛界の大日如来、尸棄大梵天王、月天子に擬え、伊勢神宮の内宮、外宮が一体として、「両部」すなわち、胎蔵界と金剛界を形成しているとした、・・・、とのことである
祇園御霊会:今日の「祇園祭」の起源をなす、貞観5年、863年、疫病や災害の死者の怨霊を鎮めなだめるために行われたと言われる
ヨ、か(く)、かつ(ぐ)
堂上家:昇殿を許された公卿、殿上人の家柄
・・・
親鸞(1173-1263)、現在の京都市伏見区日野に生まれる、9歳で、天台座主慈円の下で得度、29歳まで叡山で修業、建仁元年(1201)、法然に入門、承元元年(1207)、「承元の法難」、藤原氏の氏寺興福寺からの、念仏宗を非難する訴えを受け、後鳥羽上皇により、法然、親鸞らが流罪とされる、越後国国府(現・上越市)へ配流、僧籍剥奪、建暦元年(1211)赦免、建保2年(1214)以降、約二十年、東国布教、62~63歳ごろ、帰京、著述活動に専念、89歳で入滅、
蓮如(1415-1499)

西暦・干支・元号対応表

親鸞の生まれた京都市伏見区日野は、同時代人、であることも、今初めて気付いたのだが、鴨長明が「方丈」の庵を結んでいた小野、にほど近いのだ、
・・・

「被差別部落一千年史」高橋貞樹(岩波文庫)
高橋貞樹(1905-1935)、1922年山川均の書生となる、同年、創立間もない全国水平社に参加、また、同年、日本共産党の創立にも参加、1923、「全水アナ・ボル論争」、全国水平社内の、アナキスト派、ボルシェビキ派間の論争、では、ボル派の理論的指導者の役割を果たす、この書物は、1924年、19歳の時に書かれた、1926年、日本共産党の指令によりソ連へ密航、国際レーニン大学(最高幹部養成学校として、「東方勤労者共産大学/クートヴェ」よりも上級であるとされていた)で学び、ソ連共産党に入党、コミンテルン内では実質的に日本代表の一人として活動、日本共産党再建の任務を帯びて帰国後、1929年4月、特高警察により検挙、治安維持法違反により懲役15年の判決、獄中闘争を経て、1934年、佐野学、鍋山貞親に続いて転向表明、1935年、肺結核の悪化により刑の執行停止、出獄、同年末、病死、・・・、なお、この書物の校注を行なっているのは、かつて日本共産党「50年分裂」時の東大細胞の「国際派」活動家でもあった、民俗学者の沖浦和光(1927-2015)、
・・・
以前、内田樹と、「浄土真宗/西本願寺」の僧侶である釈徹宗との対談、「はじめたばかりの浄土真宗」を読んでいて、「真宗」では、葬儀の時などにも「清め塩」を使わないというのを聞いて内田樹が驚いている場面があったのだが、私と言えば、「家庭環境」からか、知らず「浄土真宗」的な作法が身になじんでいた、というべきなのか、驚いた、という発言の方に、驚いた、というか、「清め塩」などというものを、それこそ映画かテレビでしか見たことがなかったのだ、・・・、今になってようやく、自分の中に、そんな「浄土真宗」的価値観が、ひょっとしたら、息づいているのかもしれないことを、やや、誇りにさえ、思えるようになった、というのは、もちろん、ここでの主人公の言葉の通り、「死ぬのは穢れではねぇがら」、という意味においてである、・・・、高橋貞樹を長々と引用したのも、そういう理由だ、・・・、死への恐怖こそが「差別」を作り出す、他者への攻撃、殺害への衝動さえも、死の恐怖に対する、「躁的防衛」としての、攻撃性の発露ではないのか?生きている者には決して「想像」の及ばない「死」という何かわけのわからないものに、何らかの「形象」を与え、「物象化」することで、はじめて、それを憎悪、忌避の対象と、として「取り出す」ことが出来る、女性の経血、妊産婦、の場合のように「血」という具象が、「死」の「隠喩」として機能するから、それが忌避の対象となるのである、牛馬の、あるいは人間の、死体の処理に携わる職能民に対して、畏敬と裏返しの賤視が、同時に発生するのも、その人たちが、「生」と「死」との境界領域を、自由に往還できる能力を有しているかに見えることへの、恐怖に根差しているのだとみることが出来る、そして「穢れ」という観念を、何か接触によって「感染」する「病」、その「病原菌」のようなものに擬え、やはり「物象化」する手口が、ほとんど「近代主義」的でさえあるのは、スーザン・ソンタグを引くまでもない、云々、・・・、とまあ、こんな程度の「うんちく」なら、文化人類学なり民俗学なりを、多少かじった「インテリ」のつもりなら、誰だって言えるのだろうから、特に自慢するようなものではないのだが、ちょっとばかり、強調しておきたいのは(笑)、私自身は、これを、まさに、「猫から学んだ」(笑)ことなのだな、・・・、

「はじめたばかりの浄土真宗」内田樹/釈徹宗(角川ソフィア文庫)
今を去る二十年前、車を運転していて、道路の真ん中に迷い出て立ち往生してしまっている子猫を、拾わざるを得なくなったことが、私の「猫人生」(笑)の始まりであった、その子、「にょろりん」という名前だ、は著しく腸が弱かったらしく、大人になるにつれて自然に治ってくれたようでもあるが、そんなつもりではなかったから、「ペット不可」の、ある種「おしゃれな」(笑)「ワンルームマンション」に当時暮らしていた私は、こいつが、引きも切らさず、あちらこちらに「おもらし」してしまう、便の処理に、ほとほと疲れ果ててしまっていた、同時期に「うつ病」を発症したのも、公的には(笑)「政治的運動に『挫折』した」ということにしてあるけれども、実は、この猫の「うんこ」に悩まされただけのことだったかも知れないのである(笑)、そうなれば、改めて考えざるを得なかった、どうして、人は、「うんこ」を扱うことで、こんなにも消耗するのか?そういう目で、猫たちを観察してみると、彼らは、「うんこ」をした後、砂を掻くような素振りをして、それを「隠そう」としているようにも見えるから、彼らもまた人間と同様、これらの自らの排泄物を「忌避」しているのだ、と思わず思い込んでしまうのだが、でも、一方で彼らは、「うんこ」の後、自分の肛門のまわりを、きれいに舐め取るのである、・・・、人間にはとても想像が及ばないことであるが、さすれば、「糞便」を「忌避」するのは、人間固有の「文化」であると見なければならなくなる、誇らしげに語られるように、人を人たらしめたのは「言語」の発生なのであれば、まことにそれは、「言葉」の「病」と呼ばなければなるまい、・・・、最悪の「うつ病」の症状のさなか、文字通り、「生きた心地」がしないような日々を送ったあの数年間(笑)、ただただ、考え抜いたのは、このことだけだったかも知れない、生き物を「飼う」というのは、畢竟、その糞便の処理、そして、当然にも、生きている者はやがて死んでしまうから、その「死」を看取ること、に尽きる、といっても過言ではない、今しも、息を止めてしまったものが、見る見るうちに、あんなに愛らしかった表情が崩れ、「醜い」物体に変容していく様を、何度も見なければならなかった経験を通じて、1)「死」という観念が、「死体」という具象を伴って立ち現れたとき、それが、かつて、生きていた時は、あんなにも「愛すべき」ものであったかもしれないのに、たちまちのうちに、「憎悪」、「忌避」の対象となってしまうこと、その「速さ」は驚くべきものだ、2)そして、ほかならぬ、そのように「愛の対象」であった者に対して、「憎悪」、「忌避」の念を抱いてしまったことに対する、重篤な「罪悪感」がただちに発生する、3)すると今度は、ふたたび、そのような「罪悪感」を、「こんな可愛い私」に背負わせてくれたことを罪状として、またしてもほかならぬ「死者」そのものを、「逆恨み」的に、「自己愛」的に、断罪する、という「アンビバレント」な、「循環過程」を、何度、身近に体験したことだろう、・・・、暫定的な、といっても、当分、死ぬまで(笑)、変更の必要を感じないが、結論は、こんな感じ、・・・、「言語」を生み出すほどの、記憶容量を確保するためには、脳の容量を、限界まで拡大しなければならなかった、そうやって「重たすぎる」ものになってしまった頭を支えるには、非常に不合理といわねばならないが、「進化」という過程は、レヴィ=ストロースが「ブリコラージュBricolage」と呼んだように、その場に、手元にある材料で何とかやっていかねばならない、四足歩行の動物の、一方の端に、そんな重たいものをぶらさげていては、力学的に釣り合わない、ならば仕方がない、安定さをさらに犠牲にしなければならないが、身体の中心にその重量物を持ってくるには、二足歩行、しかありえなかったのだな、・・・、うちの猫たちと付き合っていると、その「二足歩行」たるや、どれほど「異常」なものでありうるか、つくづく思い知らされるよ、猫たちも同感なんだろう(笑)、這いつくばっていた私が急に立ち上がると、びっくりして逃げ腰になるのだからね、で、そんな革命的な変容には、ネガティヴな影響が多々伴ったに違いない、私たちは、自分の肛門を、「舐める」どころか、「見る」ことすらできない、たった一つの哺乳類、となった、聞きかじりの「フロイト主義」を披歴すると、自分の「うんこ」の処理を、親だとか、看護師さんとか、他の大人に、してもらわなければならなかった屈辱が、「幼少期トラウマ」の重要部分をなしている、とも言われる、・・・、見ることのできないもの、は、当然にも「不安」を醸し出してしまうから、それを、「知らないふり」をして、「忌避」の対象として、「隠蔽」してしまう、というのは、とてもありそうなことだろう?こうして、人間にとって、人間だからこそ初めて、「うんこ」は、「汚い」ものに、な・っ・た・、あとは、「言語」の本来的に有する「隠喩」の力が、どこまでも話を広げてくれる、こうして、同じく「見ることのできないもの」、「知ることが出来ないもの」、として、「うんこ」は、「死」の「隠喩」となった、もちろんvice versa、逆もまた真、「死」が「うんこ」の「隠喩」であってもかまわない、そもそも、「うんこ」の主成分は、「細胞死」した腸の粘膜なのだ、と言っても、それほど悪質な冗談でもないと思っている、・・・、「悪質な冗談」ついでに言ってしまえば、私が、一日中犬猫の「うんこ」に振り回され、ほとんど、意識もないような状態で、かろうじて生きていたあの日々、私がやんでいた「病」こそ、またしてもフロイト先生に言わせれば、「メランコリー=『愛の対象』喪失に伴う、『喪の作業mourning work』の反復強迫」だったのだ、・・・、こうして「死への恐怖」こそが、人間の「狂気」、人間の「病」の根幹に横たわっているに違いない、という確信は、私にとっては、揺るぎないものになった気がするのですね、・・・、これは、猫と暮らすようになったりするはるか以前、まだ京都にいた頃だけれども、ドゥーシャン・マカベイエフの映画、「ゴリラは、真昼に入浴す」だったかな、「統一」後の東ベルリン駐留のソ連軍兵士、ロシア語しか話せないはずのこの男が、突然流暢なドイツ語で語り出す、こんなセリフ、・・・、
この世にあってはならないもの、例えば、川にかかる高い橋、夜と昼の間の時間、そして、冬、これらの絶望が人々を、戦争と殺戮に駆り立てる
京都市の現在の繁華街である河原町は、平安京の昔には、東の果てであって、処刑場でもあり、死体置き場でもあったと言われる、文字通り「生」と「死」の境界領域であって、街、すなわちその「内側」に住む人たちは、その清浄を保つために、「穢れ」をつねに、「外側」へと、排除し続けなければならなかった、境界面の内外で、「穢れ」のいわば「濃度差」を維持するのは、もとより、「熱力学第二法則/エントロピー増大則」に反する過程だから、「外部」から、多大なエネルギーを導入しなければならない、という例え話を、調子に乗って付け加えてもよかろう、・・・、ずっと何年もの間、気にかかっていたこのセリフ、今では、こう読めばよいのでは?と思っています、すなわち、ほかならぬ「死への恐怖」こそが、人をして「殺戮に駆り立てる」、というのなら、それを解除するには、「死」との「親和性」を、多少なりとも「取り戻す」しかなかろう?・・・、時々刻々「変わり果てた姿」へと変容していく、猫たちの死骸を見つめながら、いつも、こう念じていました、彼または彼女を、憎んではならない、私に断りもなく、「死んでしまった」ことをもって、それを「罪状」として、「死者」を断罪してはならない、という風にね、・・・、「死ぬのは穢れではねぇがら」が心の琴線に触れたのは、話が長くなりましたが、まだまだ言い足りないことがありそうな気もしますが、おおよそ、こんな事情です、・・・、ああ、もう一つ、付け加えておかなければ、・・・、高橋貞樹は、あまりにも若くして亡くなってしまったから、その「汚名」を長らく浴びることはなかったのかもしれないけれど、以前、徳田球一/志賀 義雄「獄中十八年」(講談社文芸文庫)を読んでいて、二人が、まるで示し合わせたように、この人物を、「転向者」として、実に口汚く罵っている一節があって、不快である以上に、ちょっと奇異に感じたのを覚えている、この書物は、もちろん、戦後、日本共産党が、再出発するにあたって、「指導部」を形成することになった、「獄中非転向組」を、ほとんど「神話」的な高みに据えるべく系統的に試みられた、プロパガンダ戦略の一環なのだ、と言ってもそれほど失礼ではないかと思う、現実には、生きながらえることのできた「党員」であれ「シンパ」であれ、ほとんどが、多かれ少なかれ「転向者」であらざるを得なかったと思われ、そのような膨大な「転向者」たちの群によってこそ、戦後の「党」を創設していかなければならない状況だったにもかかわらず、いや、そういう状況だったからこそ、なんだろうな、・・・、それにしても、十年以上も以前に、病と失意の中で亡くなっていったであろう若き「死者」を、これほどまでに、「鞭打つ」言葉使いの方が、よほど「病的」なものに感じられたものだ、もちろん、この文脈の中でだから、これ以上くどくど言う必要はないでしょう、言うまでもなく、「転向」もまた、「死」の「隠喩」なのです、だから、その「穢れ」が、自分に「感染」しないように、必死になって、攻撃的になってでも、それを、自分たちの領域から、「排除」し続けなければならない、その動機は、十分に、見て取ることが出来るわけです、・・・、「その後の経過」といったものまで、彼らの責めに帰すのは、フェアではありませんが、傍観者の感想として、示唆的であるのは、この二人、徳田球一、志賀義男、彼ら自身もまた、ある種の「転向者」的な、「穢れ」を背負わされた上で、「放逐」された、という事実でしょう、前者、朴訥であること以外に、それほど魅力があるとは伝えられていない、この、沖縄出身のコミュニストは、私の理解で正しいのかどうか断言できませんが、「所感派」の「50年代武装闘争」、「極左冒険主義」の「誤り」を、一身に背負わされた上で、まるで見捨てられたように、北京に客死することになるだろうし、後者は、親ソ連派「日本のこえ」、すなわち「裏切り者」の「汚名」を着せられることになる、・・・、なんだかこうして並べて書いてみると、「日本共産党」が、その数々の、あまりにも数々の「裏切り者」たちを排除していった手つきが、まさに高橋貞樹が描くところの、「穢●多●」を賤視する「仏徒」と、重なり合ってしまうような錯覚さえ覚える、・・・、レヴィ=ストロースが、サルトルに関して述べたように、これは、まことに、「人類誌的」な、研究対象なのだ、というべきなのでしょう、・・・、あまりに些末な例え話で申し訳ないですが、もう五年も前になるのか、辺野古のゲート前で、つまらない「暴れ方」をして、一晩名護警察署の留置所にお世話になったことがあったのですが、出て来て見ると、もちろん、「英雄」扱いで迎えてくださいましたが、時折、どこか、冷たい空気が流れたような気がした、気のせいかもしれないが、それも、ある種「逮捕される」という事実が、「穢れ」として、受け取られうることを示している訳で、そういう意味では、これまた、いい経験だった、というべきなのでしょう、・・・、そのとき、こんな、文章を書きましたから、付け加えておきます、
「語る」ためには、少なくとも一人の「聞き手」が必要、それは誰でもいい、行きずりの隣人であって構わない、私たちはそのような隣人として名乗りを上げるべきだった。
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徳田球一(1894-1953)は、名護の出身、「系譜」的には、生粋の「うちなーんちゅ」とは言えず、薩摩藩士族、つまり、「植民地主義者」の、地方官としての入植者の末裔、ということのようだが、私が住んでいた頃、ある種の「名誉回復」の動きなんだろう、市立図書館のギャラリーで、回顧展が開かれたのを記憶している、・・・、同じく名護出身、こちらは、アメリカ合衆国に移民、その地で「アメリカ合衆国共産党(CPUSA)」入党、「コミンテルン」のエージェントとして帰国、「ゾルゲ事件」への関与で、投獄、獄死した画家の宮城与徳(1903-1943)、のものと並んで、名護のどこかの公園に、顕彰碑が立っているらしい、・・・、便利な時代で、今、「検索」してみると、ちゃんと「徳田球一記念碑」の記事が見つかった、名護市城2-4-8、とのこと、いわゆる、有名な「ひんぷん・ガジュマル」、「ひんぷん」とは、家屋の前に立てられる「魔除け」の壁、名護の街自身の「ひんぷん」であるかの如くに、枝を広げて道路を塞いでくれているガジュマル(クワ科イチジク属)の巨木をそう呼ぶ、のすぐそばではないか?、・・・、一度訪れたいと思っているのだが、何しろ、私自身が、それこそ、辺野古の運動に関しての、「敵前逃亡」、「戦線離脱」、「転向者」である、との「罪悪感」のゆえ、「名護」という「方角」自体が、いわば「鬼門」になっている感さえあるから、なかなか足を運ぼうという気になれない、「老衰」も進んで(笑)、高速道路を使うなんて贅沢は問題外(笑)、一般道を2時間ばかりも運転する自信もなくなってきたしね、・・・、不思議なことだが、20年暮らしてきた那覇よりも、たった一年足らずしかいなかった、名護の方が、ときに切なく懐かしい、永遠に失われてしまったたくさんのものたちとつながっているから、それこそ、ある種の「喪の作業」の感覚が、そうさせているのであろう、ならば、「故郷は、遠くにありて想うもの」のままにして置くべきなのかもしれないけれども、・・・、以下の記事も参照↓
敗者によって書かれる歴史、日本共●産党「50年問題」・序論
敗者によって書かれる歴史、日本共●産党「50年問題」・続き

