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カテゴリ:東海道
暑いです。昨夜はうなされて何度も目が覚め、寝付けませんでした。おかけでチェックアウトの10時近くまで休んでいました。 お外にでると暑いです。今日も真夏日でしょう。8月と変わりません。今日は出発地点を六郷橋としました。
現在の六郷橋付近です。川崎も大きな町に変身しています。 川崎側の多摩川には碑が立っています。 川崎宿も江戸時代の面影を探すのは難しいが、商店街を歩いて行くと、いくつかの記念碑は見つけられます。また、宗三寺には飯盛女の供養塔がある。個人経営の浮世絵美術館もある。気をつけていればかつての様子がしのばれます。 熱中症になりそうですが、歩を進めます。八丁畷あたりには芭蕉の碑があります。「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」と弟子たちに詠み、別れとしたが、この年没したので、これが本当の別れになってしまった。 畷とあるのでこのあたりは畑が広がっていたんでしょう。自分も歩くたびに出ていると、芭蕉の気持ちが今までよりもわかる気がします。
八丁畷駅の裏には慰霊塔が建っています。最初はわかりにくくて迷っていると、地元のおじいさんが話しかけてきてくれて、一通り観光案内をしてくれた。それで、慰霊碑について聞くと駅の裏手にあるそうな。案内板によると「この付近では江戸時代から人骨が多数発見され、戦後になっても道路工事のたびに掘り出され、その数は十数体にも及びました。記録によると川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などのたびたびの災害での身元不明者を宿はずれの松や欅の並木の下に葬ったのではないかと。地元では昭和九年に慰霊塔を建てた」(要約)。 東海道は人の行き交った街道、人の生き様がありありと現れています。 歩き続けると、魚河岸を通り(店は休日なのでみな閉店)、そして、キリンビール工場が見えてきます。ビアホールもあります。断ち切れない思いを断って、泣く泣く歩き続けます。するとキリンビールの敷地内とのことだが、生麦事件の碑が道沿いにあります。薩英戦争の原因ともなった事件、薩摩藩主の父の行列が生麦村に差し掛かった折り、イギリス人4人が乗馬のまま横切り、一名が命を落とす事になった。
かなり暑い。だんだん意識が朦朧としてきている。幾度と水分を補給し、脱水症や熱中症にならないよう気をつける。運動会で中高生でも倒れるらしいから、おやじはもっと気をつけないといけない。神奈川宿手前で水分を取りながら休んで、ガイドブックを読んでいると、通り過ぎていった自転車が戻ってきた。高齢のおやじさんが、「東海道歩いているのですか?」と聞いてきた。そうだと答えると、私と同じガイドブックを持っているからそう聞いたと、言ってきました。この本は昨日川崎の友人からもらったもんだったけど、まあいいや。話によると、ここ、地元から京都に向かって歩いているらしく、岡崎まで歩いたとのこと。私の地元の方です。しかも、豊橋あたりから先月歩いたらしく、ちょうど多治見で40,9度を記録した日だったそうだ。それで、懲りたらしくて、今度は冬に歩くらしい。それに、冬は青春18切符で歩けるから、夫婦二人で歩くには安上がりだそうです。水分も買ってばかりでは馬鹿にならないから、歩きながら水をもらっていたそうです。皆さんいろいろ苦労されていますね。私も何を好んでこの炎天下に、都会のアスファルトを歩いているのやら。この先の保土ヶ谷からは、一人しかあるけない細いところもあるそうですが。 神奈川宿もすっかり変わっていますね。広重の浮世絵では美しい海岸が描かれていますが、今はビルの林立する大都会です。神奈川という名前が残っているのはいいですね。当時では今の横浜の位置は海の中でした。広重の浮世絵ポイントは台町あたりから海を眺めた感じのようです。今はビルしか見れません。今回は暑さで疲れていたので、神奈川の史跡は巡っていないので、次回(寒くなってからですが)、保土ヶ谷から歩く前に、神奈川駅近辺を歩きたいと思います。浮世絵ポイントも次回にします。 先に進みました。意味があるかどうかわからず、ただ単に歩いていきました。保土ヶ谷宿までです。 なんだかただひたすら歩いたという感じで、記憶が飛んでいます。 保土ヶ谷に着きました。浮世絵ポイントはてくてくのテルくんは移動した現在の帷子川に架かる橋で記念撮影していますが、当時の実際の位置は相鉄の天王町駅横のようです。その公園に作り物の橋の跡がありました。
現在の帷子川にかかる橋。 天王町駅横の公園には橋が架かっている
消耗しきったので、保土ヶ谷駅から鉄道に乗り帰路につきました。これからは、気温に注意して歩行日程を組みたいと思います。それにしても地球は暑くなっています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.09.26 00:52:44
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