カテゴリ:歴史/考古学/毛人
今回は、東八木、阿曽岡・権現堂の甕を分析する。東八木遺跡と阿曽岡・権現堂遺跡は高田川を挟んで500m程の距離があるが、報告書も一緒になっているのでまとめて扱う。
分類結果 「東八木、阿曽岡・権現堂」 土器分類(在来系は「おぢさん」シート、外来系は「成塚向山」シート参照) 鏑川上中流域弥生後期4期~古墳前期土器分類 鏑川上中流域のエリア区分(遺跡の位置もこちらで) 鏑川上中流域の弥生集落分布 東八木遺跡Ⅰ区からは弥生時代後期の住居址7軒が検出されている。阿曽岡地点からは弥生時代後期の住居址が58軒、古墳時代前期住居址が4軒検出されている。権現堂地点Ⅰ区からは弥生時代後期6軒、Ⅱ区からは古墳時代前期6軒、Ⅲ区からは弥生時代後期25軒、古墳時代前期9軒の住居址が検出されている。権現堂地点は全面調査ではなく道水路部分のみの発掘のため、さらに多くの住居が存在したことは確実視されている。 周辺には宇田恵下原遺跡、一ノ宮押出遺跡、宮崎浦町遺跡、黒川小塚遺跡が存在する。おそらく、弥生中期後半以降、位置を変えながら集落が継続して営まれていたのだろう。 同遺跡の古墳前期の土器の様相は混沌としている。吉ヶ谷、南関東、北陸、東海などの要素が、あまり溶け合わずに共存する。深澤敦仁氏が示した古墳前期の1期の様相がよく表れている。 引用の「1期」部分を参照。 鏑川上中流域弥生末期~古墳前期土器の変遷見直しの為の地ならし(おぢさん) 遺跡全体を見渡すと、時期も土器の傾向も多様で途方に暮れるのだが、住居毎に決まった系統に属していると思われる場合が多いことが分かった。住居を土器のタイプで見ていくと以下の4つの系統に分類できる。 樽式系:櫛描簾状文と波状文が指標となる。 吉ヶ谷系:頸部輪積みと縄文が指標となる。 北陸系:口縁部の面取りと尖った底部(千種甕)、直立幅広の口縁(月影甕)、 装飾器台が指標となる 東海系:S字甕、有稜高坏が指標となる。 樽式は当地で弥生中期後半の竜見町式から継続する在地様式である。この地域では樽式の3期区分での2期から縄文を施す吉ヶ谷式の影響がでてくる。3期にはほぼ在地化し、融合する現象も起きている。この吉ヶ谷式に始まる東南方向からの影響は、所謂4期に南関東からの影響となって継続するのだろう。 今回は北陸や東海の影響よりも、吉ヶ谷式を含む在地様式が依然優勢な住居を観察していく。 樽式系住居 阿曽岡20、阿曽岡54、権現堂Ⅲ区172の各住居が該当し、甕では A1Ra のタイプが圧倒的に多い。頸部輪積痕や縄文を施すものが少数見受けられる。これらの住居では外来系土器は見られず樽式の3期と考えてよさそうだ。 〔左〕阿曽岡54号住居2(A1Ra) 〔右上〕阿曽岡20号住居7(B1Ra) 〔右下〕阿曽岡20号住居6(A1Ra) 吉ヶ谷系住居 阿曽岡47、阿曽岡65が典型的なものと言える。甕では B1Ra(頸部輪積痕があり、櫛描文を施す)の頻度が一番高くなる。樽式系住居の段階から継続するタイプであり、外見上特に変化は見られない。縄文を施すものの頻度も上がる。樽式と吉ヶ谷式が並存する中に南関東系と思われるものや北陸系が少数みられる。これが樽式系住居の次の段階に位置付けられるだろう。 〔左〕阿曽岡47号住居6 〔右〕阿曽岡47号住居10 〔左〕阿曽岡47号住居4 〔右〕阿曽岡65号住居1 帯縄文と強い球形胴志向と赤彩。弥生町式などの帯縄文土器文化圏からの影響を疑う。類例を探したい。 〔左〕阿曽岡65号住居21 〔右上〕阿曽岡47号住居18 〔右下〕阿曽岡65号住居20 ハケ調整で口縁部に刻みの入る単口縁台付甕は、おそらく同時期の南関東でも一般的。あまり自信がないが〔左〕の台付甕は器形的に科野方面からの影響ではないかと感じる。〔右上〕は月影甕の影響でよいとして、〔右下〕もハケ調整と器形の類似から北陸系と見てよいだろう。 このように、在地様式が依然支配的ながらも、他の様式に属する土器が少数認められるのが、この時代の様相だ。 土器の図は富岡市教育委員会 1997『東八木遺跡、阿曽岡・権現堂遺跡』から採った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.09.27 21:29:24
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