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「獄中十八年」徳田球一/志賀 義雄(講談社文芸文庫)
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柳美里「JR上野駅公園口」、というこの小説は、まことに比類なきもの、というべきで、ほんとうは、もっと、書くべきことがあるような気がしているのだけれど、とてもまとまったことはいえそうにないので、このあたりで、一応切り上げておくことにします、・・・、
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上の方で、「歎異抄」に触れた縁で、ついで、と言ってはなんだが、「悪人正機」談義をもって、本稿を終わろうかと思う(笑)、・・・、
善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なお往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善じりきさぜんの人は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土しんじつほうどの往生をとぐるなり。煩悩具足ぼんのうぐそくのわれらはいずれの行にても生死しょうじをはなるることあるべからざるをあはれみたまひて願をおこしたまふ本意ほんい、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因しょういんなり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人は、とおほそうらいき。
「歎異抄」(本願寺出版)・第三条
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「悪人正機」という観念は、さすがにその「家庭環境」からか(笑)、子供の頃からなじんでいたようだから、ちょっと「詭弁」っぽい、少なくとも「修辞的/レトリカル」なものだから、真・に・受・け・る・こともない、とは感じていたものの、そんなに「違和感」なく、受け入れられていたのだとは思う、ずっと後年になって、ふたたび気になりはじめた、としたら、それは、唐突ではあるが(笑)、「革命」の問題だったかもしれない、・・・、「○○政権は許せない!」、と、あなたは言う、「ネト●ウヨ」は、「レイシスト」は、「人間のクズだ」、と、あなたは言う、そうなんだ、「クズ」なんだ、あの、私も「クズ」かも知れないんですけど?「よい」人間が、「悪い」人間を「打倒」して「よい」人間の世界を作ることが「革命」なんだったら、私なんかは、お呼びでないかもしれないね?・・・ウィリアム・モリス「ユートピアだより」を、大変美しい物語だと感じつつ読み進んでいたのだけど、夢の中に「革命」後の「理想的」、つまり、「ユートピア的」な世界が描かれるわけだが、そこでは実に、ただ一人として「美しくない」人はおらず、皆がことごとく「美しい」人、に、な・る・、のである、子供の頃から自らの容貌や性格に劣等感を抱いていました、という人は、私に限らずたくさんたくさん存在するだろうし、おそらくそんな人たちにとって、大いなる関心事は、自分は、果たして「救済」されるのだろうか?ということではなかったかしら、・・・、「精神労働」と「肉体労働」の「差別」といういわば最後の難関を突破できたとしても、「美/醜」の「差別」だけは残りそうな気がする、その極めつけの部分を、「芸術家」でもあるマルクス主義者、ウィリアム・モリスは、いとも簡単に「かわして」しまったのだ、と絶望し(笑)、そこでその本も、投げだしてしまった、「醜い」ものを、いや本当は美しいのだ、と言・い・く・る・め・る・のではなく、いや、むしろ、「醜い」からこ・そ・凄いんだ、とどこかで、それこそ「レトリカル」であっても、転倒させて、強弁しなければならなかったんじゃなかったかね?J.D.サリンジャー「フラニーとゾーイー」の中で、フラニーが「受話器を握りしめながら」感動して立ちつくす、その「太っちょのオバサマを愛しなさい」という言葉こそ、「悪人正機」にも通ずる、そのような「転倒」を表象しているのでは、・・・、と、言うつもりなのだが、こうして言葉にしてみると、なんだかあまりに凡庸で(笑)、あの「天啓」にも似た感覚が、すでに揮発してしまっていることに、いつも、気付くのだった、
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「出家とその弟子」倉田百三、「フラニーとゾーイー」J.D.サリンジャー、による「宗教的啓示」について↓
「尊厳」という言葉を、私は好まないが、もし無理にでも(笑)定義するなら、「生」を、従って、「死」を、個体毎に、別様に取り扱うべきことだ、と、言おう。

「ユートピアだより」ウィリアム・モリス(岩波文庫)/「フラニーとゾーイー」J.D.サリンジャー(新潮文庫)/「出家とその弟子」倉田百三(岩波文庫)
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・・・シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もどこにもおらんのだ。それがきみには分からんかね?この秘密がまだきみには分からんのか?それから―よく聞いてくれよーこの『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?・・・・・・ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」
嬉しさのあまりであろう、フラニーは、受話器を、両手まで使って、握りしめているよりほかに仕方なかった。
「フラニーとゾーイー」J.D.サリンジャー(新潮文庫)
... There isn't anyone anywhere that isn't Seymour's Fat Lady. Don't you know that? Don't you know that goddam secret yet? And don't you know--listen to me, now--don't you know who that Fat Lady really is?... Ah, buddy. Ah, buddy. It's Christ Himself. Christ Himself, buddy."
For joy, apparently, it was all Franny could do to hold the phone, even with both hands.
Franny and Zooey(1961)/J. D. Salinger

J.D.サリンジャーJ. D. Salinger/Jerome David Salinger(1919-2010)、ニューヨーク生まれ、父親は、リトアニア系ユダヤ人の系譜を有する、「カーシェールKosher」、ユダヤ教の戒律に従って処理された食品、のチーズを商う商人、父方の祖父は、ユダヤ教のラビであった、・・・、父のファーストネームはソルSol、以前、セィディー・スミス「ホワイト・ティース」で、クララとアルサナたちが、通りかかった公園管理人の男性が、どうして「ユダヤ人」と分かったか、いや、筆者が、どうして、彼らが「分かった」と「設定」することが出来たのか?と疑問に思って調べたのだが、「Sol」は「ソロモン王」に由来する、とも言われ、確かに「ユダヤ系」に多いファースト・ネームであることが分かったのだった、・・・、
続「ホワイト・ティース」、ファースト・ネームを聞いただけで、「歴史」が開示されてしまうこと、そして、「ギリシャ内戦」から、米原万里、など
サリンジャーの年譜に戻ると、・・・、母親は、ドイツ系、アイルランド系、スコットランド系の系譜をもつ、彼の少年時代、家族はパーク・アヴェニュー、セントラル・パークの東三筋目の通りだ、おそらく「高級住宅地」なんだろう、に引越した、とあるが、それ以前どこに住んでいたのかは書かれていない、・・・、マイケル・ゴールド「金のないユダヤ人」で、筆者の育ったマンハッタン島の南東端、ロワー・イーストサイドが、貧しいユダヤ人集住地域として描かれているのを見たが、たとえば、その区域からは、遠く離れた場所だ、・・・、
「金のないユダヤ人たち」、マイケル・ゴールド、という作家とともに、「ローワー・イースト・サイド」を歩いてみる
・・・、1942年、徴兵を受け、1944年6月6日の「ノルマンディー上陸作戦D-Day/Normandy landings」に参加、ということは、ごく近くに、従軍記者、ロバート・キャパ、がいたことになる、
「褐色の肌を持った人々は、目に入らないに等しい」ことの、正直すぎる告白、ロバート・キャパ、ジョージ・オーウェル、フランツ・ファノン、そして「セネガル歩兵連隊」、を探して・・・それから、ナツメヤシ文化とアブラヤシ文化、川田順造「マグレブ紀行」
そして、ノルマンディーからドイツへと行軍する過程で、ヘミングウェイに会っているらしい、これも、キャパの「ちょっとピンぼけ」に出てくる、・・・、「国際旅団」で、コミンテルン公式見解をうのみにしたとしか思えない罵詈讒謗で「POUM」やアナキスト描き出している「誰がために・・・」の一節を読んで以来、私は、この作家に、ある種「頭にきている」ところがあるので、思わず悪口が飛び出してしまうが、・・・、おそらく、実際、銃器の操作等には熟達していたのであろうが、ジープを乗り回し、自分の「崇拝者」、キャパや、そして、サリンジャーも含まれることになるのだろう、の若者たちを引き連れて、得意そうに戦場を闊歩しているさまは、「乱痴気騒ぎ」としか思えない、という印象を持ってしまったが、・・・、しかし、サリンジャーは、戦場でのヘミングウェイにとても良い印象を抱いたそうで、交友は長く続くことになるという、・・・、その後、フランス語、ドイツ語が堪能であったことから、諜報部門で、戦時捕虜POW/prisoners of war、尋問の任務につく、1945年4月、「ダッハウDachau収容所」の補助施設である「カウフェリングKaufering第4収容所」の解放に立ち会う、この経験は、重い精神的負担となったようで、ドイツ降伏後、「戦闘ストレス反応Combat stress reaction(CSR)」数週間の入院を要したらしい、戦後もしばらくの間、ドイツにおいて、「対敵諜報部隊Counterintelligence Corps」で「非ナチ化」の任務につく、・・・、
1940年代末から、禅宗仏教に関心を抱き、鈴木大拙に会ったりもしている、・・・、
1948年「バナナフィッシュにうってつけの日A Perfect Day for Bananafish」(「ナイン・ストーリーズNine Stories」所収)
1951年「ライ麦畑でつかまえてThe Catcher in the Rye」
1961年「フラニーとゾーイーFranny and Zooey」
1963年「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア-序章-Raise High the Roof Beam, Carpenters and Seymour: An Introduction」

ニューヨーク

ドイツ
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ここでサリンジャーが「太っちょのオバサマFat Lady」という言葉で指示しているものが、親鸞の「悪人」にほかならない、と、これは、ある晩(笑)、ほとんど「啓示」の如く分かった、という記憶があるのでした、ならば、さらに調子に乗って、「太っちょのオバサマ」こそ「キリスト」なのだ、に、「あの人に一体、何が出来ましょう。なんにも出来やしないのです。私から見れば青二才だ。私がもし居らなかったらあの人は、もう、とうの昔、あの無能でとんまの弟子たちと、どこかの野原でのたれ死していたに違いない」、と、イスカリオテのユダの眼差しを借りて描写された、太宰治「駆け込み訴え」のキリスト、を読み込むことも出来ようというものだ、・・・、「フラニーとゾーイ―」の英語版が、ネットでタダで読めるようなので、掲げてみたまでで、・・・





オウレド・ハムラOuled Hamlaは、アルジェの東南東300キロ、地中海の海岸からは100キロほど、「Ouled」を冠した地名は多いが、この言葉は、マグレブのアラビア語で、「~の息子たち」の意であるらしい
أولاد

アルジェリア
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休戦協定が締結された「エヴィアン・レ・べÉvian-les-Bains」は、リヨン東北東100キロ、スイス国境をなすレマン湖南岸の町、「bain」は、風呂、海水浴場、の意

フランス
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ムジャヒデンmujahideen、アラビア語、正義のために戦う人々、「ジハード/聖戦」を実行する人々
مُجَاهِدِين
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アリ・ブーメンジェルAli Boumendjel(1919-1957)、アルジェ西南西200キロほどの、レリザンRelizane生まれ、アルジェ南西郊外ブリダBlidaの大学で学ぶ、法律家を目指すかたわら、同化主義的な雑誌である「エガリテEgalité」誌のジャーナリストとなる、革命が始まると、民族主義者を救援する弁護士として働き、1955年には、「民族解放戦線National Liberation Front(FLN)」に加盟、フランス軍の徴兵を拒否したことから、危険な民族主義者としてブラック・リスト化され、1957年2月9日、逮捕、一ヶ月以上にわたる拷問の末、アルジェ北東郊外、エル・ビアールEl Biarのビルの6階から、突き落とされた、上の記述にあるように、「自殺」を装うためであった

アルジェ付近
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ゾホラ・ドリフZohra Drif(1934-)、アルジェ南西150キロのティッセムスリトTissemsilt生まれ、元独立運動戦士、元弁護士、現在、アルジェリア上院副議長、1956年の「ミルク・バー・カフェ爆破事件Milk Bar Café bombing」の実行犯として(1956年9月、3件の同時多発爆弾事件の一つ、3人の若い女性が死亡、多くのけが人が出た、犯行後、1957年10月までカスバの隠れ家に潜行していたが、フランス軍部隊による捜索時に発見された)、1958年に懲役二十年の判決を受けるが、1962年の独立時、シャルル・ド・ゴールの特赦で釈放、獄中で法律を学び、独立後は弁護士として活躍、1980年代、イスラム派の台頭の中で、(アルジェリアが内戦状態を経験するのは、「イスラム救国戦線Islamic Salvation Front」が勝利した選挙が無効とされた1991年から、2002年までであった)制定された「家族法Code de la Famille」の強力な反対者であった、多くの「FLN」の独立英雄と同じく、政権中枢を独占する特権階級を形成しているとして、若い世代からは、批判を受けているとも言われる
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ヤセフ・サーディYacef Saadi(1928-2021)、アルジェAlgiers生まれ、1945年、「アルジェリア人民党Parti du Peuple Algérien」入党、フランス当局によって同党が非合法化された後は、その後継政党である「自由と民主主義の勝利のための運動Mouvement pour le Triomphe des Libertes Democratiques(MTLD)」に加盟、1947年から1949年、同党の準軍事部門「秘密組織Organisation Secrete」のメンバーとして任務につく、同組織の崩壊後、1952年までフランス在住、アルジェリアに戻って、パン職人となる、1954年、「FLN」入党、1956年まで、「アルジェ自治区域Zone Autonome d'Alger」の軍事部門のリーダー、1957年逮捕、死刑宣告、ドゴールによる特赦で釈放
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「アルジェの戦いThe Battle of Algiers(1966)」ジロ・ポンテコルヴォGillo Pontecorvo(アマゾン・プライム・ヴィデオ)
ジロ・ポンテコルヴォGillo Pontecorvo(1919–2006)、ピサの、世俗的なユダヤ人家庭に生まれる、1938年、ファシスト政権(1922-1943)下の反ユダヤ主義の台頭を逃れてパリへ、そこで、オランダの映画作家にしてマルクス主義者の、ヨリス・イヴェンスJoris Ivens(1898-1989)の下で、最初の映画の仕事につく、パリでは、パブロ・ピカソPablo Picasso(1881-1973)、イゴール・ストラヴィンスキーIgor Stravinsky(1882-1971)、ジャン・ポール・サルトルJean-Paul Sartr(1905-1980)等と親交を結ぶ、1941年、イタリア共産党に入党、イタリア北部で反ファシスト・レジスタンス組織の任務につく、1943年から1945年、ミラノ地区レジスタンスのリーダー、戦後は、共産党系の雑誌の編集などに携わるが、1956年、ハンガリーの労働者蜂起へのソ連軍の介入、弾圧に抗議して、共産党を脱党、1957年から再び映画の仕事を始めるが、きっかけとなったのは、ロベルト・ロッセリーニRoberto Rossellini(1906-1977)の「戦火のかなたPaisà(1946)」であったと言われる

