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カテゴリ:言語あれこれ
先週、空いた時間を利用してようやく読むことができました。 国際派の数学者が説く「国語教育絶対論」。 この本で一番印象に残ったのは、 美感や調和感なくしては、いくら論理的思考力が抜群であっても、どちらの方向に論理を進めてよいのかわからない。…中略… 美的感受性の重要性は、私の接した自然科学者のほとんどが、その分野でも同様に大切と言ったから、自然科学全般にあてはまるのだろう。 の部分です。 個人的にはかなり旬な話題なだけに、感動も一入です。 文章が汚くていいわけがない。 それは、自然科学の一領域である医学ももちろん例外ではない。 この部分を読んで、自分の目指している方向は間違っていないと確信がもてました。 「国語教育絶対論」に書かれていることはどれも大切なことなのですが、 もう一箇所、大きく頷いたのは、 国語が思考そのものと深く関わっていることである。言語は思考した結果を表現する道具にとどまらない。言語を用いて思考するという面がある。・・・中略・・・人間はその語彙を大きく超えて考えたり感じたりすることはない、といって過言ではない。 の部分です。 持ち合わせている語彙が多いほど、細かい思考ができ、 少ないほど、思考も大雑把になるというわけです。 「細かい言葉の使い分けなんて不要」と思っていらっしゃる方などはまさに、 後者の道をまっしぐら、といったところでしょうし、 著者に言わせれば、「情緒のひだ」までなくなってしまうことになります。 ところで、この本の帯の裏のところには、 著者を「華麗なる文章家」と評する表現があるのですが、 本書の前半部分である「国語教育絶対論」を読んでいる限りは、 「そうかなぁ」という感じだったのですが、 後半部分の「いじわるにも程がある」(著者の家庭の風景をつづったエッセイ)に入ると、 その印象は一変。 活き活きとした文章で、 著者と家族の情景がありありと浮かんできました。 前半の「国語教育絶対論」の部分はひょっとしたら、 著者の気持ちの強さと文章がもつ力とのバランスが、 微妙にずれているのかもしれません。 それだけ著者の国語教育に対する思いが強いのだと 私には感じられました。 日本語を大切に思う方ならきっと、 泣けるし、笑えるし、怒れる一冊です。 ↓「1日1回クリック」にご協力ください。 現時点の順位を見てみる お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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