みんな痛いけど痛くない
マラソンの前夜は緊張の為4時間くらいしか眠れなかった。 初心者のミス第一である。それに前の日は会社の帰りに通勤電車とバスの事故の直後に当たってしまい、家まで10km位歩いて帰るはめになった。 こんな時に限ってヒールの高い靴をはいていた。 これは初心者ミス第2だろう。 おかげで朝4時半に目が覚めてしまったら、右足の太ももが痛い。昨晩マッサージでもしておくんだった。ミス第3。これだけ言い訳は出来たが、前日までの意気込みと綿密なスケジュールは寝不足でかなり薄れ気味だ。 いかんいかん、頭をはっきりさせなければ、と思ってついついコーヒーをがぶ飲みしてしまった。 そうだ、コーヒー、紅茶の類はだめなんだっけ。 まあいいか。スポーツドリンクを買い忘れていたのでウォーミングアップを兼ねて自転車で買いに行ったらやっぱり太ももの外側の筋肉が痛む。 今までそんなことは無かったのに。 昨日のハイヒールでの遠征がきいたのだろうか。2時のスタートまで時間は有り余るほどあったので、緊張をほぐす為にコンピューターゲームを始めたらあっという前に時間がたってしまった。もうミスを数えてもショウガナイ。そういえば昼食は10時に食べるんだっけ。 気がついたらもう12時である。 これはまずい。 もうすぐ出かける時間だ。 そうだ、ワセリンを塗るんだった。ワセリンの後に日焼け止めを塗ろうとした為、手はべとべとだ。そういえばキノシロテープも貼らねば。 昨夜貼り方をYoutubeでチェックしたはずだが、2通りの図を書きなぐっておいたメモを見ると、どっちが半月ばん用でどっちがランナー膝用か書いていなかった。 ええいっ、どっちも似たようなものだ。 膝頭の周りにぐるっと貼って出かける。そうだ、今日はマラソンだからバスは無いのだった。 しかたなく森の中を通ってスタート地点まで行ったときはもう直前。 持つものは前夜に用意してあったので全て持っているが、メンタル最終チェックなんてしている暇もなくスタート。最初はキプロスのランニングチームの後ろについて走ったが、彼らは皆超ミニのランニングパンツをはいていたので目のやり場所が無くなって追い越した。 ランニングに集中しなければ。2km地点で残りは40kmか、と思う。 まずい。ゴールまでの残りの距離は考えるな、と皆に忠告されていたのに...あと39,5kmくらいまで来たかな?そんなこんなで14km位までは訳も分からずに走ったが、その地点でウォーターボトルを持って待っているはずのダンナが見つからない。私は小さなボトルにスポーツドリンクを詰めて手に持って走ったが、そこでダンナが新しいドリンクを、その先で次男が又補充、という綿密な計画を立てていた。しかしそこにダンナがいないと、次の次男は私の通過時間が分からないのでこの計画はおじゃんになる。 そうするとコントロールで給水しなければならない。 それはそれで良いのだが、使える者は使っておいたほうがとくだ。しょうがないから携帯で次男に電話をかけるが、出ない。 マラソン途中で電話をかけるランナーはあまり見たことが無いが、今回は私のレポタージュを書いている物好きなジャーナリストの希望で仕方なく持参。あ、いたいた。だんなは間違えて次のコントロール地点にいた。 今日初めてのビンゴである。 新しいボトルを受け取って、ついでに冷やしたスポンジを次男に注文。 そのたった3km先でゴマクッキーと共に受け取る。 素晴らしい贅沢だ。 ストックホルムマラソンのコースは我が家のすぐ近くを2回も通るのだ。家の表通りではご近所、友人の声援を受ける。 ここまでは脚の痛みもそれほど感じずに足取り軽しだ。そんな調子で18km位まで来た時、道端で会社のボスと娘が立って声援している。 おやおやご大層に、と思いながら手を振って通り過ぎようとするとボスは懐からビニール袋を2つも出して私に渡す。受け取って走りながら中身を見たら、片方の袋には氷がぎっしりと詰まっていて、もう片方にはエネルギーバー3本とドライフルーツやおつまみが入っている。 