イタリア
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ラルビ・ベン・ムヒィディLarbi Ben M'hidi(1923-1957)
コンスタンティン郡Constantineアイン・ミリラAin M'lilaに生まれ、第二次世界大戦中、メサリ・ハジMessali Hadj率いる「アルジェリア人民党Algerian People's Party(PPA)」に加入、1945年5月のセティフ蜂起の翌日逮捕、・・・、PPAは蜂起後に解散、「民主的自由の勝利のための運動Movement for the Triumph of Democratic Liberties(MTLD)」へと再編されたが、その路線に飽き足らない、ベン・ムヒィディらは、1954年3月、「統一と行動のための革命的委員会Revolutionary Committee of Unity and Action(CRUA)」を結成、これが、同年5月~6月、「民族解放戦線National Liberation Front(FLN)」および「民族解放軍National Liberation Army(ALN)」となる、後に「トゥーサン・ルージュ(赤い諸聖人の日)Toussaint Rouge/Red All Saints Day」と呼ばれることになる、「アルジェリア戦争」の端緒となった蜂起が、同年11月、ベン・ムヒィディは、オランOranでの任務を担当していた、1956年8月、アルジェにおける指揮につき、「アルジェの戦いBattle of Algiers」開始の責任者となる、同年9月30日の「ミルク・バー・カフェ爆破事件」を始めとする、ヨーロッパ人を標的とした爆弾闘争、1957年1月に始まるカスバのストライキを指導、これは、開催中の国連総会に向けて、アルジェリア情勢をアピールするものであった、・・・、1957年2月23日逮捕、尋問に当たったマルセル・ビジャールMarcel Bigeard(1916-2010)は、みずからが対独レジスタンスの経験を持っていたからであろうか、ベン・ムヒィディの人格に信服していた、と伝えられる、・・・、映画の中では、記者会見での問答の形をとっているが、
あなたは、女たちに爆弾入りの籠を運ばせたりする行為を恥ずかしいと思わないのか?
ならば、私にあんたたちの飛行機をくれ、代わりに籠を差し上げるよ
との会話は、ビジャールとの会話だったようである、(これは、wikipedia英語版の中での引用、映画の中での記者とのやりとりは、以下のようになっている、・・・、
フランス人とおぼしき記者:ベン・ムヒィディさん、女性に爆弾を運ばせ、一般市民を殺害するのは卑劣では?
手錠をかけられたままのベン・ムヒィディ:その何倍もの村民をナパーム弾で殺すのは?それは卑劣ではないのか?もちろん飛行機の方が便利だ、爆弾入りのカゴと爆撃機を交換するか?)・・・、
このようなビジャール、映画の中では、この人物が、マチュー大佐、に対応するのかもしれない、・・・、の生・ぬ・る・い・尋問手法に業を煮やした当局は、ようやく2000年になって、アルジェリアにおいて拷問が頻繁に用いられていた事実を告白した、として、上のアル・ジャジーラ記事にも登場する、ポール・オーサレスPaul Aussaresses(1918-2013)に、ムヒィディの身柄を引き渡す、オーサレスの下で、ムヒィディは拷問を受け、おそらくその過程で殺害され、やはり上の記事にあったアリ・ブーメンジェル氏Ali Boumendjelの場合同様、首つり自殺に偽装された、死亡が公表されたのが、1957年3月6日、・・・、アルジェ大学にほど近い街路に、彼にちなんで命名された、「ラルビ・ベン・ムヒィディ通りRue Larbi Ben M'hidi」がある
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カスバのストライキの直後、フランス当局が、拡声器で、住民に呼びかけている、「『FLN』は壊滅した、反乱軍に加担するのはやめろ、○○も逮捕されたarrêté、△△も逮捕されたarrêté、・・・」とくりかえされる人名を書き写してみたが、・・・、ジベル・アマリカ、シャイフ・アブダラ、カドゥール・オマール・ベン・アリ、セラール・ヌーレディン、ムジド・ベン・アリ、アブー・ラセニ、・・・、適当な綴り字を思いついて検索してみたものの、一つも該当しなかったから、これは架空の名前なのだろう、しかし、その直後に映し出される、ラルビ・ベン・ムヒィディだけは、実在の人物の実際のエピソードだったわけである、
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アルベール・カミュの自伝的記述によれば、フランスに居住していたこの作家が、アルジェに一人暮らしの母を訪問するのが、「40歳の時」、カミュの生年は1913年であるから、1953年、ということになるが、映画「最初の人間」の中では、これが、「1957年初夏」に、変更されていることは、下に掲げた記事の中に、書いた、・・・、アルジェ大学で講演を行うシーンがあるから、彼が、1957年にノーベル文学賞を受賞、すでに「有名人」になっていなければならない、ことと辻褄を合わせるのがその動機では、と憶測してみたが、さらに、母の住むアパートの窓から、爆発音が聞こえ、駆け付けてみる、フランス人、ないし「ピエド・ノワール」の集うカフェが爆弾攻撃の標的となったことを知る、というシーン、その映像が、この「アルジェの戦い」に描かれた「ミルク・バー・カフェ」と、似ている気がした、考えて見れば、どちらの映画も、イタリアの映画作家の作品なのだし、「引用」、「参照」という関係は、大いにありうるとも思える、残念ながら、「最初の人間」は無料で観れる期限は過ぎてしまっているようなので、確かめることはできなかったが、・・・、いずれにしても、アルベール・カミュ、作中では、ジャック・コルムリー、が、母親の家の間近で生じた「テロリズム」事件を目の当たりにして、アラブ人の独立運動に共感を示しつつも、葛藤する、ということを強く印象付けるには、彼のアルジェ訪問が、FLNの「アルジェの戦い」開始直後でなければならなかった、ということなんだろう
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この映画の監督、ジロ・ポンテコルヴォの略歴を見ていて「ヨリス・イヴェンス」なる名前におぼろげな記憶があることに気付いた、1990年代、まだ、京都にいる頃、あるいは、「追悼」特集だったのかもしれない、どこかの名画座で、何本か作品を観たはずだ、その時代の風潮でもあろうが、チラシなどの紹介文は、素人目には、何だがペダンチックな粉飾に満ちあふれてはいるものの、この監督が、そんな、確信的なマルクス主義者だった、などという基本的な事実は、すこしも書かれていなかった気がする、結局、作品の印象も、あいまいなままに終わってしまっていたのが、今となっては、残念ではあるが、仕方がない、・・・、
ヨリス・イヴェンスJoris Ivens(1898-1989)、オランダのドキュメンタリー映画作家、スペイン内戦を描いた「The Spanish Earth(1937)」は、アーネスト・ヘミングウェイErnest Hemingway(1899-1961)と共作、ジャン・ルノワールJean Renoir(1894-1979)がフランス語ナレーション、英語ナレーションは、当初オーソン・ウェルズOrson Welles(1915-1985)だったが、あまりに演劇的に過ぎるため、ヘミングウェイに切り替えられたという、制作資金出資者の中には、リリアン・ヘルマンLillian Hellman(1905-1984)の名がみえる、日中戦争での中国軍の抵抗を描いた「The 400 Million(1939)」では、ロバート・キャパRobert Capa(1913-1954)が撮影、ハンス・アイスラーHanns Eisler(1892-1962)が音楽を担当している、国民党政府は、あまりに共産党路線に近づいているとして、このフィルムに検閲を加えた、と言われる、1940年代、「赤狩りRed Scare」が始まると同時に、アメリカ合衆国を逃れて、ヨーロッパへ戻る・・・この記事とは直接関係ないが、興味深い名前だったので、・・・、

「The Spanish Earth(1937)」ヨリス・イヴェンスJoris Ivens(アマゾン・プライム・ヴィデオ)
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「ヒラクHirak」、2019年から2021年のアルジェリアの抗議運動を主導した運動体、アラビア語で「運動」を表す言葉、に由来する
الحِرَاك
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アルベール・カミュ「最初の人間」、および、その映画化、から、独立戦争時のアルジェリアの諸事件、そして、独立運動を支持しつつも、フランス人入植者「ピエド・ノワール」の子孫として、入植者民間人へのテロ行為を間近に目撃することで葛藤するカミュ自身、それが背景となったであろう、「革命か反抗か」における、サルトル・カミュ論争、などをたどった記事↓、「人民党」と「FLN」との関係についての記述もある
60年前の、パリのサンミッシェル橋の事件、の記事から、アルベール・カミュの葛藤、「板挟み」に「身を寄せて」みること、「最初の人間」を読み、観る


グレアム・グリーン「喜劇役者」は、パパ・ドク・デュバリエ独裁下のハイチを舞台に、語り手のアメリカ人が、コミュニストの革命派を、国境を越えて、ドミニカ共和国へと脱出させる手伝いをする、という物語、・・・、それを読んだときに調べた、両国の略史を、再録しておく、・・・、
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ドミニカ共和国
1916アメリカ海兵隊上陸。1922まで占領。
1924大統領選挙、ホラシオ・バスケスHoracio Vásquez。警察長官ラファエル・トルヒーヨRafael Trujillo中佐。
1930クーデター、トルヒーヨ大統領就任。1961まで。
1937ハイチ系住民に対する、パセリ大虐殺Parsley Massacre、「パセリ」に該当するスペイン語をハイチ系住民が発音できなかったことから、尋問に用いられた。
1960ミラベル姉妹、共産主義者であるとの容疑を受けて暗殺Mirabal sisters。
1961トルヒーヨ暗殺、CIAの供与した武器によって。
1963左派のフアン・ボッシュJuan Bosch大統領選出。
1965クーデター。親ボッシュ派の抵抗運動激化、米大統領リンドン・ジョンソン、「第二のキューバ」を警戒し、介入を決定。海兵隊、続いて陸軍上陸。
1966トルヒーヨ派のホアキン・バラゲールJoaquín Balaguer大統領選出(-1978、1986-1996)。
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ハイチ
1957パパ・ドク・デュバリエ、大統領選出。
1958クーデター鎮圧。
1959トントン・マクートTonton Macoute創設。
1961大統領選挙、パパ・ドク、単独候補者として、「全会一致」再選。
1962ケネディ大統領下のアメリカ合衆国、ハイチへの経済援助停止。
1963ケネディ暗殺後、ハイチへの制裁緩和。「共産主義への防波堤」として。
1964パパ・ドク、「終身大統領」を宣言。
(1957-1971「パパ・ドク」デュバリエ大統領Dr. François Duvalier "Papa Doc")
1971-1986「ベィビー・ドク」デュバリエ大統領 Jean-Claude "Baby Doc" Duvalier
1986デュバリエ追放、ナンフィー将軍Henri Namphy
1988七月クーデター(June 1988 Haitian coup d'état)、九月クーデター(September 1988 Haitian coup d'état)
1990アリスティド大統領Jean-Bertrand Aristide
1991クーデター(1991 Haitian coup d'état)
1994米軍介入Operation Uphold Democracy、アリスティド大統領Jean-Bertrand Aristide
以降も政治的動乱は続くが、それに加えて甚大な自然災害が続いた。
1994ハリケーン・ゴードンHurricane Gordon
2004トロピカル・ストーム・ジャンヌTropical Storm Jeanne
2010 1月12日、マグニチュード7.0の大地震
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上の記事中に言及されている、1937年のトルヒージョ治下のドミニカ共和国におけるハイチ系住民虐殺は、「パセリ大虐殺」を指しているのであろう、パセリに当たるスペイン語の「perejil」の「r」音が、ドミニカ共和国の公用語であるスペイン語と、ハイチ系住民の用いるフランス語ないしハイチ・クレオールとで、著しく異なったことから、ドミニカ警察が、尋問の際に、これを発音させる、という手法をとったことに由来する
・・・
以下の記事参照↓
「そんなことをマルクスがどこに書いたのか、わたしは知りません」とマジオ博士は不賛成の意を表して言った・・・「喜劇役者」グレアム・グリーンを読む
また、以下は、キューバの作家、アレッホ・カルペンティエールが、フランス革命直後の、世界最初の「黒人革命」たる「ハイチ革命」を題材にして書いた、「この世の王国」、などについて触れている↓
「マルーン」とは、どんな色か?マルコムXから、マッカンダルへ
「百科全書派の思想にかぶれた素性の卑しい自由主義者たち」とは誰だろう?カルペンティエール「この世の王国」続論、からカエタノ・ベローソ、グレアム・グリーン「喜劇役者」

イスパニョーラ島、ハイチ/ドミニカ共和国地図

キューバ、ジャマイカ、ハイチ、ドミニカ共和国、プエルト・リコ(大アンティール諸島Greater Antilles)地図




「The Spanish Earth(1937)」ヨリス・イヴェンスJoris Ivens(アマゾン・プライム・ヴィデオ)
「The Spanish Earth(1937)」ヨリス・イヴェンスJoris Ivens(1898-1989)

The Spanish Earth・・・こちらはオーソン・ウェルズがナレーションしているヴァージョンではなかろうか?

The Spanish Earth・・・こちらは、ヘミングウェイのナレーション
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映画の冒頭は、マドリッド南東50キロほどにある、フエンティドゥエーニャFuentidueña de Tajoという村、人々が協力して、灌漑設備を作る計画を立てている、マドリッドとヴァレンシアを結ぶ幹線道路上にあって、共和国政府が、フランコ派からの攻撃にさらされているマドリッドへの食糧供給の要所となっている村であるらしい、フランコ派(映画の中では「rebel army」と呼ばれている、共和派は、「people's army」)は、その供給路を断つべく、そのヴァレンシア街道Valencia Roadの、ジャラマ川Rio Jaramaに架かる橋へ総攻撃を行う、その戦闘の模様が、映画の最後に近い部分になる、・・・、「国際旅団」を始めとする共和派部隊にたくさんの死傷者を出したこの戦闘について歌われた、「ジャラマ渓谷Jarama Valley」、を、ウッディ・ガスリーが歌っているらしい、・・・、
Jarama Valley/Woody Guthrie・・・(1)
Jarama Valley/Woody Guthrie・・・(2)
There's a valley in Spain called Jarama
it's a place that we all know so well
it was there that we fought against the fascists
we saw a peaceful valley turn to hell.
From this valley they say we are going
but don't hasten to bid us adieu
even though we lost the battle at Jarama
we'll set this valley free 'fore we're through.
We were men of the Lincoln battalion
we're proud of the fight that we made
we know that you people of the valley
will remember our Lincoln brigade.
...
You will never find peace with these fascists
you will never find friends such as we
so remember that valley of Jarama
and the people that'll set that valley free.
...
All this world is like this valley called Jarama
so green and so bright and so fair
no fascists can dwell in our valley
nor breathe in our new freedom's air.
...
スペインにはジャラマと呼ばれる谷があって
そこはみんながよく知っている
我々がファシストたちと戦った場所だからだ
平和な渓谷が、地獄のように変わってしまったのを我々は見たのだ
奴らは、我々が、この渓谷を死に場所にするのだという
でもちょっと待て、さよならを言うのはまだ早い
ジャラマ渓谷の戦いに、我々は敗れたとはいえ
我々が、消え果ててしまう前に、きっとこの渓谷を解放してみせる
我ら、「リンカーン軍団」の兵士たち
この戦いに参加できたことを誇りに感ずる
この渓谷の人々は、きっと「リンカーン軍団」のことを覚えておいてくれるに違いない
・・・
ファシストどもとの和平などありえない
我々の如き同志を見つけ出すのも容易なことではない
だから記憶せよ、ジャラマ渓谷と
その谷を解放しようとした人々を
・・・
この世界はことごとくジャラマと呼ばれる渓谷の如きだ
緑深く、明るく、美しい
この渓谷にファシストどもは住むことはできないし
自由の息吹を嗅ぎ取ることも出来やしない
・・・
上に掲げたYouTubeヴィデオ二本のうち、最初のものは、音楽をバックに、何枚もの写真が登場する、「私の大叔父が写っている」と書かれてあるそれには、「黒人」兵士が写っているから、おそらく、この人は、「国際旅団第15軍/XV International Brigade」、「アブラハム・リンカーン旅団Abraham Lincoln Brigade」所属の志願兵だった、アフリカ系アメリカ人だったのでは、と想像される、・・・、「スペイン内戦」を描いたものには、ヘミングウェイであれ、このボルケナウのものであれ、「有色人種」としては、ひたすら、「ムーア人/モーア人」、フランコが、植民地モロッコで徴兵したおそらくベルベル系の兵士たち、が「無慈悲」で「残虐」な「敵」として、憎々しげに描かれるばかりで、その意味では、その「話法narrative」は、すぐれて、「ヨーロッパ/白人」的と呼ばざるを得ない、とは思ってきたから、やや、「虚を突かれた」思いがした、・・・、wikipedia英語版、「International Brigades」、によれば、「国際旅団第15軍/XV International Brigade」に参加していたのは、上記、「アブラハム・リンカーン旅団」のほか、ウェールズ、スコットランド、アイルランド出身兵による「英国軍団British Battalion」、このうち、アイルランド人部隊は、「ジェイムズ・コノリー軍団James Connolly Company/Connolly Column」と呼ばれた、ブルガリアの共産主義者であり当時コミンテルン書記長であり、後にスターリンにより毒殺された、とも言われる、ジョルジ・ディミトロフGeorgi Dimitrov(1882-1949)、にちなんだ、バルカン諸国出身者たちからなる、「ディミトロフ軍団Dimitrov Battalion」、ベルギーとフランス出身者からなり、フランスにおける1934年の、人民戦線政府に対する、右翼のクーデター未遂事件にちなんで名付けられた、「2月6日軍団Sixth of February Battalion」、カナダ人からなる「マッケンジー・パピノー軍団Mackenzie–Papineau Battalion」、等が含まれていた、とのこと、・・・、思い起こされるのは、サリー・ルーニーの「普通の人たちNormal People」、・・・、アイルランドの政権は、右派の「フィニア・ゲイルFine Gael」と、元来は、「シン・フェイン」の分派に由来する「フィアナ・ファイルFianna Fáil」、が持ち回りのような形で担当してきたが、あるときの選挙について、ここでの登場人物たちは、みな、「共産党」に投票するようなのだが、・・・、
二議席は、「フィニア・ゲイルFine Gael」へ、もう一議席は、「シン・フェイン」が占めた。情けない結果だ、と、ロレーンは言う。一つの犯罪者集団と、もう一つの犯罪者集団を取り換えているだけだものね、と。彼はマリアンヌにテキスト・メッセージを送った:「FG政権だって、最悪」と。彼女の返事は、「どうせフランコの党じゃない!」。彼は、それがどういう意味か分からなかったから、調べて見なければならなくなった。
「普通の人たち」サリー・ルーニー
Two of the seats went to Fine Gael and other to Sinn Féin. Lorraine said it was a disgrace. Swapping one crowd of criminals for another, she said. He texted Marianne:fg in government, fucks sake. She texted back:The party of Franco. He had to look up what that meant.
Normal People/Sally Rooney(Faber & Faber)

私もまた、「調べて見なければならなくなった」わけだが、以下のどれかの記事に書いたと思うが、元来「シン・フェイン」もまた、強力な「カトリック主義」者であり、ポルトガルのサラザール独裁政権に親近感を表明していたほどであるから、スペイン内戦時、スペインの「共和派」に支持を与えることは、「反カトリック的」として、アイルランドの「共和派」にとっては、「シン・フェイン」にとってさえ、ありえないことだったようである、「FG」が「フランコの党」なのは、そういう意味のようだ、・・・、だとすれば、「ジェイムズ・コノリー軍団Connolly Column」に参加したのは、少数派であったであろう、共産主義者、社会主義者だったのだろう、と想像される、・・・、
「アイルランド社会主義共和党Irish Socialist Republican Party(ISRP)」創設者にして、1916年「イースター蜂起」の指導者として、処刑された、「ジェイムズ・コノリーJames Connolly(1868-1916)」などについては、以下参照↓
犬が西向きゃ・・・、と申しますが、サリー・ルーニーという、1991年生まれの作家の、「ファン」になってみる(笑)
逆に、愛着を示され過ぎると、今度は、こっちの方が、後ずさりして縮こまらなければならなかった、まるでヤマアラシみたいに・・・「サリー・ルーニー」読み、は、続き、ダブリンの街角に「イースターの月曜日」の残響を聴くことになる
「デレヴォーン セローン」、一世紀にわたって、人々の探求の対象となってきたのだから、私の如き者の出番はない(笑)ことに早く気付くべきであった・・・ジョイス「ダブリン市民」読み、は続く、「トリニティー・カレッジ」から、アーウィン・シュレディンガーに関する追想、など
「ネルソン・ピラー」、司馬遼太郎、「ペンテコステ」再論、「鉄道路線図」への偏執とか、・・・、「19世紀社会主義」の「豪華絢爛、波瀾万丈」をたどるのが胸苦しいのは、すでにエンディングがわかっている映画を逆回しに観る感じ?ジェイムス・コノリー
ロディとノラ、ジェイムズ・コノリーの二人の子供に、「分割承継」されて「体現」されてしまったかもしれない、「社会主義」と「民族主義」、堺利彦、ウィリアム・モリス、そして、ジョイスとオスカー・ワイルドの「社会主義」
17世紀のスウィフトまで遡る?、「聖パトリックの日」パレードについて知りたかったこと、ふたたび、倫敦の漱石、「クレイグ先生」とオーウェル
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ちなみにサリー・ルーニー氏は、確か、1991年生まれ、物心ついたころから、すでに「スマートフォン」とは言わずとも、「携帯電話」を手にしてきた世代、古い英和辞典には、「text」に動詞としての用法なんて載ってない、もちろん、「テキスト・メッセージを送る」という「新語」なのである
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上の「ロディとノラ」の記事の中に、「ジェイムズ・コノリー軍団Connolly Column」の由来が書かれている、自分で書いて忘れていた、再録しておく↓
「イギリス―アイルランド条約」締結によって、北アイルランドをイギリス占領下に置いたまま、南部に「アイルランド自由国」が形成されるが、これをめぐって、「独立戦争」を戦った「IRA」に分裂が生じた、「自由国」内では、「IRA」の兵士が、国軍として編成されたが、反条約派は「IRA」を名乗り続け、「自由国」側からは、「Irregulars(非正規軍)」と呼ばれた、また、一方、北アイルランドの「IRA」は、条約そのものに賛成ではなくとも、親条約派であったかつての「IRA」にシンパシーを有していたようで、これも並行して「IRA」を名乗り続けることとなったのである、・・・、その「反条約派・IRA」から、共産党支持者が離脱して、1934年に形成したのが、「共和国会議Republican Congress」、はっきりそうは書かれていないので想像でしかないが、1933年のドイツにおけるナチの政権掌握を受けて、コミンテルンは、「人民戦線路線Popular front」を打ち出すが、この「共和国会議」もその一環であったかもしれず、やはり、党というよりは、「統一戦線」組織であったようで、「コノリー部隊Connolly Column」という軍事部門も有しており、「国際旅団」の一翼として、「スペイン内戦」に従軍している、・・・、「イギリス―アイルランド条約Anglo-Irish Treaty」、は1921年、
補遺:下の方で、「ラ・パッショナリア」の項で述べることになるが、ディミトロフが、コミンテルン第7回大会で、「反ファシズム人民戦線」を提唱するのは、1935年、ということは、この「共和国会議」が、その路線の下に結成された、というのはあり得ないことになる
補遺:フランスの「2月6日」の「クーデター未遂」当時の政府が、「1934年の、人民戦線政府」とあるが、上と同様、矛盾がある、長くなるので次回「延安の、洞窟の家の扉に貼られていたかもしれないスペイン共和国のポスター、アグネス・スメドレー、「『味方』の戦線内部の『敵』/エネミー・ウィズィン」という話型について、など、「老トロツキスト」の饒舌は続いて」へ
・・・
それから、ウッディ・ガスリーについては、以下の記事参照↓
ポール・ローブソン、ウッディ・ガスリー、そして、「革命的美学」へのオブセッション
「植民者」の末裔がそんなユートピア的逸脱にふけることができるのもまた、一つの「特権」なのだ・・・ウッディ・ガスリーの一つの歌をめぐって
大統領就任式で歌われたフォーク・ソングの定番から、ウッディ・ガスリーの生い立ちとその「トラウマ」経験へ、・・・、「インディアン・テリトリー」としてのオクラホマの歴史、以前のタルサの「人種暴動」の記事ともつながった/グスタバス・スタットラーによる伝記の冒頭からの引用

ジャラマ川Rio Jarama流域図
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この映画が公開されたのが、1937年7月、「ジャラマ渓谷の戦いJarama Valley」、は、1937年2月6~27日、そして、リリアン・ヘルマンらが、映画撮影のための基金を設立したのが、1936年12月、とのことだから、撮影が行われたのは、1937年の前半、ということになろう、・・・、ヘミングウェイ「誰がために鐘は鳴る」、ジョージ・オーウェル「カタロニア賛歌」、どちらもちゃんと読んだのに、もちろん、どちらも、「個人的」な「従軍」、という経験に基づいて書かれているからでもあり、しかも、前者は、共産党、コミンテルン系「国際旅団」、後者は、「トロツキスト」系「POUM/マルクス主義統一労働者党」、という、この「内戦」の中では、共に「共和派」で、ありながら、ほとんど、時には実際に、「敵味方」の関係に立つ集団にそれぞれ所属していたからでもあろうが、「スペイン内戦」というものの全体の流れは、いまだに少しもつかめていないことに気付き、そういえば、その、ヘミングウェイ研究、の時に購入したまま、読まずにいた、フランツ・ボルケナウ「スペインの戦場」を、地図と対照させながら、読んでみることにした、「フランクフルト社会研究所」の研究員、つまり、いわゆる「フランクフルト学派」の一人であるこの学者は、この戦中、二度にわたって、スペインを訪れており、一度目は、「日記」の日付を見る限り、1936年8月5日~9月15日、二度目は、こちらは「日記」の形式をとってはいないが、1937年1月中旬、との記載がある、・・・、彼は、戦闘員として「従軍」したわけではなく、「記者」として、各地の前線を回っているのだが、映画撮影と、ほぼ重なる時期のことが描かれているはずだ、・・・、
フランツ・ボルケナウFranz Borkenau(1900-1957)、ウィーン生まれ、プロテスタントの母、ユダヤ人であるが、ローマ・カトリックに改宗した父、の下に生まれる、第一次世界大戦にオーストリア軍への徴兵を受けたが、訓練期間中に終戦、ウィーン大学で歴史、哲学等を学ぶ、同時期、同大学には、医学部ではあるが、ジークムント・フロイトが教授職についていたはずだ、その在学中、ドイツ共産党学生同盟の委員長、その後、ライプチッヒ大学に移籍、・・・、1921年「ドイツ共産党(KPD)」入党、1929年まで、コミンテルンの活動に従事、1929年末には、「KPD」および「コミンテルン」から除名、彼自身が、スターリニズムに批判的になっていたからだ、と言われる、1930年、「フランクフルト社会研究所University of Frankfurt Institute for Social Research」での研究成果として、「封建的世界像から市民的世界像へDer Übergang vom feudalen zum bürgerlichen Weltbild/The Transition from the Feudal to Bourgeois Interpretation of the World」を著述、1933年、ナチの規定するところの「半ユダヤ人Mischling/half-Jew」に該当するため、迫害を避けて、ドイツを離れ、1934年から1935年にはパリ、1935年からはロンドンに居住、教授職を得られるのが、パナマ大学だけであったことから、パナマ・シティに短期間移るが、熱帯の気候に健康を害し、1936年には、ロンドンに戻る、・・・、スペインの戦場に向かうのは、この後のことになろう、・・・、「スペインの戦場」(三一新書)、の原題は、「The Spanish Cockpit」、おそらく英語で書かれたのだと思われる、wikipedia英語版によれば、これに対する好意的な書評を書いたことが、ジョージ・オーウェルと、彼との終生続く交友のきっかけとなった、とのこと、

「スペインの戦場―スペイン革命実見記」フランツ・ボルケナウ(三一新書)、The Spanish Cockpit. An eye-witness account of the political and social conflicts of the Spanish Civil War/Franz Borkenau
原著のペーパーバック版はとんでもない高値がついているが、kindle版なら手が出そうでもあるので、そのうち、読むかもしれない、・・・、

ジークムント・フロイト、「精神分析入門」講義、はいつだったか?フランツ・ボルケナウが在学したのは、「入門」が出版されて間もなくの頃だったことになる、・・・、リリアン・ヘルマン「ジュリア」には、その「ジュリア」なる人物が実在したかどうかは別として、やはり、ウィーン大学医学部でフロイトの下で学び、ナチの学生部隊からテロ攻撃を受ける、ということになっている、これは、もう、フロイト自身の、ロンドンへの亡命直前の頃、1938年ごろのこと、になったはずだが、
・・・
ジャラマ河は、北から南へと流れ、アランフェスAranjuezという街で、イベリア半島最大の河川であるタホ川に流れ込む、タホ川は、東から西へ、最終的にはリスボンLisbon/Lisboa付近で、大西洋に注ぐ、映画の中にも同様の地図が出てきて、その町の名におぼろげな記憶があるので気になった、・・・、また話がそれるが、全く無関係とも言えない話なので、続ける、・・・、

タホ川Tagus River/Tajo/Tejo流域図
「アランフェス協奏曲」という、ジャズの曲名を、高校時代に通い詰めていたジャズ喫茶、当時は、それが「流行」だったのだ、もうもうたる煙草の煙の中で、ジャズのことなど何にもわかっていなくても、長髪を揺らして、陶酔しているかのごとき振りをして、暗い明かりの中で、ヨシモトリュウメイやハニヤユタカを読んでいる、これまた振りをし、生硬な「政治的」議論を闘わせて見せたり、とか、・・・、そんな中で、耳にした記憶があった、・・・、おそらく、たびたびかかっていたので覚えてしまった曲は、次のうちのどれかだろう、チック・コリアのものは、イントロにその協奏曲のテーマが用いられているだけなので、同じ曲だと認識していたかどうかは疑わしいものの、・・・、
「スペイン」チック・コリア&リターン・トゥー・フォーエヴァーSpain/Chick Corea & Return To Forever
「アランフェス協奏曲」モダン・ジャズ・カルテット、ラウリンド・アルメイダAranjuez Concerto/Modern Jazz Quartet & Laurindo Almeida
「アランフェス協奏曲」モダン・ジャズ・カルテットAranjuez Concerto/Modern Jazz Quartet
「アランフェス協奏曲」マイルス・デイヴィス、ギル・エヴァンスConcierto de Aranjuez (Adagio)/Miles Davis & Gil Evans
「アランフェス協奏曲Concierto de Aranjuez(1939)」は、スペインの作曲家、ホアキン・ロドリゴJoaquín Rodrigo(1901-1999)によって書かれた、その悲壮とも言えるメロディーが、1937年の、「ゲルニカの空爆」の衝撃によって着想されたのだ、との風説が、長らく存在していたらしい、曲が発表された1939年は、まさに、「内戦」に勝利したフランコが、独裁体制を築き始める時期であって、共和派、社会主義者らが、厳しい弾圧にさらされていた時代であったろうから、そのような風説が、いわば「希望的」に密かに囁かれたのだろう、ずっと後になって作曲家自身によって、これは否定されたというが、作曲家自身も、フランコ体制下の国内で、一人の芸術家として生き延びるためには、あらゆる政治的暗示を含んだ発言をひかえねばならなかったため、沈黙を守ったということであろうとされている、・・・、そこで、ピカソの絵であまりにも著名なその「ゲルニカ」という町が、どこにあるのかを、今まで知らなかったこと、いや、それ以上に、知ろうともしてこなかったことに驚き、遅まきながら、ピカソの経歴もともに、調べてみることにしたわけだ、・・・、
「ゲルニカの空爆Bombing of Guernica」、バスクBasqueの町ゲルニカGuernica/Gernikaは、ビルバオBilbaoの東約20キロ、大西洋岸に近い町、1937年4月、フランコ派を支援する、ドイツおよびイタリア空軍による攻撃は、戦史上、民間人非戦闘員に対する初めての航空機による爆撃、と言われる、フランコ軍のビルバオ占領、北部における勝利のきっかけとなった、・・・、
ルネ・マグリットもまた、この事件の影響下に制作された、と言われる作品を残しているらしいことも知った、・・・、

「黒い旗」ルネ・マグリットLe Drapeau Noir(1937)/René Magritte
René Magritte(1898-1967)
ルネ・マグリットの作品、「黒い旗Le Drapeau Noir/Black Flag」、積み木のような幾何学模様の物体が暗い空に舞っている、ゲルニカ上空に現われた、ドイツ軍とイタリア軍の爆撃機をイメージしているのだろうと思われる、伝記的記述に見る限り、マグリットは、他のシュールレアリストたちとは異なって、それほど明確に政治的見解を表明するタイプの人物ではなかったようであり、だから、このタイトル「黒い旗」、がアナキストのシンボルとしてのそれ、なのかどうかは判断がつかない