これからは町並みを外れて草地や島を走るので、すこし速度を落として遅い昼食というのも悪くはないが、両手は既にドリンクとスポンジでふさがっていて、それにビニール袋2つではなかなか事はうまく運ばない。 それに準備する時間のなかったIpodは、さっきからフランス語会話集だ。なんとか氷を処理して、他のランナーのうらやましそうな視線を無視しながらエネルギーバーを平らげ、おつまみを鳥にやった時には満腹で苦しくなった。21,1km、なんだまだ半分しか来てないじゃないか。 あ、いけない。また距離の事を考えてしまった。 でも若葉マークなんだから考えるな、と言う方が無理である。28km地点からは又街に戻るので、その前にトイレに行くチャンスがあるだろうか。 この付近は普段はトイレの列が短い。なぜなら観衆の少ないこの自然地帯では男性はいちいち簡易トイレなんかは使用しないからだ。 女性の一部にも自然トイレで済ますランナーもいるが、あいにく今日は最高のピクニック日和なのでなかなか良適当に隠れた場所は見つからないかも。あったあった、誰も並んでいない。 喜んで駆け込むが、手に持ったボトルとスポンジをおく場所がない。口にくわえる。 しまった、Ipodはパンツの後ろのポケットに入れていた! 危機一髪で立ち上がる。 イヤフォーンのケーブルをシャツの中にくぐらせていたのでIpodをポケットから取り出すのにやたら時間がかかり、ボトルとスポンジをくわえた口が痛い。なんともいえない光景だ。ついでに少しストレッチもしてやっと走り出す。かなり時間をロスしてしまった。 まあいいや。あと半分も残ってるんだから。30km地点で4時間30分のペースメーカーをしていたトレーニンググループのリーダーに追いつく。 ずい分のんびりとしてしまったものだ。でもこれからの12kmが厳しいとみんな言っていたっけ。あと10kmは私のテリトリーではないので差し入れはないし、それに長い橋がある。橋を渡り終えた35km地点で、膝と脚がきりきりと。 今までスムーズにいったのはやっぱりテープが利いたからだろう。何回か立ち止まってストレッチをしたが左足は毎歩電気ショックが貫くようだ。40km地点は家の近くだったので思わずギブアップしそうになったが、リーダーがもう一息だ!というので悪態をつきながら我慢した。 彼は私よりずっと前にスタートしたので、まだ余裕で4時間30分以内にゴールにつけるチャンスがある。41km地点ではもうゴールのスタジアムにほんの僅かだったが、電気ショックはますますひどくなり脚に力が入らない。 ここでくじけては一生後悔する、と思ったが本当に転びそうになった時にリーダーに首根っこをつかまれた。私は膝が痛くてもうだめだ、と告げると彼はその日聞いた言葉(ろくな言葉はあまりなかったが)の中で一番賢い事を言った。 「いや痛くない」まるで神のお告げだ。 そうだ40km走った後にどこも痛まないランナーなんているものか。 みんな痛くないと自分をだましながら走っているのだ。それで急に元気になった単純な私は「痛くなくなったからラストスパートをかけるからね。」と言い残して最後の1,2kmを全速力で走った。この間数百人を追い抜いたに違いない。 私のラストスパートを見た長男と次男はおったまげたそうである。ただこの間携帯に電話が何度もかかってきた。勿論出なかったが、気の利くジャーナリスト氏がゴール後に落ち合う場所を確認しておきたかったそうだ。ストックホルムマラソンコースは景色が良いし走りやすいコースで初心者には最適かもしれない。 一番厳しい所はゴール後に降りる階段だろう。結果はメダルと足の爪変色が5本と痛かった太ももがなぜか一面内出血していた位の軽症だ。次男はダンナに感慨深そうに言ったそうだ。「あんなひどいランナー達も参加出来るんだったら僕も走ってみようかな」青二才め。4時間の間にはいろんなドラマがあるんだ。なあんて次回は4時間以内で走る積りの私である。