「ゲルニカ(1937)」パブロ・ピカソGuernica(1937)/Pablo Picasso
Pablo Picasso(1881-1973)
アンダルシアAndalusiaのマラガMálaga生まれ、「スペイン内戦」期間中はフランスに居住、共和国政府は、彼を、いわば「欠席のままin absentia」プラド美術館Pradoの館長に任命、貴重な美術品をジュネーヴに避難させるべく資金を提供した、と言われる、この、共和国側の、美術品救出作戦については、フランツ・ボルケナウにも記述があったので、後に触れるかもしれない、・・・、戦中には、さまざまな政治的色彩の強い作品をのこしたが、これらは、たとえば、絵葉書として販売する、等の方法で、共和国側支援のための、プロパガンダないし資金作りの目的を持っていた、とのこと、1940年、フランス市民権取得の申請が、「共産主義へ傾斜する過激思想」を理由として拒否された、1944年、フランス共産党入党、スターリンを揶揄する暗示を含んだ作品を制作したりもしたが、終生、忠実な党員であり続けた、
1945年のインタヴュー:「私は共産主義者であって、だから、私の絵は、共産主義的な絵だ、・・・、しかし、もし、私が靴職人だったと思ってくれたまえ、王党派だろうが共産主義者だろうが、その他何者であったとしても、靴を作る際の金槌の動かし方が、私の政治的立場を表している、ということには、必ずしもならないだろう?」
I am a Communist and my painting is Communist painting. ... But if I were a shoemaker, Royalist or Communist or anything else, I would not necessarily hammer my shoes in a special way to show my politics.
後に触れるが、ファランジストへの親近性を隠さなかったサルバドール・ダリSalvador Dalíは、
「ピカソは画家だし、私もそうだ、・・・、ピカソはスペイン人だし、私もそうだ、でも、ピカソは共産主義者、私はそうではない」
Picasso es pintor, yo también; ... Picasso es español, yo también; Picasso es comunista, yo tampoco.
しかし、これも後に触れることになるが、断乎たる、反スターリニストにしてトロツキストである、やはり旧友、アンドレ・ブルトンAndré Bretonは、
「君が共産党に加入したことについても、また『解放』後の知識人に対する弾圧に関して君がとった立場についても、僕は認めない。」
I don't approve of your joining the Communist Party nor with the stand you have taken concerning the purges of the intellectuals after the Liberation.
ここでの「解放Liberation」、「弾圧purges」が何を指しているのかは、不明なのだが、フランス共産党が、きわめて強硬な「親ソ派」で、トロツキー及びトロツキストに執拗な迫害を行なったらしいことは、たとえば、トロツキーの伝記的記述からもうかがわれる、・・・、
もう一つ、どんどん話はそれるが、バスクの町ビルバオの名で思い出すことを一つ、メモしておくと、ベルトルト・ブレヒトBertolt Brecht(1898-1956)に「ビルバオ・ソングBilbao Song」がある、1929年のミュージカル「ハッピー・エンドHappy End」のためにクルト・ワイルKurt Weill(1900-1950)が書いた、・・・、
Happy End - Bilbao Song、アメリカで上演されたものの一シーンのようである
Bilbao Song/Ute Lemper、ウテ・レンパーによるドイツ語版
Chanson de Bilbao/Yves Montand、こちらは、元「フランス共産党」員、イヴ・モンタンによるフランス語版
このミュージカルには、ほかにも、「マンダレー・ソングMandalay Song」、「スラバヤ・ジョニーSurabaya Johnny」とか、前者は、ビルマ、現・ミャンマーのマンダレー、後者は、インドネシア、ジャワ島東部の町、スラバヤ、など、エキゾチズムを振りまくかのような挿入歌が多く含まれているのだが、舞台は、禁酒法時代のシカゴの「ギャング」の世界に設定されていて、主人公が、バスク人なのかどうかは明らかでないが、かつてビルバオでもビア・ホールを経営していた、という話であるらしい、
Der Song von Mandelay/Ute Lemper
Surabaya Johnny/Lotte Lenya
・・・
以下の記事参照↓
ナサニエル・ウェスト、そして、スペインのリリアン・ヘルマン
オーウェル、エンツェンスベルガーとスペイン
覚え書き、スペイン、「内戦」に至るまでの略史。
1917年、ゼネスト、1923年まで、バルセロナを舞台に都市ゲリラ戦。
1921年、モロッコ、リフRifの山岳地帯で、ベルベル人の反乱、リフ共和国の設立、Annualの戦闘で、スペイン軍大敗。
1923年、プリモ・デ・リベラの独裁政権成立。
1931年、アルフォンソ13世退位、共和制誕生
1933年の選挙、アナキストが棄権したため、右翼が政権掌握、以後1935年まで、「暗黒の二年間」。
1934年10月、アストゥリアス「10月革命」、北西部アストゥリアスの蜂起は、カタロニアのアナキストが社会党への不信感のために十分に協力的でなかったことから孤立し、その弾圧に名を挙げたのが、フランシス・フランコという将軍であった。
1936年二月の選挙、社会党、共和主義諸派、共産党からなる「人民戦線」、大勝。これは、アナキストCNTが、選挙ボイコットをスローガンから降ろしたことが大きく寄与したと言われている。
1936年7月、スペイン領モロッコでフランコが武装反乱を開始、全土の三分の一を制圧、こうして「内戦」が開始された。
「スペインの短い夏」のドゥルティ
ドゥルティ、グラムシ、ルクセンブルク、「トゥッティ・フルッティ」
「わたしに一番言語道断と思われるのは」、・・・、シモーヌ・ヴェイユとスペイン

「スペイン内戦」期に、「従軍」ないし「取材」等に戦地を訪れた作家、ジャーナリスト等の滞在期間
「誰がために鐘は鳴る」、の語り口
「誰がために鐘は鳴る」、読了
「国際共産主義運動」そのものが、負った、一つの「トラウマ」体験、について
・・・

ボルケナウ「スペインの戦場」に付されている地図、古本の元の所有者の書き込みがあるが、役に立たない訳でもないので、残しておいた
・・・
八月五日午後六時
それとは反対のうわさにもかかわらず、フランスの列車はふだんと変らず国境を通過してポルト・ボウに着いた。そしてここの事態は、皆があらかじめいわれていたのと違って不快などころか、ばかばかしいほど平和であった。
トゥールーズからの車中で私は、或るイギリスの社会主義組織の代表としてスペインに行こうとしている一人のイギリス人と知り合いになった。
「スペインの戦場―スペイン革命実見記」フランツ・ボルケナウ(三一新書)
・・・
ピレネー山脈を避けて海岸沿いにフランスからスペインに入るなら、このポルト・ボウPortbou、を通過することになるようだ、その少し南に、フィゲレスFigueresという町があるだろう?その昔、いわゆる、今でもあるのかな「ユールレイル・パス」というのを用いると、ヨーロッパ、と言っても、「ソ連」や「ベルリンの壁」のあ・っ・た・時代だから西ヨーロッパだけだが、を安上がりの旅行ができる、というのが「バックパッカー」なんかの間で流行りで、真似をしてみたことがあって、・・・、ひたすら自分自身の落ち度、至らなさによるだが、あまりいい記憶の旅ではないので検閲がかかっているのだろう、断片的にしか思いだせないが、おそらくチューリッヒ、ジュネーブを経由して、フランスからスペインに入ったのだと思う、・・・、そのフィゲレスという町は、サルヴァドール・ダリSalvador Dalí(1904-1989)の出身地として知られており、ちなみにダリは、若い頃は共産党員で、プリモ・デ・リベラ政権下で投獄されたこともあるが、「スペイン内戦」の期間中はずっとフランスにいて、終結すると、「カトリック信仰」の立場から、フランコ、ファランジストを称賛、アンドレ・ブルトンAndré Breton(1896-1966)、この人は、トロツキーの友である、の憤激を買い、シュール・レアリストの団体から除名された、という経歴を持つ、・・・、当時は、そんなことは知らない、ただ、政治的には「問題のある」人物、という印象はあったかも、で、ともかく、その町で下車してみよう、ということになって、「テレビ・スペイン語講座」で学んだ(笑)語学力をおそるおそる確かめても見たく、「キエロ・イール・ア・フィゲレスQuiero ir a Figueres.」、「フィゲレスに行きたいのですが/I'd like to go to Figueres.」とでも言ってみたのかな、車掌さんが、それに対して、「フィゲラス?」と聞き返したのだった、・・・、この、フランツ・ボルケナウの著書にもあるが、カタロニア人は、スペイン語で話しかけてもわからないふりをして、フランス語、あるいは、彼らがフランス語だと思っている言葉で聞き返す、と言われるくらいだから、ああ、あれはカタロニア語だったんだな、と、納得していたのだが、今wikipediaに問い合わせてみると、カタロニア語がフィゲレスFigueres、スペイン語がフィゲラスFigueras、であるらしい、あるいは、あの車掌さんは、カタロニア人ではなかったのかも?とか、四十年ぶりくらいに納得することになった、・・・、いや、それだけの話、・・・、ポルト・ボウPortbou、便利な世の中で、ネットの「カタロニア語」辞書を引くと、「port」はフランス語と同じ「港」、「bou」は「牛」とのこと、
・・・
午後十一時
ここでも到着は静かだった。街へ行くのにタクシーはなく、代りに旧い馬車があった。パセオ・ド・コロン通りにはほとんど人がいなかった。それから我々はランブラス通りの街角を曲った。すると驚くべきことが起きた。我々の眼の前にいきなり革命が展開したのだ。それは圧倒的であった。あたかも我々はかつて見たこともない大陸に上陸したようだった。
最初の印象は武装した労働者だった。肩に小銃を掛け、市民の服装をしていた。ランブラス通りの人の三〇パーセントは小銃を持っていた。警官も、制服の軍人もいなかった。・・・
・・・全速力でたくさんの車が走っていたが、それは徴発されたもので、その上には白ペンキで各々の組織を示す頭文字、CNT-FAI、UGT、PSUC、POUMが書いてあり、・・・
・・・赤と黒のバッジや記章によってそれとわかるアナーキストは明らかに圧倒的な数だった。「ブルジョア」はどこにもいなかった。ランブラスの着飾った婦人たちや粋な紳士はもはやいなかった。労働者と労働婦人だけであり、帽子すら一つも見あたらなかった。ヘネラリタートがラジオで人々に帽子はブルジョア的であり、悪印象を与えるからかぶらないようにと忠告したのだ。・・・
「スペインの戦場―スペイン革命実見記」フランツ・ボルケナウ(三一新書)
・・・・・・
これが「バルセローナ」の最初の印象、ポルト・ボウPortbouから、バルセロナBarcelonaまで、直線距離で目測200キロ弱、鉄道路線が250キロと仮定すれば、5時間かかっている訳だから、平均時速50キロ、妥当な値になるだろう、
CNT-FAI:Confederación Nacional del Trabajo-Federación Anarquista Ibérica、全国労働者連合―イベリア無政府主義者連盟
UGT:Unión General de Trabajadores、労働総同盟、歴史的には、「スペイン社会主義労働者党Partido Socialista Obrero Español(PSOE)」の影響下にある
PSUC:Unified Socialist Party of Catalonia、カタロニア統一社会党、上記「PSOE」と、「スペイン共産党Partido Comunista de España(PCE)」のカタロニア支部たる「カタロニア共産党Partit Comunista de Catalunya」などの合同によって成立した経緯からだろう、訳者は、「カタロニア社共統一党」としている、「主権国家sovereign state」を代表する党ではないにもかかわらず「コミンテルン」の代表権を有していた唯一の党、とのこと
POUM:Partido Obrero de Unificación Marxista、マルクス主義統一労働者党、その指導者、アンドレウ・ニンAndreu Nin(18892-1937)は、トロツキーから大きな影響を受けていたけれども、同党が、「左翼反対派Left Opposition」の「スペイン左派共産党Izquierda Comunista de España」と「右翼反対派Right Opposition」たる「労農ブロックBloc Obrer i Camperol」の合同によって成立したことに対して、トロツキー自身は反対であったようで、おそらくそれが理由なのだろう、この党は、国際組織としては、「第四インターナショナル」ではなく、「革命的マルクス主義国際センター(ロンドン・ビューロー)International Revolutionary Marxist Centre/London Bureau」のメンバー、・・・、ちなみに、ジョージ・オーウェルは、この「POUM」の志願兵となるに際して、イギリスの「独立労働党Independent Labour Party(ILP)」の紹介状を携えていくのだが、この党もまた、この「ロンドン・ビューロー」のメンバーのようである、・・・、この本の訳者は、この「POUM」について、党名を書かず、「トロツキスト」と言及して済ませているのだが、原著がどうなっているのかは、些細なことではあるがちょっと、興味がある、私自身の経験から言っても(笑)、この言葉は、「正統派」共産党から名指される際には、つねに「罵倒」のニュアンスが込められている、ずっと後の方だが、フランツ・ボルケナウ自身、インタヴューの相手から、「トロツキスト」と思われたことに対して不本意を表明していた場面もあったから、あるいは、「POUM」に対する距離感が、この表現に込められているのかも、などと思って、
補遺:これも下の方で述べるが、「第四インター」創立は1938年9月、これに対して「ロンドン・ビューロー」創立は、1932年、だから、フランツ・ボルケナウやジョージ・オーウェルがスペインにいた頃、POUMもILPも、後者のみのメンバーであったのは当然のことであった
・・・
「ヘネラリタート」、カタロニア語の「Generalitat」、英語に直訳すれば、「generality一般性」のことだが、カタロニアとヴァレンシアにおいて、「自治政府」のことを指し、これは、現在も、スペイン全土に17ある「自治区comunidad autónoma」のうちの二つに当たる、とのこと
パセオ・ド・コロン通りPaseo de Colón
ランブラス通りLa Rambla
・・・
八月六日・・・午後、PSUCとのインタヴュー
八月七日・・・午後、CNTドイツ支部の人物と会見
八月八日・・・朝、CNTが接収、集産化したゼネラルバス会社の工場見学
八月九日・・・朝、「オリンピア」におけるアナーキストの大衆集会、午後、かつての郊外の行楽地、ティビダボ
八月十日・・・様々な事務所を訪問して、証明書類を得、前線に向かうことが出来ることになった
八月十一日・・・午後、前線に出発、セルベラからレリダへ、夕食時、ロシアの新聞記者と会談、さらに進んで、フラガで宿泊
八月十二日・・・「ウエスカに向かって道路をドライブしていくと」、「ともかく我々はアルカラ・デ・オビスポ村にある丘にのぼった」、「前日、カタロニア軍は・・・シエタモ村を撤退せねばならなかった」、「・・・自動車がこわれ、セリニェナの村にはまり込んだ」
八月十三日・・・セリニェナ、「一アナーキストのパン屋と楽しいおしゃべり」、午後、レシニャナに到着、POUM部隊の中心地
八月十四日・・・「我々はアルクビエール村を通過した」
八月十五日・・・「私の仲間のイギリス人の社会主義者は同じ時に別の一行と前線を訪れ、タルディエンタに行った」
八月十六日・・・「浜辺の日曜日、幸福そうな人々が集い、周りで起こっていることは少しも考えていないようだ・・・」
八月十七日・・・「PSUCの代表部はスペインには革命は存在しないという意見を表明している・・・十五年の間、世界中で、革命のないところに革命的状態を発見し、そのために非常な災害を起こしてきた共産主義者が、一九一七年のロシア革命以来、ヨーロッパに初めて今革命が現にそこにあるときに、革命を認めないとは一体どうしたことなのであろう・・・」
八月十八、十九、二十日・・・「疲れたので、シトヘスで短い休暇をとる」、「或る夜、ものすごい銃声がマホルカの方からはっきりと聞こえた」
八月二十一日・・・「朝バルセローナにて、POUMに参加しているイギリスの婦人民兵がカタロニアのもう一つの海浜行楽地であるトサスについて話してくれる」、「午後普通の汽車でバレンシアに行く」
・・・
「オリンピア」、はっきりしないが、「オリンピア広場Plaça d'Olímpia」というのが、地図では欠けてしまったが、上端に見える立体交差から北北西に15キロばかりの地点
「ティビダボTibidabo」、バルセロナの北西郊外、丘の上に位置する
「セルベラCervera」、「レリダLleida」、「フラガFraga」、「ウエスカHuesca」、「アルカラ・デ・オビスポCalle del Obispo」、「シエタモSiétamo」、「セリニェナSariñena」、「レシニャナ」は不明、「アルクビエール村Senés de Alcubierre」、「タルディエンタTardienta」、「シトヘスSitges」、「マホルカMajorca/Mallorca」、バルセロナ南南東300キロあたりの地中海に浮かぶバレアレス諸島Islas Balearesの主島マホルカ島、アルベール・カミュ「最初の人間」、ジャック・コルムリーの母の出身地ではないか!、「トサス」は「Tosa de Mar」ではなかろうかと思う、・・・、ところで、「ウエスカ」という地名には聞き覚えがある、「カタロニア賛歌」に出てきたのではなかったかな、また、読み返さねばなるまい、・・・、
・・・
八月二十三日・・・バレンシアの豊かな「ウェルタ」は、オレンジ園や米畑を持ち、灌漑組織はよく整い、アラブ人の時代から受け継がれているが、農民は裕福で、その立場は革命派にとりもっとも都合悪いように見える。ウェルタには少数のカシークの命令には従順で、事実上の農奴である貧農はいない。
・・・
ガンディア区で私は初めて射たれそうになった。
・・・
その午後、私はバレンシアの人民戦線の大衆集会に出席した(人民戦線にはアナーキストもPOUMも参加していない)。約五万人の熱狂した人たちが出席した。ラ・パッショナリアが演壇に現われたとき、昂奮は最高潮に達した。
彼女は大衆に知られ愛されている共産党の指導者であるが、そのかわり、政府陣営にはこれ程敬愛された人は他にいなかった。彼女は名声にふさわしい。彼女が政治的考慮をしているなどということはない。それどころか、彼女の人をうつ点は政治的陰謀の雰囲気と無縁であることである。単純な、自己犠牲的信条が彼女の話す一語一語からにじみ出ている。そしてもっと人の心をうつのは、何ら見栄がなく、目だたないほどであることである。黒一色の服装をし、清潔に、注意深く、しかし自分を少しもよく見せようとせずに彼女は話す。単純に、直接に、レトリックもなく、演出効果を考えるでもなく、政治的意味を暗に含ませるでもなく、その日の他の弁士等のやり方と反対に。・・・
「スペインの戦場―スペイン革命実見記」フランツ・ボルケナウ(三一新書)
・・・
「ウェルタ」、スペイン語huerta、カタロニア語およびポルトガル語horta、ラテン語の「庭」に当たる語に由来し、野菜や果樹が栽培される、灌漑された土地、農園を表す、・・・、「カシーク」の方は不明
「ガンディアGandía」、バレンシア南南東50キロあたりの海岸の町
・・・

ラ・パッショナリア/ドロレス・イバルリLa Passionara/Dolores Ibárruri(1895-1989)、バスク人の鉱山労働者の父親と、カスティーリャ人の母のもとに生まれる、巨大な「菱鉄鉱Siderite/FeCO3」の鉱山の町であるビスカイ県Biscay/Vizcayaの町Gallarta、バスク地方最大の町であるビルバオBilbaoの北西10キロ、で育つ、家庭の経済状態が学費の負担を許さなかったので、15歳で学業を断念、さまざまな職業に就く、組合活動家の男性と結婚、1917年のゼネストの際には夫婦で参加、1920年、その創立と同時に「スペイン共産党Partido Comunista de España(PCE)」に加入、10年間に及ぶ、活動経験ののち、1930年には中央委員会に指名された、1931年マドリッドに移り、共産党機関紙「労働世界Mundo Obrero」の編集に携わる、同年はじめて逮捕されるが、獄中では、同房の一般刑事犯たちに呼びかけ、待遇改善を求めるハンガー・ストライキ等を組織、1933年、コミンテルン大会参加のためモスクワ訪問、1934年、アストゥリアスAsturiasの鉱山地帯における「十月革命」が、フランコにより厳しい弾圧を受けたのちは、百人以上の飢えた子供たちをマドリッドに移送するという任務に従事、1935年、ひそかに国境を越え、モスクワでのコミンテルン第7回大会に出席、同大会では、ジョルジ・ディミトロフが基調報告、「反ファシズム人民戦線」を提唱、この路線に従って、翌1936年6月、フランスに人民戦線政府が成立するが、その指導者たるレオン・ブルムの主導によって、フランス、イギリス、ロシア、ドイツ、イタリア間にスペインに対する「不干渉条約Non-Intervention Pact」が締結されてしまうことになる、これによって、スペインの共和派に対する武器、弾薬等の支援が出来なくなってしまった、ファシスト側は、公然たるイタリア、ドイツの軍事援助を受けているにもかかわらず、・・・、しかし、彼女自身は、ディミトロフの演説を熱烈に支持していたらしい、・・・、1937年2月、スターリンは、ソ連からの志願兵をスペインに送ることを禁止、しかし、「NKVD」、後の「KGB」の前身となる秘密警察、のアレクサンダー・オルロフを召還することもしなかった、オルロフと「NKVD」が同年五月、バルセロナで「五月事件May Days」をひき起し、POUMをほぼ壊滅に追い込む、これによってスターンは、逃亡中のトロツキーがスペインに安住の地を見出すことを阻止し得た、と言われる(これはwikipedia英語版の記事によるのだが、ディエゴ・リベラ、フリーダ・カーロの請願を受けたカルデナス大統領により、トロツキーのメキシコ亡命が実現するのが、1937年1月であることと、これは整合しない気もするが)、彼女、「ラ・パッショナリア」すなわち、ドロレス・イバルリは、この「五月事件」以降、トロツキストとアナキストをもって、「味方陣営内部に潜入したファシストどもFascist enemy within」といった表現で、弾劾するようになる、・・・、
・・・
どの「語族」にも属さないと言われるバスク語Basqueの話者は、フランス―スペイン国境の両側にまたがって居住しており、スペイン側では、現在「バスク自治区Basque Autonomous Community/Comunidad Autónoma del País Vasco」を形成するのは、行政区分としては、アラバÁlava、ビスカイBiscay/Vizcaya、ギプスコアGipuzkoa/Guipúzcoaの3県からなっているようである

スペイン行政区分図

Autonomous communities of Spain
・・・
フランツ・ボルケナウが、決して、「共産党」、「コミンテルン」の路線に同意している訳ではないにもかかわらず、この優れて人望のある女性、映画「スパニッシュ・アース」の中にも、その演説シーンが映し出されている、「ラ・パッショナリア」への称賛を少しも惜しんでいないのに、水を差すことになってしまうが、やはり、その略歴は、・・・、アナキスト、トロツキストに対して、多かれ少なかれ、シンパシーを抱いてしまっている者にとっては、読むのが苦痛なもの、と言わざるを得ないのだな、ディミトロフ演説のくだり、「NKVD」のオルロフについての表現、など、このwikipedia英語版記事の書き手もまた、「共産党」路線に忠実過ぎる、彼女に対して、やや批判的な眼差しを投げかけているようにも思える、・・・、うがった見方をすれば、アストゥリアスの「十月革命」そのものについて、「共産党」はさしたる役割を果たしていなかった、と示唆している、と読めなくもない、事実、この蜂起を主導したのは、「改良主義者」であったはずの、「社会党」、「UGT」だったと言われているのである、その事情を、H.M.エンツェンスベルガー「スペインの短い夏」の記述を再録することで、示しておく、
1934年10月、アストゥリアス「10月革命」
この状況でスペインの社会民主主義者は、自己が存亡の危機に立たされているのを感じた。従来からの協力政策は破綻していた。・・・改良主義的な党の上層部に対する下部の圧力は、増大した。社会党指導者ラルゴ・カバリェロは、こういう事情の下で、にわかな方向転換を決意する。彼はリベラル派ブルジョワジーの共和主義政党との同盟を解消して、自派に武装抵抗への準備をさせる。社会党指導下の労働組合UGTのなかに、とつぜんレーニン主義的なスローガンが湧いて出る。1934年10月、UGTの牙城のアストゥリアスで、アナーキストの武装行動を顔色なからしめるほどの蜂起が起こる。このアストゥリアスの「10月革命」は、現在、不当にも忘れられているけれども、パリ・コミューン以後の西ヨーロッパでは、ほかに比類を見ないものである。
「スペインの短い夏」H.M.エンツェンスベルガー(晶文社)
・・・
ラルゴ・カバリェロについては、フランツ・ボルケナウにも、八月二十七日の項に記事がある、
・・・彼のグループはできるだけ早く完全な社会主義者の支配を主張し、それが不可能なら政府に参加することを拒否する。これは正統派マルキシズムの古典的態度で、カバリェロが三十年間の極端な改良主義ののちに、晩年に転向したものである。
・・・
スターリンがPOUMを徹底的に弾圧したのは、トロツキーに安住の地を与えないためだ、という記事に関して思い出したことを付け加えておけば、・・・、トロツキーを暗殺すべくスターリンが放った「刺客」は、スペイン共産党員だった、と言われていたと記憶する、報酬の約束、などの「利益供与」によって誘引したのではなく、「スペイン革命が敗北に帰したのは、まさにその『内部の敵』、トロツキストの陰謀、裏切りによるのだ」と、いわばトロツキーその人への「私怨」を煽ることによって、この人物を実行犯に仕立て上げた、ということだったと思う、・・・、
補遺:トロツキーの暗殺者に関して上に書いたことは、今調べてみると、ちょっと「ロマンティック」に過ぎたかもしれない、つまり、時期的に見て、「共和派が敗北を喫した→その原因は『トロツキスト』の裏切りだ」という「因果」が成立する以前から、この人物、確かにスペイン共産党員であろう、は、暗殺に向けた訓練を受けているようなのである、・・・、しかし、あるいは、そのように信じられていた時代もあり、後になって、「真相」が明らかになったという話かもしれないけれど、いずれにしも、あまり気持ちのいい話ではないのだが、「気持ち悪い」などと言って遠ざけて済ませていられる「特権的」立場、を採用するのでない限り、「知って」しまったことは、「消去」することはできないからね、・・・、1936年2月の選挙での「人民戦線」の勝利によって、30年代中葉以来の左翼活動に従事し、短期間獄中にいた、この人物、ラモン・メルカデルRamón Mercader(1913-1978)は、釈放されるや否や、「NKVD」のリクルートを受け、以降、モスクワで訓練を受けていたようだ、・・・、他にもこのような人物は、多々存在していたようで、ジョージ・オーウェルなど、「POUM」に従軍している、イギリス「ILP」の活動家たちの動きなども、それらスパイ・ネットワークによって、ソ連当局に「筒抜け」の状態であったらしい、トロツキー本人のスペインへの亡命を阻止すべく、あるいは、その地に「第四インター」系の組織が根付いてしまうことを阻止すべく、なにがなんでも「POUM」を壊滅させる、という路線は、したがって、あるいは「内戦」前夜に遡る時期にすら、すでに確固として存在していたのかもしれない、・・・、トロツキーの最後の日に向かう「クロニクル」を記しておくと、・・・、
1936年8月・・・第一回「モスクワ裁判」
1937年2月・・・ジョン・デューイJohn Dewey(1859-1952)を議長とする「真相究明委員会Dewey Commission」、メキシコ・シティ、フリーダ・カーロのアトリエ「青の家La Casa Azul」にて
1938年9月・・・パリにて、「第四インターナショナル」創立大会
1939年4月・・・経緯はよくわからないのだが、ディエゴ・リベラと仲違いしたらしく、「青の家」から数ブロック離れた「ヴィエナ通りAvenida Viena」に引越す
1940年2月・・・高血圧症のため脳内出血の恐れもあったことから、死期の近いことを意識していたのであろう、「トロツキーの証言Trotsky's Testament」として知られることになる、文書を執筆
1940年8月・・・「NKVD」エージェントによる暗殺未遂事件は、1939年3月、1940年5月の二度にわたって企てられていたが、この8月20日、上記ラモン・メルカデルによって、ついに完遂されてしまった
・・・
高杉一郎「わたしのスターリン体験」(岩波現代文庫)のかなり長い一章が、「ジョン・デュウイの『トロツキー事件』」に充てられている、以下参照↓
「他者」の侵入を、ただ一度だけ許容すること、確かに、それを「愛」と定義しても、さほど不都合とは思えない。
・・・
もう一つ、さらに話がそれることにはなるが、思い出したことをメモしておかねばなるまい、これは、「悲しき熱帯」の冒頭部分に書かれているのだが、ナチがフランスを占領した直後の、1940年末ないし1941年初め頃と思われる、レヴィ=ストロースClaude Lévi-Strauss(1908-2009)が、アメリカの支援団体が用意してくれたポストにつくという形で、フランスを脱出すべく乗った船、ヴィッシー派の憲兵が「賤民」と呼ぶその350人の船客は、彼の言葉を借りれば、「ユダヤ人、外国人、無政府主義者のいずれか」であったというが、その中に、アンドレ・ブルトンとヴィクトル・セルジュがいた、・・・、
レヴィ=ストロースとヴィクトル・セルジュを乗せた船
ヴィクトル・セルジュ「スターリンの肖像」
ヴィクトル・セルジュVictor Serge(1890-1947)、ベルギー、ブリュッセル生まれ、アナキスト「人民の意志」派の流れをくみ、ベルギーに亡命していたロシア人家族のもとに生まれる、「ヴィクトル・セルジュVictor Serge」というフランス風の名前は、ペン・ネームであって、ロシア人らしい本名を持っているらしいが、「ユダヤ系」なのかどうなのかは、判断がつかない、・・・、本人も元々はアナキスト傾向が強かったらしい、紆余曲折があるが、1917年にはスペインにおり、バルセロナでのアナキストの蜂起を目撃しているのだ、1919年1月に、ペトログラード、後のレニングラード、現・サンクト・ペテルスブルグに到着、その5か月後にボルシェヴィキに参加、以降、コミンテルンで、ジャーナリストとして働く、1928年、反対派の追放に抗議したため、共産党除名、拘留、流刑を経て、アンドレ・ジッド、ロマン・ロランらの嘆願も功を奏し、1936年釈放、ベルギーの、ヴァンデヴェルデEmile Vandervelde(1866-1938)、第二インター系のベルギー労働党Belgian Labour Party党首であるが、おそらく同時期、外務大臣ないし法務大臣だったのであろう、確かめられなかったが、この人物がヴィザを発給してくれたため、ソ連を出国することが出来た、スペイン内戦中は、「POUM」のパリ特派員として活動、トロツキーとともに「左翼反対派」を形成していたものの、まさにこの「POUM」の評価、および、1921年のクロンシュタット暴動に対するボルシェビキの弾圧の評価、をめぐってトロツキーとは意見の対立があった、と言われる、・・・、そして、件の船に乗って、南米大陸に向かい、メキシコに到着したのは、トロツキー暗殺の数か月後であった、というから、1941年の初め、ということになる
アンドレ・ブルトンAndré Breton(1896-1966)、wikipediaに記載された経歴を見る限り「ユダヤ系」ではなさそうに思えるので、上のレヴィ=ストロースの立てた範疇では、「無政府主義者」に該当することになるのだろう、第二次世界大戦初期には、フランス軍の医療部隊に勤務していたが、その言論が、ヴィッシー政府の政策に著しく反するとして禁止処分を受け、アメリカ人の友人の助力を得て、1941年に脱出、とあるのが、この船旅を指すことになるのだろう、彼とトロツキーとの出会いは、もっと以前に遡り、1938年、フランス政府の文化使節として、メキシコ国立自治大学Universidad Nacional Autónoma de Méxicoでの会議に参加した際、であるようだ、ミコアカン州Michoacán、パツクアロ湖Lago de Pátzcuaroの湖畔に、エロンガリクアロErongarícuaroという街があり、芸術家たちのコミューンがあったらしい、ディエゴ・リべラ、フリーダ・カーロも常連だったようだから、トロツキーとアンドレ・ブルトンが出会うのは、そこであったかもしれない、同年4月、「自立的革命的芸術宣言Manifesto for an Independent Revolutionary Art」が、ブルトンとリベラの署名を付して起草されたが、その内容には、トロツキーも関与していたらしい
四か国語の「福音書」、「ドレフュス事件」への言及、それから、話は前後するが、フリーダ・カーロ、アンドレ・ブルトン、・・・、トロツキー「わが生涯」を読む、続編
なお、「悲しき熱帯」のその冒頭部分には、マルチニック島で、レヴィ=ストロースが、レンタカーを借りて、ある意味、暢・気・に・、植生の観察などをしている、熱帯の植物名が羅列されていて、当地沖縄にも共通のものがあったから、初めて読んだとき、興味をひかれたのだ、・・・、そんなことが出来たのは、この船に勤務する軍人が、かつてブラジルに学術調査に出かけた時以来の知己であった、といういわば「コネ」があったからで、・・・、彼がサンパウロ大学Universidade de São Paulo客員教授として赴任するのは、1935年、・・・、マルチニックの警察は、強硬なヴィッシー派であったから、他の船客たちは、厳しい拘束を受けたりしていたらしいことが示唆されているが、その間、アンドレ・ブルトンや、ヴィクトル・セルジュが、どんな扱いを受けていたのかについては、書かれていなかったと記憶する、・・・、ナチス・ドイツがフランス本土の北半を占領、南半分に、親ナチのヴィッシー政権が成立するとともに、広大なフランス植民地も、ほとんどが「枢軸化」するのであろうが、植民地官僚の政治的立場なども作用したのであろう、状況は区々であったらしい、たとえば、インドシナでは、これを機に日本軍が、一気になだれ込むのに対して、現地の植民地当局は、ほとんど抵抗しなかったらしい、古山高麗雄が、ビルマ戦線からラオスの捕虜収容所管理の任務へと、転任させられるのもこの時期、そしてのちにフランス人捕虜虐待の容疑で、戦犯裁判を受けることになるのも、そのためであった、また、林芙美子が、ヴェトナムを「視察」、ダラットという高原の町に魅せられ、戦後にそこを舞台にして「浮雲」を書くようになるのも、・・・、これより少し後であるが、マルチニック生まれのフランツ・ファノンは、その伝記的記述には、1943年に、ヴィッシー派の水兵が傍若無人にふるまうようになったマルチニックを逃れて、イギリス連邦ドミニカを経て、カサブランカに向かい、「自由フランス」に参加する、とある、・・・、そして、映画「カサブランカCasablanca(1942)」のラストシーン、ヴィッシー派だったはずの警察署長が、「ブラザヴィルのレジスタンス組織に紹介してあげよう」と言い出す、ブラザヴィルBrazzaville、はもちろん、フランス領コンゴの首都である、・・・、
「フランス領インドシナ」の探索、マルグリット・デュラス「愛人(ラ・マン)」と、林芙美子「浮雲」
マルチニックを脱出してフランスに向かうフランツ・ファノン、フランスを脱出してマルチニックに向かう、レヴィ=ストロースとアンドレ・ブルトン
いくつかの予定している「筋」、たとえば、「カサブランカ」のラスト・シーン
・・・

「悲しき南回帰線」レヴィ・ストロース(講談社学術文庫)・・・このあまりにも著名な書物を、初めて読んだのは、沖縄に来てから、ということは、レヴィ=ストロースClaude Lévi-Strauss(1908-2009)が、亡くなる頃に当たるかも知れない、那覇の、ちょっと「こだわりがある」風の古本屋の店頭で見つけた、表紙のすり切れたこの版、「学術文庫」に編入される以前の「講談社文庫」版、だった、訳者は、フランス文学畑の人のようで、つまり「人類学」的には素人、かも知れなかったから、後の評判はあまりよくないようだが、なんといっても「本邦初訳」だったのだからね、原題が「Tristes Tropiques」なのに、なんでわざわざ「熱帯」でなく「南回帰線」にしたのか?大雑把に、北回帰線、北緯23.4度、と南回帰線、南緯23.4度、との間の地帯を「熱帯」と呼ぶ、レヴィ=ストロースが、先住民の間に分け入って調査を行ったアマゾン上流域は、もちろん、南半球側の「熱帯」に当たるが、彼が、客員教授のポストを得ていたのがサン・パウロ、今調べてみると、その町の緯度は、23.56S、おお、ほとんど、「南回帰線」の直上ではないか!では、なんで「悲しき」なのか、それは「オリエンタリズム」の眼差しではないのか?、を言い出すとまた話が長くなるので、後日の話題にとっておく、ブラジル、バイーヤBahia出身の、カエタノ・ベローソCaetano Veloso(1942-)らの、ちょうどブラジルの軍事独裁下における、音楽―文化運動が「トロピカリスモTropicalismo」、まさに「熱帯主義」と呼ばれ、彼のアルバムにも「トロピカリアTropicália」というのがある、私は調子に乗って、ここ、亜・熱・帯・の、沖縄に来てから作った自分のウェッブ・サイトに、「サブ・トロピカリアSub-Tropicália」と名付けて悦に入っていたくらいだから、どうして、それが「悲しき」なのか、について説く「当事者適格」が、少しはあるかも、と思っているからね、

Tropical Truth: A Story Of Music And Revolution In Brazil/Caetano Veloso・Tropicalia,Tropicalia 2/Caetano Veloso & Gilberto Gil
「ロンドン、ロンドン」、カエタノ・ベローソの「self-exile」の足跡

「悲しき熱帯」レヴィ・ストロース/川田 順造(中央公論社)、Tristes Tropiques(1955)/Claude Lévi-Strauss
後になって、人類学者、川田 順造の訳によるものを読み直した、いや、途中で頓挫しているかも知れない、・・・、「世界の名著」だったかのシリーズ本、マリノフスキーと合本になっている版だけれどもね、
「ビーグル号航海記」、「南方郵便機」、「悲しき熱帯」

メキシコ

サンパウロ市街図

コンゴ共和国、コンゴ民主共和国
・・・
地図の中で、「フリーダ・カーロ博物館Museo Frida Khalo」とあるのが、かつての「青の家La Casa Azul」そして、確かにそこから300メートルくらいだろうか、北に向かって二つ目の角を右に曲がって2ブロック過ぎたところ、という感じで、「レオン・トロツキーの家博物館Museo Casa de León Trotsky」に至る、確かに「ヴィエナ街」に面しているから、ここが引っ越し先なのだろう、街路の名付け方が不思議で、東西に走る通りは、「青の家」の南側から順に北へ、「ロンドン街Londres」、「ベルリン街Berlin」、そして「ヴィエナ」つまり「ウィーン街Viena」、南北の通りは、「青の家」が面しているのが、「イグナシオ・アジェンデ通りIgnacio Allende」、そこから東へ順に、「アバソロ通りAbasolo」、「ゴメス・ファリアス通りGómez Farías」、これらは、すべてメキシコ独立に功のあった人物の名のようである、
Ignacio Allende(1760-1811)、スペインの軍人だが、メキシコ独立運動に好意的だったと言われる
Mariano Abasolo(1783-1816)、メキシコ独立戦争時の英雄、「Abasolo」というのはバスク系のファミリー・ネームのようである
Valentín Gómez Farías(1781-1858)、メキシコの医師、自由主義的政治家、大統領経験者

メキシコ・シティCiudad de México
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アナキストとトロツキストの勢力が、妥協と後退を余儀なくされ、ついには「共産党」によって武・力・に・よ・っ・て・崩壊させられていく過程、ボルケナウの一度目のスペイン訪問以降から、上にも言及のある「五月事件May Days」、ここでは「バルセロナの五月の流血の一週間」に至るまでを、ふたたび、H.M.エンツェンスベルガーの記述によってたどってみる、・・・、
一九三六年一〇月一日。CNTは民兵中央委員会の解消に同意する。
一九三六年一〇月九日。カタロニアの各地域の評議会・委員会の全部が、政令によって解散される。この措置をCNTは了承する。
一九三六年一二月上旬。マドリッドでCNTの部隊と共産党の部隊のあいだに、武力衝突が発生する。
一九三六年一二月四日。CNTがマドリッドの中央政府に入閣する。アナーキストに割り振られたのは第二級の閣僚ポスト(法相、厚相、商工相)であって、リアルな権力の陣地ではない。
一九三六年一二月一五日。最高公安委員会が政治警察を中央集権化する。
一九三六年一二月一七日。モスクワの『プラウダ』の社説にいわく――「カタロニアではすでにトロツキストとアナルコ・サンディカリストの粛清が始まっている。これはソヴィエト連邦でと同じく精力的に貫徹されるであろう」
一九三六年一二月二四日。マドリッドで武器の携帯が禁止される。
一九三六年一二月下旬。共産党が反POUMのキャンペーンを開始。
一九三七年二/三月。CNT=FAIの指導部とその底辺とのあいだに、重大な意見の相違が生ずる。アナーキズム運動内部の革命的反対派は、CNTの中に、独自の闘争グループ「ドゥルティの友」を創設する。
一九三七年の四月の末に、バルセロナの労働者を武装解除して暴力独占体としての警察を再建しようとする、政府の意図が明らかになる。ここからCNT=FAIのドラマの最後の幕、「バルセロナの五月の流血の一週間」が始まる。まず小ぜりあいがあり、労働者と警察とが互いに相手の武装解除を試みる。五月三日、公然たる市街戦の開始。武装した共産党員が、CNTの手中にあった中央電話局を急襲する。これにたいして全バルセロナの労働者は、どこからのアピールも待たずにゼネ・ストに入り、バリケードを築き、市内の重要地点を占拠する。CNT指導部は宥め役になる。中央政府は非常警備隊五〇〇〇名を派遣し、この警察部隊は五月七日にバルセロナに進入する。スペイン労働者の公然たる革命運動としては現時点に至るまで最後のものである運動は、敗北する。その際の死者は五〇〇人を超える。・・・
「スペインの短い夏」H.M.エンツェンスベルガー(晶文社)

・・・

カタロニアCatalunyaからアラゴンAragónへ、ウエスカHuesca周辺、この地図は、エンツェンスベルガーHans Magnus Enzensberger(1929-2022)が引用していた部分から推測した、シモーヌ・ヴェイユSimone Weil(1909-1943)の足跡、をたどろうと作ったものだ、彼女は、アナキストのブエナベンチュラ・ドゥルティBuenaventura Durruti(1896-1936)の名を冠した軍団、「ドゥルティ部隊Durruti Column」に従軍していた、戦闘ではなく、炊事場の事故だったかで早々と負傷、この人はものすごい近眼だったらしいから、・・・、前線を離れて、シトヘスSitgesで療養していたのだと思う、・・・、ヴェイユのスペイン滞在は、1936年8月から「約二か月」とのことだから、同年11月のマドリッドの戦闘で亡くなるドゥルティは、まだ存命であったことになる、・・・、今気づいたが、エンツェンスベルガーが亡くなったのは今年、しかも、ほんの半月ほど前だったんだ、その、エンツェンスベルガーの著書にも登場していたが、CNT-FAIの内部で、指導部の妥協路線に抵抗して結成された「ドゥルティの友」は「Agrupación de los Amigos de Durruti」という名称だったようである、

エブロ川流域図Rio Ebro、シモーヌ・ヴェイユが訪れた前線は、この川の流域のピナPina de Ebroのようで、この川をめぐっては、ずっと後の、1938年夏から秋にかけて、「エブロ河の戦い」という大きな戦闘があり、「国際旅団」の戦闘員として、ヘミングウェイが参加している
・・・
「ラ・パッショナリア」すなわち、ドロレス・イバルリ、ボルケナウが描くように、その演説は決して「雄弁」ではなかったのかもしれないが、さまざまな印象的なスローガンをちりばめたことで知られているらしい、もっとも著名なものが、1936年11月、フランコ軍によるマドリッド包囲の際の、「奴らを通すな!/¡No Pasarán!」だったと言われている、・・・、私事を語らせていただこう、1977年6月、京大教養部は、経済学部助手竹●本信弘に対する分限免職処分の評議会における審議の中止を求めて、代議員大会の議決に基づき、ストライキに突入した、竹本氏、ペンネーム滝●田修は、「京大パ●ルチザン」と呼ばれる、ブント系、おそらくやや毛沢東派に近い党派の創設者であり、警察から、ずっとのちになって「フレームアップ」であることが明らかになった事件の容疑者として指名手配を受け、「地下潜行」していたのだった、日本共産党=民●青同盟は、公然と処分推進の立場に立ち、我々「赤ヘ●ル」には、お決まりの「トロツキスト」なる罵・言・を浴びせつつ、ストライキにも敵対していたわけであったが、今でもありありと覚えているのは、多分スト中だったと思う、彼らが撒いたビラ、黒々と、もちろん当時の「ガリ版印刷」だから、インクは黒しかないけど(笑)、「奴らを通すな!/¡No Pasarán!」の文字が躍っていたことだな、・・・、無学な「単ゲバ」であっても、それが「スペイン内戦」時のスローガン、であって、もちろん、「奴ら」が「ファシスト」を指すことくらいは知っていた、・・・、だから、自分たちが、つまり、自分たちとしては「共産主義者」を自任している者が、仮にも、同じく「共産主義者」を名乗る者たちから、「ファシスト」に擬えられる時に感じるだろうやりきれなさ、不快感は、「コップの中の嵐」の如き、些細な経験でしかなかったとしても、想像はできるのである、・・・、今でもSNS上なんかで、人種差別主義者のデモへの反対を呼びかけるときなんかにも、それから、ほかならぬ辺野古のゲート前なんかでも、このスローガンが引用されているのを、しばしば見かけるのだけれど、もちろん、少しも間違った用法ではないことは充分知っているのだが、これは、ほとんど「トラウマ化」している、というべきなんだろうな、どうしても身体が受け付けず、またしても、やりきれない気持ちにおおわれてしまう、・・・、改めて、こうして、ドロレス・イバルリの事跡をたどってみれば、確かに、このスローガン自体は、少なくとも当初は、文字通りのファシスト、正確に言えば、フランコの党は「ファランヘFalange」、だから、「ファランジストFalangist/falangista」と呼ぶべきだろう、を指したに違いないのだが、おそらく、「五月事件」に至る過程では、CNTやPOUM、そしてこれらに同調しようとする「労働者階級」すべてに対して、それこそ「味方陣営内部に潜入したファシストどもFascist enemy within」として、この言葉が公然と投げつけられるようになったのだろう、と想像され、ならば、その意味では、我・が・京大の民●青諸君も、その「正・し・い・」用語法を踏襲していたことになるのだな、と納得し、しかし、納得できても、何も「嬉しくない」、何とも言えない気持ちに襲われる、いや、それだけの「昔話」だった、・・・、
・・・
ドロレス・イバルリが、なぜ「ラ・パッショナリア」と呼ばれているのかは、以下のような事情であるらしい、・・・、イバルリは、1918年、23歳の時になる、鉱山労働者の新聞「ビスカイ鉱山労働者通信El Minero Vizcaíno」に初めて記事を書いた、おりしも「聖週間Holy Week」の期間中で、・・・、もう一度復習しておくと、「春分」後最初の満月が「過越」、その直後の日曜日が「イースター」、それに先行する一週間が「聖週間」、であった、・・・、記事の内容もそれにちなんで、いまや「キリストの受難the Passion」の故事とはもはや何の縁もなくなってしまったどころか抵触さえしている、キリスト教的偽善を批判するものだったという、その内容とタイミングから、彼女は、ペンネームとして、「パッショナリアPasionaria」を選び、その記事に署名した、・・・、「la pasionaria」は、スペイン語辞書で引けば、パッションフルーツ/クダモノトケイソウ(トケイソウ科)と出てくる、ならば、それは、確か、ボルケナウの著述にもどこかにそう言及されていた記憶があるが、決して「情熱の花」、なのではなくて、下に述べるように、「受難の花」と呼ぶべきなのであろう、



資料映像(笑):パッションフルーツ(トケイソウ科)、の花と果実。passionは、「情熱」ではなく、passive「受動的」と同根、「受難」の意である。ヨーロッパの帝国主義の「手先」となって、南アメリカ大陸に「伝導」に向かったカトリック、おそらく、フランチェスコ派の、修道士たち、この花の形に、十字架上のキリストを、その色に、「血」を見たのだ、と言われている。
補遺:「おそらく、フランチェスコ派の、修道士たち」は、誤り、だが、話が長くなるので、こちらへ↓
「パッション」は「受難」である、談義は続き、 聖書の「典故」研究と、そのタイトルを有するゴダール映画についてのオチのない話、エンツェンスベルガー、津村喬、「政・治・映画を作るのではない、映画を政・治・的・に・撮るべきなのだ」


・・・
話が大幅にそれてしまった、ボルケナウの旅程に戻ろう
・・・
八月二十四日・・・我々はラ・マンチャの乾燥した平野を通って南からマドリードに近づいた。・・・突然北方のあまり遠くない所にけわしい青い山が現れた。「これがガタラマか」と聴くと果たしてそうであった。もし敵がガタラマ戦線を破ればマドリードが落ちるのは時間の問題という絶えざる危険のあることが一瞬にして私にわかった。
八月二十四日・・・我々は昨日午後おそくアトチャ駅についたが、・・・
・・・それが反乱軍がバダホスを占領した後行った殺戮のニュースにより惹き起こされた。
八月二十六日・・・労働者階級の少女が何百人、何千人と街をうろつき、特にアルカラグラン・ビアのいきなカフェに見られることになる。・・・
・・・七月十九日に新たに組織された民兵は、モンタナ兵舎を攻撃してマドリードの軍事反乱を鎮圧した。それから五時間の激しい砲撃の後、攻撃は勝利し、民兵は街の中央に戻り、群衆の歓呼を浴びた。彼らがプエルタ・デル・ソルというかなり反動的な地区に来ると突然広場の四方の窓から銃撃された。アサルトスがすぐに群集を指揮し、男も女も道路にかがむように云い、実際に恐慌は阻止された。・・・
・・・すなわち午後私はプラド美術館に行った。若いアナーキストの民兵のグループがその広い部屋を横切って歩いていた。彼等は生まれてから美術館を見たことがなかったらしい。そして眩惑されながら絵を見つめていた。・・・
八月二十七日・・・UGTの本部はバルセローナ式に何か立派なホテルに移らず、フェンカリヤル通りのせまい陰気な建物にある。
八月二十九日、三十日・・・この二日間は前線へ行く長い準備。雰囲気は悲惨だ。反乱軍はガダラマを激しく攻撃しており、エストレマドーラではオロペサを占領し、タラベラに向け進撃中である。南のフランコ軍と北のモラ軍の連結は事実である。・・・
・・・私のいる地区の小さな街路の街灯は全部消えていたが、グラン・ビアアルカラシベレスの光だけが輝いており、・・・それらは爆撃の対象となっていたものだ。裏切りかそれとも単なる落ち度が。ともかく恥ずべきことであった。・・・
・・・午後、私はマンサナレス川近くの「ウエスト・エンド」に友人達の家を訪ねた。
八月三十一日・・・遂に我々は午後タラベラに出発した。・・・
・・・これらの村の大部分には少し前まで左翼組織は全然なかった。・・・旧い政治の伝統がないことが青年同盟の支配と委員会内における青年の支配を有利にした。これが三十乃至四十代の人が支配的であるカタロニアバレンシアと目立った対照をなしている。アユンタミエントスは政治委員会と並んで行政を続けている。
九月一日・・・我々はエストレマドーラ戦線の南翼に向かって車を南下させた。どこでも意気さかんであった。行く村々で、数マイル北で行われている戦闘のニュースを訊かれた。村は強力に防備されており、全村が防備についているので畠仕事をする時間がないということを時々聞いた。・・・村という村は武装した農民で一杯だが、その多くは自分が護っている村に属しておらず、フランコ軍によりすでに占領された村に属している。・・・
・・・我々はプエルト・サン・ビンセンテを通過した。エストレマドーラ戦線の南の角に当たる。そこの係の人が云うには、政府の前哨の十一マイル先にアリアの村があり、そこは政府の民兵の援助もなく住民だけで防衛している。この悲惨な村は三回も支配者が変わったが今は持ちこたえているという。・・・
・・・我々は自分の責任でアリアまで行くことにした。・・・
・・・しかし、この村は私がスペインで見たものでも昂揚した村であるが、住民には一人のアナーキストもなく、唯一存在する政治組織は「社会主義青年同盟」の非常に小さなグループである。・・・
・・・我々が帰り支度をしていると、一人の農民が我々を引き留めた。彼は何か気にかかることがあったらしい。「フランスから来たジャーナリストさん、一つ質問をさせて下さいますか」「どうぞどうぞ」「それでは教えてください。一つだけ。フランス共和国の大統領は誰ですか。そしてその人はよ・き・共・和・主・義・者・ですか」エストレマドーラのはるかな片隅で、文盲の農民が、おそらく前にフランスという国があるのをおぼろげながらきいたことがあり、突然、フランス共和国の大統領がよき共和主義者であるかどうかが彼等一人一人にとって死活の問題となるかも知れないと知ったのである。・・・そして私はまったく曇りなき良心をもって彼等に、ブルム氏が信頼できる共和主義者であることをうけあったのであった。
・・・
夜、私は司令官に同行して前哨を見に行った。兵士は司令官に話しかけられると気を付けの姿勢をした。政府軍の中ではめったに見られない光景だった。・・・たまたま偵察すると、アリアの向うのガダループの敵は非常に弱いことが分かった。そしてこの将校によれば千五百人の軍隊さえあれば充分で、トルヒリョに奇襲を加えて敵の後方との連絡、ポルトガルとの連絡を絶つことができるだろう。
・・・
「ラ・マンチャLa Mancha」、マドリッドの南側に広がるのが、「カスティーリャ―ラ・マンチャ地方Castilla-La Mancha」
「ガタラマ」は、「Guadarrama」かと思われる、マドリッドの北西30キロ
「アトチャAtocha」、マドリッド市街南東部のターミナル
「バダホスBadajoz」、マドリッドから南西300キロ、ポルトガルとの国境の町
「アルカラCalle de Alcalá」、「グラン・ビアCalle de Gran Vía」
「モンタナ」、市南郊の「Calle Montana」か?
「プエルタ・デル・ソルPuerta del Sol」、グラン・ビアの南側の街区
「アサルトスCuerpo de Seguridad y Asalto/Security and Assault Corps」、1931年、スペイン共和国において創設された、準軍事的、特別警察部隊
「プラド美術館Museo Nacional del Prado」、アルカラ街から南へ500メートル
「フェンカリヤル通りFuencarral」、市の北郊、このあと、すでに引用した「ラルゴ・カバリェロ」に関する記述が続く
「ガダラマGuadarrama」
「エストレマドーラExtremadura」、上の「自治コミュニティー」図参照、ポルトガル国境沿いの地方
「タラベラTalavera de la Reina」、マドリッドから南西に向かって数十キロ間隔で、トレドToledo、タラベラTalavera、オロペサOropesa、グアダルペGuadalupe、バダホスBadajoz、と並ぶ、バダホスはすでに敵陣、オロペサ、グアダルペ付近に前線があると思われる
「モラ」は、エミリオ・モラEmilio Mola(1887-1937)、1936年7月の武装反乱の首謀者の一人、1937年6月、飛行機事故で死亡
「シベレスPlaza de Cibeles」、プラド美術館の北500メートル
「マンサナレスManzanares」、市街地西部
「アユンタミエントスAyuntamientos」、地方自治体
「プエルト・サン・ビンセンテPuerto de San Vicente」、「アリアAlía」、グアダルペの東側に、数キロずつ隔てて、アリア、プエルト・サン・ビンセンテ、と並んでいる
上に述べたように、フランス人民戦線政府を率いるレオン・ブルムは、スペイン共和派を、絞殺してしまいかねない「不干渉条約」推進の立役者なのである、もちろん、ボルケナウも、それは明確に知っていたはずだ
・・・
「ガダループGuadalupe」、上の「グアダルペ」に同じ
「トルヒリョTrujillo」、グアダルペの西30キロ
・・・
ポルトガル近現代史を瞥見すると、1933年、アントニオ・デ・オリベイラ・サラザールAntónio de Oliveira Salazar(1889-1970)による、「エスタ・ド・ノーヴォEstado Novo」と呼ばれる右翼独裁政権が成立、以降、1974年、サラザールの死後であるが、「カーネーション革命Carnation Revolution」と呼ばれる左派青年将校によるクーデターによって打倒されるまで、この体制が続く、初期のアイルランドの「シン・フェイン」が「カトリックによる統治」のモデルとして理想化さえした体制である、・・・、「カーネーション革命」において、「海外植民地の即時独立」という、ともすれば、理想主義的な政策が採用されたことで、アンゴラ、モザンビーク、東チモール、いずれも、長らくにわたる「内戦」がもたらされてしまった、とも言われる、・・・、サラザール政権は、ナチ、ファシスト、ファランジスト等の右翼独裁諸政権と親近性があったにもかかわらず、第二次世界大戦中は、「中立」の立場をとり、これは、たとえば、映画「カサブランカ」の中で、ヨーロッパの「レジスタンス」のメンバーの中に、アルジェリアに逃れ、さらにリスボン経由で、アメリカ合衆国へ向かうという脱出方法を採用した人たちがたくさんあり得たことが描かれていることからもわかる、・・・、というわけで、wikipediaを参照する限り、このサラザール政権が、どの程度フランコ派に支援を与えていたのか、は、判明しなかった

マドリッドMadrid広域

マドリッドMadrid市街
・・・
・・・
(まだまだ続くはずだが、字数オーバーも近そうなので、いったんここで休憩・・・続きは以下に↓)
「パッション」は「受難」である、談義は続き、アッシジの聖フランチェスコの見た夢、「宣教師団」研究、聖書の「典故」研究と、そのタイトルを有するゴダール映画についてのオチのない話、エンツェンスベルガー、津村喬、「政・治・映画を作るのではない、映画を政・治・的・に・撮るべきなのだ」
延安の、洞窟の家の扉に貼られていたかもしれないスペイン共和国のポスター、アグネス・スメドレー、「『味方』の戦線内部の『敵』/エネミー・ウィズィン」という話型について、など、「老トロツキスト」の饒舌は続いて
「ウエスカでコーヒーを」・・・ジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌」再読。
・・・

1936年8月9月のカレンダー

バルセロナ市街図

ヨーロッパ鉄道路線図





「銭湯のように混み合って」という比喩を使おうとして、あ、通じないかも、と気付く、一年の半分、水のシャワーですむこの島だから、そんなものにはほとんど用がないので(笑)。

「内地」、沖縄から見た「本土」のことを、こちらでは、そう言います、ではどうなんだろう?もう、20年以上ご無沙汰しているので、想像もつかないが、京都に住んでいる頃は、よく行ったものだがな、津村記久子「浮遊霊ブラジル」には、「スーパー銭湯」が出てくる、サウナ、だとか、ジャグジーだとか、そういうアトラクションで、お客を呼び寄せねばならないほど、需要が減っている、ということなんだろうな、「スーパー銭湯」的なものなら、こっちにもあるみたいだよ、行ったことないけど(笑)、・・・、もう、満潮が近いから、岸近くの浅い部分の潮だまりに、鴨や鴫、鳥たちが集まってくる、その、混み合い方が壮観だったので、そんな形容を思いついたのだ、「芋を洗うように」、という表現もあるな、でも、スーパーで買ってきたジャガイモでもサツマイモでもサトイモでも、今どきのものは、ほとんど土なんかついていないから、これも、ほぼ「死語」だな、・・・、




フヨウ(アオイ科)

フイリマングース(マングース科)、・・・、グリーンアノール(イグアナ科)、などとともに、「特定外来生物」という、憎々し気な呼び名が付されていて、もちろん、それは、この島という閉鎖的な生態系にとって、害を及ぼすから、そう呼ばれるわけだが、にもかかわらず、これまた、グリーンアノールなんかとともに、あ、可愛い!、という感想を持ってしまうことを、止めることはできないのだ







ウグイス(ウグイス科)
「藪鶯」、広辞苑で引いても「藪にいる鶯」としか書いてない(笑)!中勘助「鳥の物語」に、「鶯の話」という章があって、冬場の鶯は、里に出てきて、灌木の低い茂みの中で、ちっとも「ホーホケキョ」とは歌わず、「ジュ、ジュ」、「チャッ、チャッ」みたいな「地鳴き」ばかりして蠢いている、私たちの美しい歌声を妬む者がいるから、黙っているように、と、母鳥が、巣立ち前の子供たちに訓戒を垂れるシーンがあったように記憶していたのだが、いま読み返してみると、記憶違いだったみたいだ、・・・、いずれにしても、春にならないと、「ホーホケキョ」とは鳴かないのは、それが「求愛」の歌だからなんだろう、だから冬場は、地味な「地鳴き」ばかり、そんなわけで、この「藪鶯」なる言葉、「冬」の季語であるらしい、・・・、ここ数日、隣家の、それこそ灌木の茂みから、朝方、さかんにこれが聞こえるので、何度も何度もカメラを抱えてまろび出る(笑)のだが、遠目にその姿を認めることはできても、すぐに葉陰に隠れてしまうから、そのたびに落胆して(笑)、部屋に戻る、ということを繰りかえしていた、久しぶりの快晴の今日、カメラをぶらさげて出かけようとしたところ、通りに面した民家の植え込みに、こいつを見つけた!・・・「やぶうぐいす」検索(笑)のついでに、次のようなものが引っかかった、・・・、「藪の鶯(1888)」三宅花圃(1869-1943)、女性が書いた初の近代小説として知られる、とのこと、・・・、この作者の名前には聞き覚えがあった、「田辺花圃」という結婚前の名前だったと思うが、樋口一葉(1872-1896)の日記にしばしば登場していたはずだ、中島歌子の「萩の舎」では、一葉の先輩にあたり、この「藪の鶯」の原稿料が、33円、下の、宮本百合子の評論によれば、「二十五円の月給が立派に通用していた当時」、とのことだからかなりの高額であろう、という話を聞いて、生活苦のただなかにあった一葉に、小説家として立つ決意を固めるきっかけとなったと言われる、「雪の日」を「文学界」に発表したのは、田辺花圃の紹介による、とのこと

「婦人と文学(1948)」宮本百合子(1899-1951)
・・・
で、一読してみたが、・・・、高橋源一郎は、「日本文学盛衰史」を書くに当たって、おそらくものすごい数の、「明治」の小説を読んだのだろうけれど、そのほとんどが、「どうしてこんなに面白くないんだろう」と、感想を漏らしていたが、僭越極まりないが、それと「同感」ということで済ませておこう、そもそも、比喩でもなんでもなく「藪鶯/やぶうぐいす」という鳥について話すつもりの、単なる「ついで」だったのだから、文句を言う筋合いでもなかろう、その表題は、どうやら、内容、物語の筋、には何の関係もなく、「こんな若輩者が、小説を書かせていただくなんて、冬場の鶯が、木立の中でぶつぶつ、美しくない声で鳴いているようなものでございます」、みたいな「謙遜」の表示なんだと思われる、・・・、中身と何の関係もないタイトルと付す、というのは、この時代の小説には、しばしばあり得たのかもしれない、と言っても、思い浮かぶのは、漱石の「彼岸過迄」、朝日新聞の連載が、彼岸過ぎまでには終わるでしょう?、みたいなある種、人をなめた命名だったと言われる、ぐらいだけれども、・・・、
「ウグイス」の名の由来は、「法法華経」などと言われる以前、その声が「うー・ぐい」と聞きなされていたからだ、と言われているらしい、なるほど、口ずさんでみると、その方がむしろ「リアル」(笑)かもしれない、「ホーホケキョ」は「縄張り宣言」なんだそうで、だから、繁殖期にならないとそうは鳴かず、冬場は藪で、ごそごそ「地鳴き」しかしないことになる、英語名が、Japanese bush warbler、「warble」はヨーデルのように声を震わせて歌う、の意だそうで、いずれにしても、ここにも「藪bush」が登場するわけだね、・・・、

アオアシシギ(シギ科)

ヒドリガモ(カモ科)、アオアシシギ(シギ科)

アオアシシギ(シギ科)、ヒドリガモ(カモ科)、オオバン(クイナ科)

ヒドリガモ(カモ科)

ハシビロガモ・オス(カモ科)、アオアシシギ(シギ科)

オナガガモ・オス、ハシビロガモ・オス(カモ科)、アオアシシギ(シギ科)

ハシビロガモ(カモ科)・オス

アオアシシギ(シギ科)

ヒバリシギ(シギ科)

ヒドリガモ(カモ科)、アオアシシギ(シギ科)

アオアシシギ(シギ科)

ヒドリガモ(カモ科)、オオバン(クイナ科)、カモ科の鳥は、「性淘汰」が著しいことで知られるらしい、主にオスのみが、繁殖期が近づくと「婚姻色」と呼ばれる派手な衣装に「着替える」わけだ、今は、その繁殖期が終って、越冬のために、南に渡って来たばかり、その中には、今年生まれたばかりの「当年子」も含まれているのだろう、だから、まだ、オスとメスの別もはっきりしないような、くすんだデザインのものが多いのだ、もちろん個体差もあって、すでにくっきりと、オスと分かるものもあるから、そんな場合には、そう、キャプションに書いておいたが、メスなのか、派手になるまでのオスなのか、はっきりしないのには、性別を書かないでおくことにしたのは、そういう理由、・・・、年が明けて、だんだん、春が近づいて、北へ向かう頃になってくると、めきめきと、鮮やかな色に生えかわっていくのだ、オスはもちろんだし、メスの方だって、心なし、かもしれないが、地味は地味なりに、くっきりとした色合いになっていく、・・・、

ダイサギ(サギ科)



サシバ(タカ科)、「ぴっ、ぴゅいーっ」という声が聞こえてきたから、車を停めて、遠くの山の中腹、双眼鏡を使っても、「点」にしか見えないのだが、梢に止まっているらしいものを狙って、当てずっぽうでシャッターを切っただけだから、撮っているときは気づかなかったが、なるほど、こんな重たいものが乗っかれば、枝もしなるだろう、大きく揺れていて、そのたびに、こいつも、首をすくめたりのばしたりでバランスをとっているようなのだな、もう夕刻だから、ここがねぐらになるのだろうか、付近には、鷺たちもやはり梢で休んでいる、あのくらい巨大な身体だと、こんな小ぶりな「猛禽類」、恐れるに足らないらしい、・・・、「当てずっぽう」、「当て・寸法」の音便なのだと思っていたが、広辞苑を引いても(笑)、語源については何も書いていない、・・・、へえ?違ったみたい、「当て推量(あてずいりょう)」→略語化→「あてずい」→擬人化→「あてずい坊」→音便→「当てずっぽう」、とのことであった、ということは、「推量」という漢語は、明治維新後の「発明」ではなく、漢籍由来のことばが、江戸時代に、すでに人口に膾炙していた、ということを意味するのだろうか?

スズメ(ハタオリドリ科)







フヨウ(アオイ科)

ハクセキレイ(セキレイ科)

ウグイス(ウグイス科)





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Last updated  2022.12.19 11:07:21



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